26.泉からの唄声
朝、セシリアが目を覚ますと、厚手のカーテンの隙間から暖かい朝の陽が差し込んでいた。
ベッドから身を起こし、窓まで歩いていく。
カーテンを開くと、眼下に広がる美しい庭園が見える。
窓を開けると涼しい風が頬を撫でた。
時計を見るとそろそろ六時になろうというところ。
昨日は遅くまで起きていたのに、随分と早く目が覚めてしまったようだ。
これから日が昇るにつれ気温も上昇していくはずだが、今は空気もひんやりしていて心地良い。
セシリアの寝室の窓に面した裏庭は、確か昨日の晩はアリスが警護に当たっていた筈だ。
皇女のセシリアには警備体制の詳細は分からないが、朝になって、今は七番隊の別の誰かが担当になっているのだろう。
もっともここから人影は見えないが。
「昨日は、本当に楽しかったですわ……」
セシリアは窓枠に肘をついて、誰にともなく呟いた。
「?」
その時、ふと、裏庭の庭園から微かに歌うような声が聞こえた気がした。
(唄?……綺麗な音色)
しかしその声はとても小さい。ともすると空耳のようでもある。
(何かしら)
好奇心に駆られた幼い皇女は、薄いカーディガンだけを肩に羽織ると、そっと寝室の扉を開ける。
部屋の前には、メーリックか、そうでなければローズかリリィが待機しているかと思ったが、誰もいなかった。
ルイジアナの姿も見えない。
——今も唄声が微かに聞こえる。
セシリアはその声を追って、階段を下りていく。
一階に着き、裏庭に向かう途中で厨房の前を通りかかった。
このホテルでは、メインのレストランとは別に、いくつかキッチンが設置されていた。
自分で料理をしたい客のためなのだろう。
中を覗くと、ローズとリリィ、それにルイジアナの背中が見えた。
食欲をそそる優しい匂いがする。
ルイジアナは料理が得意だ。
もちろんセシリアの食事は専門のシェフが作ることがほとんどだが、時々ルイジアナも手料理を振る舞ってくれる。
本人に言わせれば趣味程度、と言う話だが、彼女の料理はどこか懐かしく優しい味で、セシリアは大好きだった。
今日もどうやらルイジアナが何かを作り、ローズとリリィがそれを手伝っているようだ。
三人が楽しそうに談笑する声が聞こえる。
セシリアは自分の侍女が同じくらいの年頃の少女たちと仲良くしているところを始めて見た気がした。
本当なら声を掛けるべきなのだと思う。
でも、彼女が声を掛けたら、おしゃべりは終わってしまうだろう。
皇女が部屋から出たら、ローズとリリィは警護につかなくてはならない。
なんとなく邪魔をしたくない気持ちが勝って、幼い皇女はそっとその場を後にした。
——相変わらず、唄声は続いている。
セシリアは厨房を抜けて、裏庭に続く扉を開けた。
艶やかな花々の香りが鼻腔をくすぐる。
庭の中央にある小さな泉は、朝日を浴びてキラキラと煌めいていた。
セシリアはちらっと厨房のほうに目をやってから、そっと中庭に足を踏み入れた。
——唄声が、心なしか大きくなっている。
どうやら、泉の方から聞こえるようだ。
ファウンティナのオアシスや、街の外の水脈にも繋がっていると言う泉。
セシリアは誘われるように、泉に向かう。
それは今日も澄んだ水を湛えていた。
——唄はまだ聞こえる。
……水の中から?
セシリアは泉の中を覗き込んだ。
ゆらゆらと揺れる水面。
どこまでも静謐で清らかな水を湛えるその泉を見ていると、吸い込まれてしまいそう。
透明で澄んだ水は奥深くまで見通せるが、それでも底が見えない。
皇女は少しでも水の底を見ようと、身を乗り出して角度を変えた。
すると光の反射で、鏡のように自分の顔が映る。
ゆらゆらと揺れる水面を覗き込む自分の顔。
プラチナブロンドの髪に、蒼玉の瞳。
そしてその小さな口はパクパクと動いている。
——私、唄っている?
——そうだ、美しい唄声。それを水面に映る自分の顔が紡いでいる。
ふと、自分の顔が笑った——いや、嗤った。
「?」
ゆらゆらと自分の顔がぼやけ、そして
「……会いたかったわ。なんて綺麗な子かしら」
いつの間にか美しい女が水の中にいる。
深い緑色の長い髪。
みずみずしい肌は薄緑。
そしてその瞳は——濁った黄色に黒い縦長の瞳孔。
「こっちへいらっしゃい、可愛い子……」
泉から細く繊細な指が、しなやかな腕が、セシリアに差し伸べられる。
セシリアはその手に自分の手を重ねようと——
「セシリアさま?」
ふと背後から声がかかり、セシリアははっと振り返った。
中庭の扉の前には、赤い髪の長身の少女と、水色の髪の小柄な少女。
「ローズさま、リリィさま……」
セシリアが呟くように二人の名を口にすると、
「そんなにお顔を泉に近づけたら、御髪が濡れてしまいますよ」
ローズが不思議そうに首を傾げた。
「……どうかなさいましたか?」
リリィも心配そうに寄ってくる。
「え?あ、いえ……」
セシリアは振り返って、泉をもう一度見る。水は変わらず透明で、キラキラと光を反射している。
そこに映るのはどこか呆然とした自分の顔。
何か、たった今まで夢を見ていたような気もするが、思い出せない。
泉にも庭園にも、別におかしなところは何もない。
「なんでもないですわ。私ったら、ちょっと寝ぼけてしまっていたのかも……」
セシリアはローズ達に向き直って、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「ふふ、昨日は遅くまで起きていらしたのに、こんなに早くからお目覚めですからね。ちょうど朝食の準備ができたんですが、どうなさいます?もう少しお休みになられても良いかも……」
ローズがセシリアに手を差し伸べる。
幼い皇女はにこっと笑ってその手を取った。
「いえ、私お腹がすきましたわ。先ほど、とっても良い匂いがしましたの」
「じゃあ、朝食にしましょう。今日はルイジアナさんの手作りですよ……あ、ちなみにあたしとリリィも手伝ったんですよ!」
「わたしたち、野菜の皮をむいただけだよ、ローズ」
リリィもセシリアの隣に来て、三人で中庭の扉へと向かう。
そこでふと、リリィは何かが気になって、泉を振り返った。
少しだけ水面を見つめ、
(……気のせいかな)
踵を返し、皇女と幼馴染の少女の後を追った。
Ψ
「……邪魔が入ったわね。あとちょっとだったのに」
彼女は忌々し気に呟いた。
「まあいいわ。今はまだ早い。あの女二人は、今の私には手に余る……あと一つ、最後の『扉』が開いてから……」
誰もいなくなった中庭の泉から、顔だけを出していた彼女は、名残惜しそうにもう一度少女たちが入っていった建物を一瞥してから、ちゃぷん、と小さなしぶき一つを残して中庭から姿を消した。
お読みいただきありがとうございます。
ここまでで第三章『忍び寄る闇の子ら』は終わりです。
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第四章は『【銀弾】のオルフェ』。ハーフ・レプラコーンの三番隊隊長オルフェが活躍します。
是非読んでいただけると嬉しいです^^




