↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/14

再動編3『会えない時間、そして希の夢』

 こうやって、二人で一緒に走れたらいいな。


 あの日、ゴールの向こうで笑い合ったとき、希(のぞみ)は本気でそう思っていた。


 けれど、二人で同じ大会に出場したのは、あの春が今のところ最初で最後になっている。


 望(のぞむ)が所属するのは、全日本トップクラスのランナーが集まる超名門大学の陸上部だ。厳しい練習に徹底した体調管理。遠征に合宿、そして重要な大会。世界を見据えた競技生活は、すべてが緻密な計画のもとに組まれている。


 そんな環境では、選手が自由気ままに地方の大会へエントリーするわけにもいかない。


 望の日常は、すっかり競技を中心に回っていた。


 一方、希の日常も形を変えていた。


 高校を卒業した希は、地元の小さな工場に就職した。


 もちろん、陸上部なんてものはない。

 朝から夕方までは工場内で汗を流す。

 力仕事だってある。

 男性社員に負けじと働く希は、持ち前の負けん気もあって、先輩たちから可愛がられていた。


 そして、仕事が終わればランニングウェアに着替え、街へと走り出す。


 残業でクタクタの日もある。足が重くて、今日はもう休もうかと思う日だってある。

 それでも、短い時間だけでも走った。


 休日には市民ランナーとして大会にも出場した。


 最初は、望に追いつきたいという一心だった。

 けれど、走り続けるうちに、少しずつ気持ちが変わっていった。


 昨日より速く走れた。

 苦しかった距離を、今日は最後まで走り切れた。

 以前なら諦めていたタイムを、自分の力で更新できた。

 そんな小さな達成感が、いつしか希自身の喜びになっていた。


「……あれ?」


 ある日の練習後、記録を確認していた希は、思わずスマホの画面を二度見した。


「私、けっこう速くなってる……?」


 短距離しか知らなかった頃には、想像もしていなかった数字が並んでいる。


 もちろん、望のようなトップアスリートとは比べものにならない。それでも、仕事の合間を縫って練習を重ねてきた成果は、確実に現れていた。

 フルマラソンのタイムは着実に縮まり、今ではサブスリー――3時間切りさえ視野に入っている。


「もしかして……どこかの実業団から声がかかっちゃったりして?」


 ランニングシューズの紐を結び直しながら、希はひとりで呟いた。

 そして、自分で言っておきながら、ぷっと吹き出した。


「ないない。さすがに夢見すぎでしょ!」


 実業団の選手になるなんて、簡単なことではない。今の自分は、地元の会社で働きながら走っている、ごく普通の市民ランナーだ。


 それでも。

 ほんの少し前まで、自分の未来なんて考えることさえできなかった。

 家族の借金に追い詰められ、自分の人生を諦めかけていた。


 あの頃の自分が今の姿を見たら、きっと驚くだろう。


 仕事を終え、シューズを履き、次の大会に向けて練習する。明日は何キロ走ろうか。次はどのタイムを目指そうか。

 そんなことを考えながら眠りにつく。


 自分の未来を、自分で考えられる。

 それが、どれほど幸せなことなのか。


 希はもう、知っていた。


 そして、時々、夢を見る。


 実業団にスカウトされ、いつかもっと大きな大会に出場する。


 そうして、どこかの競技場で望と再会するのだ。


『お、希じゃん。まだ走ってたのか』

『まだって何よ! 今度こそアンタを負かしてやるんだから!』


 そんなふうに、昔と同じ調子で言い合えたら。

 想像するだけで、胸が弾んだ。


 ……まあ、実際に再会したら、きっとまた、あの男の化け物じみた成長ぶりに驚かされるのだろうけれど。


 それでもいい。


 驚かされて、悔しがって、また勝負を挑む。

 そんな関係でいられたら、どんなに楽しいだろう。


  ◇◇◇


 望とは、今も時々、LINEでメッセージをやり取りしていた。


『今日の練習マジでキツかった』

『ちゃんと飯食べてるの?』

『食ってる。監督がうるさいからな』

『ならよし。ちゃんと寝なさいよ』

『お前は俺の母ちゃんか』


 そんな他愛もない会話ばかりだ。


 遠征に合宿、厳しい練習。望がどれほど忙しい生活を送っているのか、希にも想像はついた。


 だから、こちらから頻繁に連絡することは控えていた。


 話したいことがないわけではない。

 むしろ、ありすぎるくらいだった。


 今日の練習で自己ベストを更新したこと。大会で思いがけず上位に入れたこと。次はサブスリーを目指していること。


 それから――。


 どうしようもなく、会いたくなること。


 けれど、そんなことまで伝えてしまったら、望の邪魔になるのではないか。


 彼は、オリンピックを目指している。

 自分のような市民ランナーとは、背負っているものも、立っている場所も違う。


 そう思うと、つい遠慮してしまうのだった。


 そんなある日の夜。

 練習を終えて帰宅した希のスマホが震えた。


『そういや、お前、最近大会どうなんだ?』

「……え?」


 思わず声が出た。

 望から、そんなことを聞いてくるなんて。


 いや、別に不思議なことではない。昔から一緒に走ってきた相棒なのだから、気にかけてくれたっておかしくはない。


 そう思いながらも、希の指はいつもより軽快に動いた。


『この前の大会で3時間3分13秒。自己ベスト更新した!

 サブスリーが見えてきた!』


 送信してから、少しだけ後悔する。

 自慢っぽくなかっただろうか。こんなことを報告して、困らせていないだろうか。


 そんな心配をしていると、すぐに返信が届いた。


『マジか。やるじゃん』


 続けて、もう一通。


『最初に一緒に走ったときから考えたら、すげえ成長だな』


 画面を見つめたまま、希は固まった。


 覚えていてくれた。

 あの春、一緒に走ったことも。自分がどんな走りをしていたのかも。


 たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。


『まあ、まだまだアンタには勝てないけどね!』


 少し迷ってから、そう返した。


『そりゃそうだろ。俺を誰だと思ってる』

『うわ、出た。自信過剰男』

『事実だろ』


 いつもの調子で言い合って、希は思わず笑った。


 画面の向こうにいる望の顔が、ありありと思い浮かぶ。


 きっと、あの頃と変わらない顔で笑っているのだろう。


 ……会いたいな。


 ふと浮かんだ気持ちを、希は慌てて胸の奥へ押し戻した。


 今は、これでいい。

 こうして時々、話ができるだけでも。

 そう自分に言い聞かせて、スマホをそっと伏せた。


  ◇◇◇


 ネットで情報を追えば、望は着実に日本のトップランナーとして階段を駆け上がっていた。


 大きな大会で好記録を出したというニュース。有力選手として紹介されるスポーツ記事。将来の日本代表候補として名前が挙がることもあった。


 記事を見つけるたび、希は嬉しくなった。


 すごい。

 さすが、望だ。

 やっぱり、あのとき信じた通りの男だった。


 誇らしい気持ちは、嘘ではない。

 けれど、同時に胸の奥がきゅっと締めつけられることもあった。


 彼が活躍すればするほど、自分との距離が広がっていくような気がしたからだ。


(次に会うときは、きっともっと化け物になってるんだろうな)


 仕事を終えた希は、いつものランニングコースを走っていた。


 街灯がアスファルトを照らし、住宅街には夕食の匂いが漂っている。遠くを走る車の音。すれ違う人々の足音。

 どこにでもある、ありふれた街の夜。

 けれど、希にとっては大切な時間だった。


 呼吸を整え、腕を振り、一定のリズムで地面を蹴る。


 一歩ずつ。

 確実に。


 走っている間は、余計なことを考えずに済む。

 ……なんて、以前は思っていた。


 今は違う。

 走っていると、時々、望のことを考える。


 あいつなら、今ごろどんな練習をしているだろう。

 今日も誰より速く走っているのだろうか。

 いつか同じ大会に出られたら、今度はどんな顔をするだろう。


 考えたところで、答えなんて出ない。


 それでも、自然と想像してしまうのだった。


 希は夜空を見上げた。


 追いつけるかどうかなんて、わからない。

 そもそも、追いつくというのは、どこまで行けばいいのだろう。


 タイムなのか。実績なのか。それとも、彼の隣に立つ資格なのか。


 ……隣に立つ資格、か。

 そんなことを考えてしまった自分に、希は少しだけ苦笑した。


 別に、望の隣に立つのに資格なんて必要ないはずだ。

 昔は、何も考えずに隣を走っていたのだから。

 なのに今は、彼の隣にいる自分を想像するだけで、胸が落ち着かなくなる。


 どうしてだろう。

 答えは、まだ出さないことにした。


 ただ、ひとつだけ確かなことがある。


(また、会いたいな)


 次に会ったときも、昔みたいに笑い合いたい。


 彼の活躍を、ただ遠くから見上げるだけではなく。

 自分も胸を張って、ここまで頑張ってきたのだと言えるように。


 だから、今日も走る。

 明日も、その先も。


 いつかまた、二人で同じスタートラインに立てる日を夢見ながら。


 希は風を切り、力強く地面を蹴った。

 まだ見ぬ未来へ向かって。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。