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結末が変わる物語

創作が好きな方、そして創作になんだか疲れてしまった方に。

 この本の結末は、読むたびに変わっている。


 俺がそんな絵空事のような現実を受け入れたのは、同じ本を読んで三日目だった。昨日と一昨日につけた読書日記を、震える指でなぞりながらもう一度慎重に読み返す。夏なのに、まるでホラー小説を読んだあとのように、冷や汗が全身の肌を覆っていった。


 一昨日の記述はストレートだ。いつもの俺が書くような、恋愛小説へのやっかみと毒が滲み出ている。ふん、自覚くらいはあるさ。


『もしも、あのとき: 異様に不器用な主人公・直志が、職場の憧れの先輩・美也とのオフィスラブを成就させるべく、ロマンチックな求愛を学んでいく、典型的なラブコメディ。女性の願望が詰まったようなプロットやシーンが多く、量産型のロマンスノベルだった。得するのは、いつも女性側だ。もう読まないだろう。買った古本屋に、売りに行く』


 一方で、昨日の記述は少し違った。


『もしも、あのとき: 売りに行く前に、戯れにエンディングを見返してみた。初回の読破では、ご都合主義の幸せ小説かと思ったが、今回は直志の気骨と美也の現実的な葛藤が見えた。少しは意味のある小説か。今後の執筆のために、ベタな恋愛小説も学んでおくべきか、迷う』


 ここまでは、勘違いや感想の変化で説明できたかもしれなかった。だが今日、とうとう現実を無視できない違いが起こった。


 またエンディングを覗くと、直志はマグロ漁船に乗ることになっていた。思いがけない転職だ。おかしいと思いながらも、俺は直志と美也の行方を尋ねる手を止められなかった。


「『ずっと君に、言わなきゃいけなかったことがあるんだ』」


 ここまでは良い。ここは昨日も一昨日も同じだった。


「『僕、マグロ漁船に乗るんだ』」


 ここから、明らかに何かがおかしい。


「美也は絶句した。」


 当たり前だ。昨日まで直志は散々、美也と付き合いたいと言っていたじゃないか。


「『……冗談でしょう?』


 美也はそう言ったが、直志の真剣な目つきでそれが冗談でないことを悟った。そもそも、直志はそんな冗談を言う男ではなかった。それを一番知っているのは、美也だったはずだ。


『ごめん……。それしか言えない自分が、情けないけど』


 直志はーー」


「直志ーーーーーー!」


 読み終わって、俺はただただ溢れる涙を拭くことしかできなかった。辛いな、直志。この本を読み始めてから、初めて共感した。望まない人生、それが立ちはだかることは、誰にだってあるはずだ。俺だって、俺だって新人賞に入賞さえすれば、こんな狭い部屋で古本を読んでなんていない。


 本の世界から帰ってきて、改めて現実に直面する。もう一度言おう。


 この本の結末は、読むたびに変わっている。そんなことが起こるとは、俺も信じられない。だが、他にどう説明する? 記録がちゃんと残っているのだ。


 いやいや、しかし。俺がおかしくなったのかもしれない。もう一日、もう一日だけ様子を見よう。


 次の日俺は、また問題の一文から読み始めた。


「『ずっと君に、言わなきゃいけなかったことがあるんだ』


 直志は熱い眼差しで美也を見つめた。彼の手が、美也のワンピースのボタンにかかる。


『あっ』


 直志はーー」


「直志ーーーーーー!」


 俺は溢れる鼻血をティッシュで拭いながら、また直志への賞賛を叫んだ。


『もしも、あのとき: 多くは語らない。傑作。本棚の奥で保管すること』


 もう否定できない。俺はおかしくない。おかしいのは、この本のほうだ。


 次の日、俺は久しぶりに原稿に向かった。もちろん、あの本はまた読むつもりで傍に置いてある。だが小説家を志望する者として、本の勉強ばかりもしていられない。自分でも書かなければ。昨日の鼻血が少し滲んだ原稿用紙を拭いて、長机に背を曲げた。


 だがあれだけ本を読んで感動を重ねたにも関わらず、全く書けなかった。


 俺は、自分の経験したことしか書けないタイプの作家なのかもしれない。今書いているのは、泣ける青春小説だ。だがプロットで高校生の恋愛を書けば、好きな相手に告白もできないまま終わる青春しか書けない。ただそれでは、自分の傷を読者や編集者に晒しすぎているようで、心が疼く。


 だが同時に、じゃあ告白して上手くいくハッピーエンドを書こうとしても、


「現実はそんなんじゃなかっただろう? 知ったかぶりか?」


 などという自意識が芽生えて、書けないのだ。


 俺は、うんうん言いながらなんとか文字を捻り出そうとした。無理だった。つまらない人生を送ってきたものの書く小説は、つまらない。俺はペンを投げた。


 あの本を読もう。今度はまた違う結末になっているはずだ。何かの刺激になるかもしれない。


「『ずっと君に、言わなきゃいけなかったことがあるんだ』


 直志は目をぎらつかせながら言った。手に持った包丁が、不気味な光を放った。


『今度は、君の番だよ!』


 直志はーー」


「うわーーーーーー!」


 俺は本を放り出した。ホラーじゃないか。俺が一番苦手なホラー。無理だ無理無理。こんなのは読めない。ましてここまで何日も共感しながら読んだ登場人物が、こんなことになるなんて耐えられない。美也は、美也は無事なのだろうか?


 俺には、それを確かめることはできなかった。ただ、また翌日を待てば本の結末は変わるはずだ。俺は恐る恐るまたその本を、本棚の奥にしまい込んだ。


 その夜、俺はうなされた。直志の言葉が何度もリフレインする。


「『今度は、君の番だよ!』」


 何で? 俺は聞く。だが直志が答える前に、俺の夢の場面はまた次々とあの本の結末のように変わっていく。潜在意識でも悩んでいるんだろう。流れて行くのは、俺自身の人生の場面だった。


 告白できなかった俺。告白して振られた俺。告白が成功した俺。その後、すぐに別れてしまった俺。大学まで付き合った俺。社会人になって彼女とすれ違うようになった俺。結婚まで行った俺。離婚する俺。幾つになっても仲睦まじく暮らす俺。


 夢の中なら、なんとでもできる。最後のやつなんか、起きた時にはよだれが垂れていた。嬉しかったのだろう。


 翌朝の俺は、当然疲れ果てていた。よだれを拭い、朝飯を食い、ぼーっとし、昼飯を食う。かかってきた電話に、生返事で出る。


「あっ、間違えました、ごめんなさい」


 俺の意識は、一気に覚醒した。彼女だ。長い年月が過ぎても忘れられない、彼女の声だ。そう思ったのも束の間、電話は切れてしまっていた。


 え? なんで?


 俺の頭はぐるぐると回り始めた。なぜ彼女の声が聞こえたのだろう。やはり俺はおかしくなっているのだろうか。病院に行くか? 


 いやしかし、そもそも医者に行くのも元々怖くて苦手だ。ホラーが苦手なもの第一位だったら、第二位の確定申告を飛び越えて第三位くらいには医者も苦手だった。


 だがもし、だ。もし、本当に彼女だったら。


 今、話してみたら、なにか俺の物語に書ける材料が見つかるかもしれない。それどころじゃ無い。もしかしたら。


 結末を変えられるかもしれない。


 夢の見過ぎかもしれなかった。だが俺は、その可能性に徐々に心を奪われていった。直志の台詞のリフレインを聞きすぎたのかもしれない。次は、次こそは、俺の番でもいいじゃないか。


 だが怖い。マグロ漁船に乗る前の直志には、こんな怖さは本当になかったのか? 俺は、震える指でかかってきた電話番号にかけ直した。


「もしもし」


 彼女だ。本当に彼女だった。


「あ、あの」


 俺は、掠れ声を慌てて咳払いで誤魔化した。


「先ほどお電話いただきました鈴木ですが……。なんのご用でしたか?」


 まだ俺は、平静を装って他人行儀を貫いた。くそ、どこまでも情けない。直志は自分を情けないと評しながら、美也に色んな意味で迫ったというのに。


 電話はしばらく沈黙した。


「あの、斉藤です。高校の時の」


「ああ!」


 俺は今思い出したかのような芝居をした。


「久しぶり、元気だった?」


「あ、はい。ごめんなさいね。間違い電話だったんです。急いでいるので、失礼しますね」


 そう言って彼女は、すぐに電話を切った。プープープーという切断音が、俺の耳に響く。


 高校時代の痛みが、鮮やかに蘇ってきた。


 何も、変わらない。


 俺は、あの本を本棚から引っ張り出してぶん投げた。そして拾って、またぶん投げた。そしてまた拾って、読み耽った。


「『ずっと君に、言わなきゃいけなかったことがあるんだ』


 直志は微笑んだ。


『僕は実は、キャベツ王国の王子なんだ。だから君は姫になるんだよ』」


 今日はファンタジーだった。悪くなかった。こんな、現実から逃げたくなるような夜には。



 それから俺は、少し荒れた生活を送った。小金を稼ぐために単発のバイトに行き、帰ってきてはあの本を読み続けた。本の結末は毎回変わる。だが俺の生活も人生も、全く変わろうとしなかった。


 そんな中でも、あの本を買った本屋にまた行こうと思ったのは、救いが欲しかったからか、興味本意か。


 結末が変わる本があるならば、冒頭が変わる本や、中盤だけが変わる本もあるのでは無いかと思ったのだ。ただただ、変化のない毎日に一層の変化が欲しかった。一冊そんな本を持っているだけで国宝級だろうに、我ながら贅沢なものだ。


 チリンチリン、と引き戸に付いた呼び鈴の音をさせて店内に入ると、店番の親父がギロっと睨んできた。前に来た時はその目線に苛立ったものだが、今は不思議と、あの本を売っている店に相応しい威厳に思え……いや、やはりちょっと苛つくな。


 俺は店内を歩き回った。だがすぐに誤算に気づいた。どの本を手に取ってみても、普通の本と変わらない。本を買って一日経ってみないと、中身が変わったかどうかなんて分からないのだ。試しに何冊か買ってみるという手もあるはあるが。


 俺は結局、恥を忍んで、親父に聞くことにした。


「あのー……。中身が変わる本なんてありますかね」


 親父の鋭い眼光に怯えつつも、俺は勇気を振り絞った。


「中身が変わる本って何だね?」


「あ、えーと、読むたびに結末が変わるっていうか、はは……」


「あるよ」


 俺は心底驚いた。親父は俺を先導し、店の一角に案内した。


「この辺がそのジャンルだ」


「ありっとう、す!」


 俺は礼もそこそこに、本を手に取った……が、すぐにがっかりした。そこにあったのは、自分でルートを選んでいくことによって結末が変わる、選択式の物語だった。俺は失意のまま店を後にした。


 当たり前だ。あんな本がそうそうあるわけはない。まして冒頭や中盤が変わる本なんて、ありはしない。過去は決して変えられないのだから。



「『ずっと君に、言わなきゃいけなかったことがあるんだ』


 直志は、決心したように言った。


『僕には、前世の記憶があるんだ。遠い遠い、ここじゃない世界の、日本という国の記憶が』」


 今日の結末は異世界転生らしかった。よくこんなにも多くの物語に変化できるものだ。


 俺はふと思い立って、今までの読書日記を見返してみた。恋愛小説、官能小説、立志小説、ホラー、ファンタジー、コメディ、お仕事小説、SF、歴史小説、ミステリー、異世界転生と、全く違うジャンルが並んでいた。俺の一番のお気に入りがどれだったかは、言わずもがなだ。


 ここまでこの本を読んできて、俺は一つの可能性を感じていた。もしかすると、本当にただ、もしかするとだ。俺の小説も、コメディやミステリーになりうるものだろうか?


 俺は、原稿用紙にすぐに書こうとすることをやめ、代わりにプロットだけを書き出してみた。


 コメディだったらこうだ。


「学生時代、クラスメイトに告白できない男子高校生。彼が告白を決意してから、彼女との楽しい日々に関して様々な妄想を巡らす(ここがコメディの見せ所)。結局、男子高校生は告白できず、男友達と相変わらずの青春を過ごすのだった」


 一方、ミステリーなら、


「学生時代、クラスメイトに告白できない男子高校生。彼が告白を決意してから、彼女との楽しい日々に関して様々な妄想を巡らす(ここが実は想像ではなく、実際に学内で起こった事件に関係している)。彼は事件を解決するが、結局告白できず、男友達と相変わらずの青春を過ごすのだった」


 本当に拙いもので、自分でも嫌になりそうだった。だが、これまでの自分とは違う手応えを、確かに感じていた。


 それからしばらく、色々なジャンルの俺はプロットだけを膨らませることに集中した。


 俺は、他のジャンルのプロットも書いてみた。


「学生時代、クラスメイトに告白できない男子高校生。夢の宇宙飛行士を目指して、勉強や訓練を重ねJAXAと連携するうち、男子高校生は宇宙人の侵略を未然に防ぐ(ここがSFの見せ所)。だが結局、男子高校生は告白できず、男友達と相変わらずの青春を過ごすのだった」


 舞台を、高校から他の所に移してみたらどうだろう?


「戦国時代、同じ忍術学校に通うくノ一に告白できない忍者の卵。彼が告白を決意してから、彼女との楽しい日々に関して様々な妄想を巡らす。それは忍術や忍器を駆使した、突飛なものばかりだった(ここが歴史検証の見せ所)。その妄想の中で訓練したおかげで、彼は主君の命を救う。だが結局、忍者の卵は告白できず、男忍者たちと相変わらずの任務をこなすのだった」


 悪くない、悪くないんじゃないか?この中でも、コメディ系が一番しっくり来る気がした。今まで書いたことの無いジャンルだ。


 俺は改めてペンを取り、原稿用紙に向かった。久しぶりに心が躍り、ペンは走るようだった。気がした。


「『佐藤さん、好きです。付き合ってください』


 鈴谷はそう言って、目の前の椅子に深々と頭を下げた。もう何十回目のシミュレーションだっただろうか。告白が上手く行く想像が全くできず、こうして何回も椅子を相手に練習だけを繰り返していた。


 自信が決定的に無いのだ。そもそも普段、あまり彼女と話したことすら無いのだから。


 佐藤さんとのお話も少し練習しないといけないな。そう思った鈴谷は、椅子にアテレコすることにした。


『佐藤さんごめんね、こんなところに呼び出して』


『ううん、鈴谷くん何か用?』


『好きです。付き合っ……』


『ごめんなさい』


 椅子にまで、すぐ告白を断られてしまう。」


 ……多分、面白い。はずだ。そうか? どうだろう。


 そして、俺の主人公は誰一人として告白できない。もうその理由は知っている。彼らが、まだ俺自身だからだ。


 俺は、またペンを投げ出した。あの本を手に取る。直志と美也は、相変わらず自由だった。


「『ずっと君に、言わなきゃいけなかったことがあるんだ』


『僕、カニ漁師になるんだ』


 美也は絶句した。


『……冗談でしょう?』


 美也はそう言ったが、直志の真剣な目つきでそれが冗談でないことを悟った。そもそも、直志はそんな冗談を言う男ではなかった。それを一番知っているのは、美也だったはずだ。


『ごめん……。それしか言えない自分が、情けないけど』


 直志はそこで言葉を紡ぐのを止めた。美也の顔を見る。


『……私も、カニは好きよ。あのパキッと殻を割って美味しい身をほじくる所も。食べてる間は、特に喋らなくてもいい所も。でも、』


『あなたと私の仲を引き裂くものは、嫌いよ』


 美也は、決心した表情で言った。


『私も、連れてって』


『そんな……蟹漁はとても過酷なんだ。蟹に手や足を挟まれることだってあるし……もちろん、海の上で食べる蟹は最高だと思うけれど!」


『もう決めたの』


 美也の表情は晴れ晴れしていた。


『あなたのいる所が、私の居場所よ』」


「美也ーーーーーー!」


 俺はついに、美也にまで感情移入するようになってしまった。最初に読んだ時は、夜景の見えるレストランで告白されることを望むような、典型的な贅沢な女性だと思っていたのに。


 もういっそ、鈴谷も蟹漁に行かせてしまおうか。佐藤さんは付いてきてくれるのか?


 いや、きっと付いてきてはくれないだろう。俺や鈴谷が直志でないと同時に、斉藤さんや佐藤さんも美也では無いのだから。


 ん? 今何か重要なことを考えた気がするぞ。


 そうだ、キャラクターだ! 俺はプロットばかりを練って、キャラクターについて考えていなかった。


 俺はキャラクター設定表を作ろうと思いついた。まず、鈴谷はどんな性格だ? 『内気で、考えすぎて、告白できない』


 では長所は? 『真面目』


 短所は? 『考えすぎる』


 趣味は? 『読書』


 好きな食べ物は? 『鮭茶漬け』


 ……これは、そのまま俺だ。今までずっと、こんな風に書いていたのか。


 気を取り直して、では佐藤さんは? 優しくて、可愛くて、俺……じゃ無い、鈴谷のことを理解してくれる女の子。


 長所は? 短所は? 趣味は? 好きな食べ物は?


 俺は唖然とした。何も出てこない。キャラクター設定が甘いだけじゃ無い。俺は、実在の斉藤さんについてすらこれらの質問に答えられなかったのだ。


 俺は一体、彼女の何を知って、長年想いを大事に温めていたというのだろう。


 だがこれはチャンスかもしれない。縛られるべき現実が無いのだ。佐藤さんは、斉藤さんで無くて良いのだ。俺は設定表を丁寧に撫で付け、また長机に向かった。


 佐藤さんの長所は? 『しっかり者で世話焼きの所』


 短所は? 『人の世話を焼きすぎる所と、甘え下手な所』


 気づいていた。これは、美也だ。俺の恋愛経験や人生経験の無さが、ここに全て出ている。周りに女性がいなさすぎて、モデルがいないのだ。


 ただ、佐藤さんの性格が明確になったことで、鈴谷との間に、新しい化学反応が生まれそうだった。続きにペンを走らせる。


「『参ったなあ』


 鈴谷は、自分が何と言って断られるのかも知っていた。


『今は夢のために頑張りたいの。他のことは見えないから……』」


 そう、佐藤さんはきっとかっこいい。かっこいい女性なんだ。


 ここでまた俺ははたと止まる。告白を断られる予定の鈴谷はどうするんだ? かっこいい佐藤さんを遠くから見つめて、自分は男友達と青春を過ごすのか?


 それは俺だ。俺ならそうする。でも鈴谷が実は俺じゃ無かったら? 鈴谷に、直志のような気骨があったらどうするだろう?


「『告白は諦めよう』


 鈴谷は一人、教室でつぶやく。告白相手にしていた椅子の位置を戻しながら、考えた。


『そしたら、どうしようかな』」


 どうするのだ。直志、助けてくれ。


「『そうだ!佐藤さんの夢を応援しよう。練習相手くらいにはなれるかもしれない』」


「鈴谷ーーーーーー、頑張ったなあ!」


 俺は一人で叫んだ。長机に膝が当たり、並べていたペン先が幾つか床に転がり落ちた。


 鈴谷は、告白できないだけで逃げたりしない。彼は、俺の情けなさに直志の勇気を受け継いだ、新しい世代の子孫なのだ。


 何よりも、この鈴谷は好きになれる。感情移入ができるのだった。


 俺の筆は乗りに乗った。

 


 そんな時期だった。同窓会の案内が来たのは。ドクン、と心臓が鳴った。


 斉藤さんも来るのだろうか。きっと、来るだろう。そして今度は、ちゃんとゆっくり話せる話題がある。この間の電話、誰か他の同級生を探して俺と間違えたの? とか。キャベツ王国の話とか。蟹漁の知られざる秘密とか。


 俺の勝手な記憶の中の彼女では無くて、本当の彼女を知ることができるかもしれない。


 だが俺は、しがない作家志望の身だ。肩身が狭い思いをすることになるだろう。俺が行っても浮くだけだ。恥をかきに行きたく無かった。これが、俺だ。また一歩を踏み出せない。


 でも、せめて斉藤さんの近況を聞くだけでも。俺は居ても立っても居られず、同窓の男友達に連絡した。そして判明する、絶望的な事実。


 斉藤さんは、近々結婚するらしい。


 電話を切ってから、俺はヘナヘナと崩れ落ちた。


 どこかで思い込んでいた。小説さえ上手く行けば、自分の現実も上手く行くと。


 なにも、斉藤さんと上手くいくと思っていた訳じゃ無い。せめて、何か幾ばくかの幸せが俺にも許されているんじゃ無いかと思っただけだ。


 でも実際は、俺の小説が進む間にも、他の人は現実の人生が進んでいる。


 俺はその日から、書くことをやめた。



 直志は相変わらず、例の台詞の後、色んなことを言って楽しませてくれる。


「『犯人は、君だ』」

「『僕は実は、吸血鬼なんだ』」

「『今なら、このお値打ちのパールネックレスも付けて、お値段何と五千九百八十円だよ』」

「『でもこのメッセージは10秒後に、自動消滅してしまう』」

「『……鼻くそ出てるよ』」


 それは俺でも気になる。ティッシュを手に取ろうと箱に手を伸ばして、一瞬止まる。


 あの本が、箱の横の机の上に移動していた。


 俺は、たった今手にこの本を持っていたはずだ。この本は、結末を変えるだけじゃ飽きたらず、こんなことまでできるのか。


 手が震えた。何がしたい。俺に何をして欲しいんだ。


 そんなことは一つに決まっている。俺は観念して本を開いた。初めて、一日に二回結末が変わっていた。


「『ずっと君に、言わなきゃいけなかったことがあるんだ』


 直志は、穏やかな瞳で美也を見つめた。


『君が、ずっと前に野球選手とした約束を覚えている?彼がホームランを打ったら、君は手術を受けるって。実はあれは僕だったんだ』


『え……、あの時の野球選手が、あなた……?』


『うん』


 直志は、初めて美也の手をとった。


『手術、受けてみないか』


『……怖いの』


 美也は目を逸らした。直志からも、現実からも。


『僕も怖いよ。打席に立つ度に。でもね』


 直志はゆっくりと言葉を選ぶ。


『打席に立たないと、ホームランは打てないんだ。立たないと、打てる可能性すら無くなってしまう。でも立てば、未来は変えられるかもしれない』


 美也は、泣いていた。


『今度は、君の番だよ』」


 俺も、泣いていた。馬鹿だな。こんな使い古したプロットと台詞なのに。本当に、馬鹿だな。


 この本は一体何なんだ。美也に異国からマグロを届けたかと思ったら、直志に宇宙人と交信をさせる。そしてこんな時に、俺に一番刺さる言葉を読ませる。でも相変わらず、何だ野球選手って。


 しかし、しかしだ。本は、たかが本では無いんだ。知っていた。俺は知っていたはずだ。


 本が好きだ。


 自分の体を抜け、どこの世界にでも飛べるその自由さが好きだ。


 不器用でも実直に足掻く直志と、甘え下手でお節介な美也が好きだ。


 鈴谷と、佐藤さんが好きだ。


 書くことが、好きだ。


 好きだから書き始めたんじゃなかったのか?いつからだろう、俺も打席に立たなくなったのは。


 俺は一体何なんだ。作家だ。出版していなくとも。賞に応募していなくとも。


 書いているから、俺なのだ。


 斉藤さんは今後の俺の物語に登場しなくなったとしても。書き続けるかどうかは、俺自身で変えられる。



 それから俺は連日連夜、机に向かった。書いているだけでもスポーツをしている時のような汗が滲んだ。


 夢中で書いている中、高校時代のクラスメイトの間で、斉藤さんの結婚を祝う会をしようという話が持ち上がった。俺は、とてもじゃないけどその場には行けないと思った。


 もう未練はない。ただやはり好きだった思い出の人の結婚を前にして、ずっと笑顔を保てる自信は、俺にはまだ無かった。それに、また小説を書き始めたとはいえ、俺はまだしがない小説家志望だ。そして今回も、同級生の間で肩身の狭い思いをしたく無かった。


 回ってきた寄せ書きには心から「おめでとう」を書けたと思う。それだけでも、充分清々しい気分だった。


 辺りの木々や草花が春めき、小鳥が歌う季節。俺の小説も第一稿も、ようやく完成した。タイトルはやはり、「もしも、あのとき」だ。


 俺は、初めて書き上げたその小説を、新人賞に応募しようとして……やめた。まだまだ練れるはずだ。読者も思わず、


「鈴谷ーーーーーー!」


 と叫んでしまうような物語に。


 その日も俺は、あの本を手に取った。今日はどんな結末になっているだろう。またホラーじゃないことを願いつつも、ページをめくる指が何だか軽やかな気がした。


「『ずっと君に、言わなきゃいけなかったことがあるんだ』


 直志は美也をまっすぐ見つめて言った。


『好きです。付き合ってください」


 夜景が煌めく。だが美也の目はそれよりも煌めいていた。


『……遅いよ。でも……嬉しい』」


 何かがおかしかった。これは……俺が一番最初に読んだ、ロマンスノベルではないか。


 俺は結末を読み進める。やはりだ。最初の結末に戻っている。俺は本をそっと本棚に戻した。


 そろそろ本もネタが尽きたのかもしれない。繰り返しもあることだろう。明後日あたり、また直志がマグロ漁船に乗る結末を再読できるかもしれない。それはそれで楽しみだ。


 だがそれから、その本の結末が変わることはなかった。


 俺はしばらく悩んだ。全て俺の妄想だったのか? 俺がおかしかったのか。未だに分からないでいる。俺はしばらくその本を大事に取っておいた。だがある時に、あの古本屋に持って行って売ってしまった。


 俺には必要のないものになったからだ。本はもう変わらない。でも自分で、いくらでも違う結末に向かっては生きられる。


 もし俺の体験が本物だったなら。またあの本は、他の誰かのために結末を変えるのだろうか。俺はそれを強く願った。


 誰にだって、違う結末を夢見ることも、打席に立つことも許されていいはずだ。そうだろう?

読んでいただいて、ありがとうございました!

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