40.いつか、またお会いできましたら
第三皇子が魔物に、第六皇女が野盗に襲撃されると言う大事件が起こった翌々日。
ローエンデールの使節団の一行はナディア最北端にして最東端、『国境の街』クレイドルにいた。
二国を隔てる標高六千メートル級の霊峰オルスター山脈。
その麓に造られたこの都市は、名が示す通りローエンデールに最も近い街だ。
両国を分断して延々と続くオルスター山脈の唯一の切れ目となる深い峡谷。
クレイドルの東門を一歩出れば、そこはローエンデール皇国領となる。
襲撃事件で皇族の二人はもちろんのこと、警護団にも一人の死者が出なかったのは不幸中の幸いだった。
数名の重軽傷者も、サンダリアンに帰還後速やかに治療を受け、二日経った現在は誰一人、後遺症はおろか、傷跡すら残らず全て完治していた。
センセーショナルな事件であることに代わりないが、そもそも皇子の我儘で街を抜け出したことが発端であるとして、ローエンデール側も事を大きくする気はないようだった。
もっとも、表立って非難することはなかったものの、ローエンデール側の警護団の中にはナディアの治安を陰で危険視する者も多かった。
なお、魔物に襲われてもまるで動じた様子を見せなかったローレンスだが、妹も同時期に野盗からの襲撃を受けていたことを知ると、激しく狼狽したらしい。
もっとも、アリスは後でオルフェからその話を聞いただけなのでその時の詳細は分からない。
それでも、サンダリアンに帰還したセシリアに駆け寄って無事を確かめ、その細い身体を抱きしめたその姿は、確かにアリスの目にも、常に穏やかで優雅な微笑みを絶やさなかったそれまでの第三皇子とはまた違った印象に映った。
妹想いの兄ならまあ、そう言うものだろうか。
同じ妹を持つ兄として自分はどうなのだろう、と心の中で自問していたところで聞こえてきた、
「私が甘かった。ここまでするのか……それほどまでに"亜人"の血が憎いか……」
という皇子の小さな呟きが、しこりのようにアリスの耳に残っている。
翌日早朝、第三皇子と第六皇女はこの二日間行動を共にした警護団の精鋭たちの他、街に残していた使節団総勢およそ五百名を引き連れて列車に乗り、サンダリアンを後にした。
その後は丸二日間、列車に揺られる旅だった。
過剰なまでに敷き詰められた聖石の線路の上を、絶え間なく大量の退魔香を焚きながら進む、最も安全な移動手段。
車窓から魔物の影も形も見えぬまま、ナディア王国の北方に位置するグランディス地方の横を通り過ぎ、そして今日、『国境の街』クレイドルに到着していた。
オルフェ達三番隊、そしてアリス達七番隊の警護はここまでだ。
ローエンデールの使節団は、今度は自国の列車に乗り換え、皇宮へと向かうことになる。
「——いつかまたお会いできましたら」
別れ際、セシリアがアリスの顔を真っすぐに見つめて言った。
「……その時はまたお話をしていただけますか?」
涙黒子の上の蒼玉の瞳が揺れていた。
泣き出しそうな表情にも見える。
「もちろんです。次はもっとたくさんお話しましょう。お約束します」
幼い皇女は騎士の空色の瞳を見つめて、そしてふと目を伏せる。
「……アリスさま、ひとつセシリアのお願いを聞いてもらえますか」
「?ええ、もちろんです。何なりと」
アリスは小首を傾げつつも、笑顔で頷いた。
「私のことを……セシリアと、名前で呼んでくださいませんか。その、せっかくお近づきになれましたので……」
セシリアは目を伏せたまま、少し照れたように言う。
そう言えばローズとリリィも、ファウンティナで一泊した翌日から彼女のことを名前で呼んでいた。
ナディアでもローエンデールでも、王族を名前で呼ぶのは同じ王族の他は、特に親しい者だけだ。恐れ多い気もするが、外ならぬ皇女自身からの願いなので、無下にはできない。
「身に余る光栄です。……セシリアさま」
それを聞いたセシリアは嬉しそうに、それでいて、どこか淋しそうに笑った。
「……アリスさまからいただいたこのリボン、大切にしますわ」
そう言って最後にもう一度微笑んでから、セシリアは銃士のメーリックとエーヴェルに連れられてアリスの前を後にした。
幼い皇女の最後の表情が何となく気になって、小さくなっていく彼女の背をいつまでも見つめていると、ふと後ろから穏やかな声がかかった。
「どうですか?ウチの妹は」
第三皇子のローレンスだ。
「殿下!」
声の主に気づき、慌てて畏まりながらもアリスがその言葉の意味を測りかねていると、
「いえ、あの子はあなたをとても気に入っているようでしたので」
皇子はさわやかな笑顔で答えた。
彼の隣には、いつもはセシリアの隣にいる侍女のルイジアナが控えている。
「勿体ないお言葉です」
「今はまだまだ子どもですが、あと三、四年もすれば美しい娘になると思うんですけどねぇ。……まあ、馬鹿な兄の贔屓目ですが」
「?それはどういう……」
「いや、例えばウチの妹を、アリスさんのお嫁さんにどうかなと思いまして」
「で、殿下!?な、なにを仰っているのです!?」
アリスは空色の目を見開き、慌てて周囲を見回した。あの銃士が訊いていたら、問答無用で発砲されかねない。
「皇女殿下は貴国の姫君であらせられますよ……!」
思わず声を潜めるアリスに、ローレンスは肩を竦めて笑った。
「所詮はたかが六番目の、しかも半妖を母に持つ忌み子ですよ」
「……そ、それでも、姫君であることに変わりはありません」
「おや、ナディアは身分や出自に捕らわれず自由を尊ぶ国では?それにあなたは、私たちと同じ、妖精の血を引いていらっしゃるようですしね」
「それは……」
それが彼の国の中でどのような意味を持つのか、アリスには想像することくらいしかできない。
「……それにね」
ローレンスはどこか遠い目をして続けた。
「時々思うのですよ。魑魅魍魎が跋扈する皇室に縛られて生きていくのが、あの子の本当の幸せなのかと。……私が静かにしていれば、少なくとも命だけは無事なのかもしれないが」
「魑魅魍魎……」
何をご冗談を、とアリスは直ちに否定しきれない。
アリスは何と言っていいか分からず、言葉に詰まった。
「ははは。ちょっとした冗談ですよ。お気になさらず」
代わりにローレンスの方が悪戯っぽく笑った。
「殿下……聞く人によっては冗談になりませんよ……」
アリスは辛うじて、それだけ言った。
「ははは、失礼。ちょっと貴国の解放的な文化に触れて楽しくなってしまいました。……まあ、私以外にも、羽目を外し過ぎた者もいたようですが」
「……?」
「いえ、何でもありません。では、私のくだらない冗談はさておき——」
ローレンスはふと笑顔を収め、真顔でアリスを見つめた。
「——この度は妹を守っていただき、本当にありがとうございました。もしまたどこかでお会いすることがあれば、その時もどうか、妹をよろしくお願いします」
そしてあろうことか、アリスに向かって深々と頭を下げた。
「で、殿下!?何を」
だが、隣に控えるルイジアナも同様に深く首を垂れていた。
「それでは、またいつか」
そう言って皇子は踵を返し、妹の方へと歩いていく。
ルイジアナもそれを追い——そして振り返って、もう一度深々と頭を下げた。
アリスは遠くなっていく皇族の兄弟と侍女の背中を、複雑な思いで見送っていた。




