第7話 始まりの夜
「それで、今日は本の入れ替えをしたんですけど、箱を持ち上げたら木箱を落として、そのまま頭に落ちてきてシャツも破れちゃって~」
「ああ……」
ソフィアと向かい合っての二人だけの夕食。僕が一方的に話し、ソフィアが仕事のことを考えて少しうわの空なのはいつものことだ。
「そうか……、そうすればいいのか!!」
ガタリと音を立ててソフィアが立ち上がり、書斎の方へ向かった。
「えっ?もう食べないんですか?」
「ああ、ちょっと調べたいことがあるんだ。もう片付けといていいから」
そう言うとソフィアが書斎のドアノブに手をかけて、それから僕を振り返った。
「ローブの裾がほつれていたぞ!ちゃんと縫っておいてよ」
「はい、わかりました」
「きちんと家事をするって約束で働きに出ることを許してるんだからね。家のことも手を抜かないでちゃんとやってよ!」
ソフィアの背中を見送り、書斎への扉が閉まるのを見届けてからため息をついた。
僕だって色々大変なんだし、あんな言い方ないじゃないか……。
無意識にそんな言葉が頭に浮かび、すぐにそれを振り払うように首を横に振った。
だめだ!!こんなこと考えちゃ。ソフィアは仕事が忙しくてイラつくときもあるけど、本当は優しい人なんだから。
僕はテーブルの上の食器を片付けながら、ソフィアの優しさを感じたあの晩のことを思い出していた―――
―――あれは、僕がこの世界に転移して1か月くらい経ったころだったか。
それまでは異世界に転移した実感がなく、毎日夢を見ているような現実感のない日々を送っていた。
頭では現実がわかっていたけど、慣れない世界での生活と家事に追われ、思い悩むような暇はなかった。
だけど、この世界に慣れ、少し生活に余裕ができると、急に不安が襲って来た。
僕はいつ元の世界に戻れるんだろう?もう1か月も勉強してないけど、来年の受験に間に合うんだろうか?
いや、そもそも元の世界に戻れるのだろうか?
それよりもお母さんを一人で残して来ちゃったけど、心配してないだろうか?
転移した日の朝、家を出る時に「不合格だったらどうするの?」って暗い顔で言われて、思わずイラっとして「うるさいな!」って怒鳴っちゃったけど、あれがお母さんとの最後の会話になっちゃうのかな?
この日も家事を終えて、夜に台所の端に作ってもらった簡易ベッドに入ると、そんな思いが頭をグルグル駆け巡り、気づけば涙を流していた。
しかも涙を流してしまうと、そのまま感情の奔流が止められなくなった。
どうしよう?声をあげて泣けば少しは気持ちが落ち着くかもしれない。
そう思ってシーツに顔を当て、息を殺して嗚咽を漏らした。
だけどまったく逆効果だった。
かえって、次から次へと不安と絶望が湧き出して胸が詰まり、嗚咽を止めることができなくなった。
「グスッ、ヒック、ヒャック‥‥」
嗚咽でうまく呼吸ができなくなり、気づけばシーツで顔を押さえるのも忘れて胸を掻き毟っていた。
息苦しい…。このまま死んじゃうのかも。
でもいいか。元の世界に帰れないなら死んでも構わない……。
その瞬間、何か温かいものに包まれる感触があった。
「どうした?寂しくなったか?」
いつの間にかソフィアが僕の背中を優しく抱きしめていた。
「お、お母さんを置いてきちゃって……。一人で……ケンカをしたままで…」
「大丈夫だ。落ち着いたら、また会いに行けばいい」
「もう会えない。もう帰れない……」
「そうか……」
僕を抱きしめる腕の力が強くなった。
「あたしがいる。これからはお母さんじゃなくて、あたしが君を守ってあげる。だから心配いらない」
僕はソフィアの方へ向き直り、彼女の胸で涙を流した。彼女の胸がびしょ濡れになるくらい泣いた。
全然知らない世界。誰も知り合いもいない。だけどこの人がいてくれる。
気づけば僕も彼女を強く抱きしめていた。そして、そのまま自然に、彼女と結ばれた――
――ソフィアには厳しいことを言われることもある。あんなに冷たい態度を取らなくてもいいのにと感じることもある。
だけどあの夜、ソフィアが本当は優しい人だってわかった。あれが本当の彼女の姿。だから、彼女を信じて一緒にこの世界で生きて行こうと思えた。
僕が仕事を始めても、バフが使えるようになっても、これからもソフィアのことが一番であることは変わらない。
あらためてそう決意した。




