59.移動する『扉』
「クリスティーナ隊長!」
セラフィナが声を上げる。
「?」
その隣で、ジェイクはふと奇妙なことに気が付いた。
それまで死を目前にしてなお、悠然と余裕の表情を浮かべていた瀕死の犬面鬼将が、その濁った眼を見開き、犬のような顔を大きく歪めた。
それは、恐らく焦りと、——怖れ。
「ベルトランさん、ヴォルフガングさーん!!待ってー!!その人は私が——!!」
クリスティーナが荒い呼吸を押さえつつ叫んだ、次の瞬間。
「グルァァァァアアアアアアアアッ!!!!!」
口から涎とどす黒い血をまき散らしながら残った左脚だけで立ち上がり、犬面鬼将は驚くほどの力強さで大地を蹴った。
そして最も近くに居たベルトランには目もくれず一直線に、背を向けて離れようとしていたディートクリフに襲いかかる。
「だめ——!!!!」
クリスティーナの悲痛な叫び。
ディートクリフが振り返り、即座に長槍の穂先を瀕死の敵将に向け——
「——俺が殺るっつっただろーが、犬っころ」
犬面鬼将の背後にいたはずのベルトランが、いつの間にか妖魔の正面に立っていた。
その手には赤い長槍。
一泊の後、三本の赤い閃光が奔る。
そして——犬面鬼将の残った身体が四つに分かれた。
それぞれが宙を舞い、一様にどす黒い血しぶきを噴き上げる。
(『扉』の器が死んだ!——次はどの個体!?)
岩壁の残骸の上からクリスティーナは素早く眼下を見回す。
二人の『鍵』の周りに、もはや立っている妖魔はいない。
だが地に転がる者たちの中にはまだ息のある者も見える。
そして——
ゆっくりと立ち上がる一体。
薄っすらと、暗い光を陽炎のように放っている。
それは——ディートクリフの、真後ろ。
次の瞬間、クリスティーナは全力で岩壁の残骸を蹴って跳躍した。
「!」
ディートクリフが振り返り、また槍を構えて迎え撃つ。
「ダメよ!」
だが、それより早く。
一条の稲妻の如く、電光石火の速度で肉薄すると、クリスティーナはディートクリフより先に、手にした輝く細剣でその狼面鬼を一刀両断していた。
「なんなんだ、さっきからあんた達は……」
という不満げなディートクリフの呟きを耳に捉えながら、
(やった!祓った……!これで終わり……?)
クリスティーナは消えない焦燥に不安を募らせていた。
(手ごたえが……全くない?)
その理由はすぐに分かった。
クリスティーナは、死体を真っ二つにしただけだ。
何故なら、狼面鬼は立ち上がってすぐ、自分の爪で自分の喉を切り裂きすでに絶命していたからだ。
(なっ——!)
弾かれたように振り返ったクリスティーナの紅水晶の瞳の視界に、セラフィナの背後でユラリと立ち上がる巨大な個体が映った。
——貴族種だった。
セラフィナたちが岩壁に分断された際、壁を挟んで向こう側で出現した個体だ。
全身傷だらけだが、まだ死んでいなかったのだ。
そして、その体から立ち昇る、どこまでも暗く禍々しい闇のオーラ……!
「なんじゃあ、仕留め切れてなかったのか!」
ヴォルフガングの怒声がクリスティーナには遠く聞こえた。
「しまっ——!!」
クリスティーナの声にならない叫びは、むろん誰にも届かない。
亜麻色の髪の少女にもだ。
「なに?いくら貴族種って言っても、そんな瀕死の重傷で、最後の腹いせのつもり?」
セラフィナは振り返らないまま怒りを抑えた声で呟くように言う。
「それとも、この中で私が一番弱そうに見えた?私ならヤレそうに見えた?——舐めないでよね」
そして唐突に、セラフィナはジェイクの背に渾身の蹴りを入れた。
「ぐへぇ!」
殺気が籠っていないが故に気づくのが遅れたジェイクはその一撃をもろに受け、前につんのめる形で数メートル吹っ飛んだ。
そして石壁の残骸の前にいた〈烈火の組〉のセティーに抱き留められ、何とか倒れ込まずに済む。
「急に何しやがる、このアマぁ!」
「黒焦げになりたくなかったらそこで大人しくしてて!」
「はあ、何言ってんだてめえコラ!」
「待って、フィナちゃん——!!」
ジェイクの非難の声と、クリスティーナの悲痛な叫びが重なる。
犬面鬼将が腕を振りかぶる。
その勢いで、傷だらけの全身からどす黒い血が飛び散り、肉薄したセラフィナの白い顔を汚していく。
「——《火蜥蜴の息吹》!!!」
犬面鬼将の鋭く長い爪が少女の細い首を捉える寸前のところで、セラフィナは振り向きざま短杖を突き付け最後の呪文を紡ぐ。
短杖の先端から目も眩むような爆炎が放たれた。
凄まじい勢いで吹き出されたその火炎は、中空でまるで竜のような形を取り、そして次の瞬間、頭上から犬面鬼の長を一気に飲み込んだ。
至近距離で炸裂する超高温の炎の余波は、セラフィナにも容赦なく襲い掛かる。
先ほどまでジェイクがいた場所ももはや火の海だ。
だが魔力を込めた糸で編まれた魔導機動隊の制服でさえ焦がす強力な火炎も、少女の白い肌や明るい亜麻色の髪一本すら傷つけることはない。
紅蓮の業火が妖魔を包み込む直前、コボルドの王は目を見開き、自分の命を今まさに断たんとする眼前の少女を、その妖魔特有の黄色い瞳で凝視した。
セラフィナもそれを真正面から見据える。
——そして違和感に気づいた。
「……!」
それは敗者の目ではない。
散りゆく命とともに少しずつ濁っていくその瞳に映る感情は——達成感。
まるで与えられた自分の役目を完遂したかのような表情だった。
ゴオオオオオオオオオオオォォォォォォォオオオウッ!!!
犬面鬼将の身体を、巨大な竜のような形をした火炎の渦が瞬く間に飲み込んでいく。
数十秒の後、やがて炎が収まると、中央には直立したまま真っ黒に焼け焦げた犬面鬼将の躯が残されていた。
「……あいつのあの魔法って、あんなに凄かったっけ……?」
ジェイクが放心したように呟くと、
「何言ってんの、キミ?当たり前でしょ。セラフィナの《火蜥蜴の息吹》は高位魔法の中でも“最優”。威力の調整も影響範囲も術者が自在にコントロールできる、最も柔軟で最もコストパフォーマンスの良い魔法だよ。あれ一つ習得していれば、他の火炎系攻撃魔法なんて、使い道がないくらいにね」
彼を支えていたセティーが天高く燃え上がる火炎を見つめながらジェイクの疑問に答えた。
「距離と範囲を最小に絞って、その分出力を最大にすれば……まあ大抵どんな怪物も、ああなるさ」
黒炭と化した妖魔の残骸も、やがてゆっくりと遺跡の石畳に沈んでいく。
——そして次の瞬間だった。
「!!」
それまでゆらゆらとその身体を包んでいた暗いオーラが、一気に膨れ上がって上空に吹き上がる。
「な、なんだ!?」
二番隊の騎士たち、〈烈火の組〉の魔導士たちが狼狽の声を上げる。
「またかよ、オイ!……気味悪ぃな、せっかく斃したって言うのによ」
その光景に既視感のあるジェイクが呟く。
「一体何なのよ、コレ……」
その光景を間近で見ていたセラフィナも、戦慄を覚えていた。
悪寒が止まらない。我知らず、自分の身体を掻き抱く。
セラフィナの眼前には、どこまでも暗い光が、巨大な柱のように曇天に向かって伸びていた。
「……ごめん、ルシアちゃん、カレンちゃん」
セラフィナから少し離れたところで、クリスティーナは崩れるように膝をついた。
「私、止められなかった……」




