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03:「あぁ――どうして泣いているの」(笑っていてほしいのに)
あなたを喜ばせようと思ったのよ。でも上手くいかなかった。
駄目ね、やっぱり私じゃあなたを喜ばせられない。
あなたの笑った顔が見たかったのに。
「あぁ――どうして泣いているの」
泣かないで。
ねえ、笑って?
「――笑えるはずなど、ないだろう」
死にかけている人間を目の前にしてヘラヘラと笑っていられるほど、彼は非道な人間じゃない。
知っている、そんなことくらい。
ずっと昔から見てきたのだもの、そんなことくらい、よく知っている。
「馬鹿か、お前は」
その悪態は懐かしくて、暖かくて、怖くもあって。
だけどずっと欲しかったもの、で。
「――馬鹿が」
吐き捨てるように呟いた彼の頬の上を、涙が伝い落ちて。
塩辛い雨が私の顔の上に降りかかる。
間遠な間隔で、でも、止むこともなく。ぽつり、ぽつりと。
笑っていてほしいのに。
いつもの皮肉げな笑顔でいい、あの片頬を歪めるような、他人を小馬鹿にしたような、鼻先の笑いでいい。
どんな笑顔でも、あなたには、笑っていてほしいのに。
私はあなたほど頭が良くないけれど、一生懸命考えたの。懸命に考えて考えて考えて。
これが、その結果、だったの――。
■■ 笑顔の対価 ■■
彼は、この古くて小さな王国で宰相の位を預かるものだった。
そして彼女は、この小さな王国が誇る、国外にさえも強い影響力を持つと見做された、古い血を引く貴族の娘。
彼らは。
貴族の子女同士として、親に手を引かれて社交の場に出たときから互いを見知っていた。
互いに目立つ存在だったから、余計だったのかもしれない。
並外れた容貌と、世界で一番と称されるほどに古くから続く王家の血統を引くことも。
彼女に側妃の話があるまでは、彼女の結婚相手は、他ならぬ彼だと目されていた。
彼ら自身も当然のように、それが決まった未来だと思っていた。
自分たちはいずれ結婚して夫婦となり、子を生して、この国の礎の一端となるのだと何の疑いもなく、信じていた。
――何の、根拠さえもなく。
だが、どこかで歯車がずれたのだ。
今まで淀みなく動いていた仕掛けが、ほんのわずかに狂った。
何がいけなかったのだろう。何を、間違えたのだろう。
誰も、何も、悪くなど、なかったはずなのに。
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「救いようのない馬鹿だ、お前は」
酷い言われようね。でも仕方ないのかしら。
あなたには昔から叱られてばかりだわ。
「――どうして、こんな、」
これはあなたを助けるためのはかりごと。愚かな私が懸命に考えた、一生に一度のたばかりごと。
あなたに知られるわけにはいかなかった。あなただけには、絶対に。
だってあなたが知ったら、あなたはやめさせようとするでしょう?
これが最良だって知っていても、私がこうなることを見越して、あなたは駄目だって言うに決まってるでしょう?
あなたはとても、優しいから。私ひとりに泥を被せることをよしとしないから。
例え私のことを憎んでいても、こんな形で私が害されることを認めはしないだろうと思ったから。
だから、知られるわけにはいかなかったの。
あなたはいつでも正しくて、とても厳しい。他人にも、それ以上に、自分にも。
「――死ぬな」
――なのに、そう言ってくれるのね。
あなたには倦まれても仕方がないと思っていたの。顔も見たくないほど、疎まれてしまっても、仕方がないと。
それなのに。
「頼む、死なないでくれ――」
その言葉がどんなに嬉しいか、あなたに伝えられたらいいのに。
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彼女は希代の悪女だった。王国を存亡の危機に陥れた女、それが彼女。
西の大国に王国を売りつけようとした、神をも恐れぬ魔女。
けれど、彼は知っている。
彼女が、この国を生き永らえさせたのだということを。彼女が、たった一人でこの国を守り切ったのだと。
誰にも頼らず、縋ることも出来ず、彼女、一人で。
――王国の対価は彼女の名と命で支払われた。
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「あんな魔女のために流す涙など、ありはしないさ」
そう言った貴族を一瞥して、若き宰相は周囲の温度を下げるような冷笑を浮かべた。
「貴様の涙など、」
彼女に捧げようものなら、この私が手ずから焼き捨ててやる。
涙を捧げた人間ごと。
その時、宰相が見ていたのは。
彼の涙を白い頬で受けて、困ったような、あやすような、それでいて。
輝くような、笑顔を浮かべた彼女の顔、だった。




