再動編3『会えない時間、そして希の夢』
こうやって、二人で一緒に走れたらいいな。
あの日、ゴールの向こうで笑い合ったとき、希は本気でそう思っていた。
けれど、二人で同じ大会に出場したのは、あの春が今のところ最初で最後になっている。
望が所属するのは、全日本トップクラスのランナーが集まる超名門大学の陸上部だ。厳しい練習に徹底した体調管理。遠征に合宿、そして重要な大会。世界を見据えた競技生活は、すべてが緻密な計画のもとに組まれている。
そんな環境では、選手が自由気ままに地方の大会へエントリーするわけにもいかない。
望の日常は、すっかり競技を中心に回っていた。
一方、希の日常も形を変えていた。
高校を卒業した希は、地元の小さな工場に就職した。
もちろん、陸上部なんてものはない。
朝から夕方までは工場内で汗を流す。
力仕事だってある。
男性社員に負けじと働く希は、持ち前の負けん気もあって、先輩たちから可愛がられていた。
そして、仕事が終わればランニングウェアに着替え、街へと走り出す。
残業でクタクタの日もある。足が重くて、今日はもう休もうかと思う日だってある。
それでも、短い時間だけでも走った。
休日には市民ランナーとして大会にも出場した。
最初は、望に追いつきたいという一心だった。
けれど、走り続けるうちに、少しずつ気持ちが変わっていった。
昨日より速く走れた。
苦しかった距離を、今日は最後まで走り切れた。
以前なら諦めていたタイムを、自分の力で更新できた。
そんな小さな達成感が、いつしか希自身の喜びになっていた。
「……あれ?」
ある日の練習後、記録を確認していた希は、思わずスマホの画面を二度見した。
「私、けっこう速くなってる……?」
短距離しか知らなかった頃には、想像もしていなかった数字が並んでいる。
もちろん、望のようなトップアスリートとは比べものにならない。それでも、仕事の合間を縫って練習を重ねてきた成果は、確実に現れていた。
フルマラソンのタイムは着実に縮まり、今ではサブスリー――3時間切りさえ視野に入っている。
「もしかして……どこかの実業団から声がかかっちゃったりして?」
ランニングシューズの紐を結び直しながら、希はひとりで呟いた。
そして、自分で言っておきながら、ぷっと吹き出した。
「ないない。さすがに夢見すぎでしょ!」
実業団の選手になるなんて、簡単なことではない。今の自分は、地元の会社で働きながら走っている、ごく普通の市民ランナーだ。
それでも。
ほんの少し前まで、自分の未来なんて考えることさえできなかった。
家族の借金に追い詰められ、自分の人生を諦めかけていた。
あの頃の自分が今の姿を見たら、きっと驚くだろう。
仕事を終え、シューズを履き、次の大会に向けて練習する。明日は何キロ走ろうか。次はどのタイムを目指そうか。
そんなことを考えながら眠りにつく。
自分の未来を、自分で考えられる。
それが、どれほど幸せなことなのか。
希はもう、知っていた。
そして、時々、夢を見る。
実業団にスカウトされ、いつかもっと大きな大会に出場する。
そうして、どこかの競技場で望と再会するのだ。
『お、希じゃん。まだ走ってたのか』
『まだって何よ! 今度こそアンタを負かしてやるんだから!』
そんなふうに、昔と同じ調子で言い合えたら。
想像するだけで、胸が弾んだ。
……まあ、実際に再会したら、きっとまた、あの男の化け物じみた成長ぶりに驚かされるのだろうけれど。
それでもいい。
驚かされて、悔しがって、また勝負を挑む。
そんな関係でいられたら、どんなに楽しいだろう。
◇◇◇
望とは、今も時々、LINEでメッセージをやり取りしていた。
『今日の練習マジでキツかった』
『ちゃんと飯食べてるの?』
『食ってる。監督がうるさいからな』
『ならよし。ちゃんと寝なさいよ』
『お前は俺の母ちゃんか』
そんな他愛もない会話ばかりだ。
遠征に合宿、厳しい練習。望がどれほど忙しい生活を送っているのか、希にも想像はついた。
だから、こちらから頻繁に連絡することは控えていた。
話したいことがないわけではない。
むしろ、ありすぎるくらいだった。
今日の練習で自己ベストを更新したこと。大会で思いがけず上位に入れたこと。次はサブスリーを目指していること。
それから――。
どうしようもなく、会いたくなること。
けれど、そんなことまで伝えてしまったら、望の邪魔になるのではないか。
彼は、オリンピックを目指している。
自分のような市民ランナーとは、背負っているものも、立っている場所も違う。
そう思うと、つい遠慮してしまうのだった。
そんなある日の夜。
練習を終えて帰宅した希のスマホが震えた。
『そういや、お前、最近大会どうなんだ?』
「……え?」
思わず声が出た。
望から、そんなことを聞いてくるなんて。
いや、別に不思議なことではない。昔から一緒に走ってきた相棒なのだから、気にかけてくれたっておかしくはない。
そう思いながらも、希の指はいつもより軽快に動いた。
『この前の大会で3時間3分13秒。自己ベスト更新した!
サブスリーが見えてきた!』
送信してから、少しだけ後悔する。
自慢っぽくなかっただろうか。こんなことを報告して、困らせていないだろうか。
そんな心配をしていると、すぐに返信が届いた。
『マジか。やるじゃん』
続けて、もう一通。
『最初に一緒に走ったときから考えたら、すげえ成長だな』
画面を見つめたまま、希は固まった。
覚えていてくれた。
あの春、一緒に走ったことも。自分がどんな走りをしていたのかも。
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
『まあ、まだまだアンタには勝てないけどね!』
少し迷ってから、そう返した。
『そりゃそうだろ。俺を誰だと思ってる』
『うわ、出た。自信過剰男』
『事実だろ』
いつもの調子で言い合って、希は思わず笑った。
画面の向こうにいる望の顔が、ありありと思い浮かぶ。
きっと、あの頃と変わらない顔で笑っているのだろう。
……会いたいな。
ふと浮かんだ気持ちを、希は慌てて胸の奥へ押し戻した。
今は、これでいい。
こうして時々、話ができるだけでも。
そう自分に言い聞かせて、スマホをそっと伏せた。
◇◇◇
ネットで情報を追えば、望は着実に日本のトップランナーとして階段を駆け上がっていた。
大きな大会で好記録を出したというニュース。有力選手として紹介されるスポーツ記事。将来の日本代表候補として名前が挙がることもあった。
記事を見つけるたび、希は嬉しくなった。
すごい。
さすが、望だ。
やっぱり、あのとき信じた通りの男だった。
誇らしい気持ちは、嘘ではない。
けれど、同時に胸の奥がきゅっと締めつけられることもあった。
彼が活躍すればするほど、自分との距離が広がっていくような気がしたからだ。
(次に会うときは、きっともっと化け物になってるんだろうな)
仕事を終えた希は、いつものランニングコースを走っていた。
街灯がアスファルトを照らし、住宅街には夕食の匂いが漂っている。遠くを走る車の音。すれ違う人々の足音。
どこにでもある、ありふれた街の夜。
けれど、希にとっては大切な時間だった。
呼吸を整え、腕を振り、一定のリズムで地面を蹴る。
一歩ずつ。
確実に。
走っている間は、余計なことを考えずに済む。
……なんて、以前は思っていた。
今は違う。
走っていると、時々、望のことを考える。
あいつなら、今ごろどんな練習をしているだろう。
今日も誰より速く走っているのだろうか。
いつか同じ大会に出られたら、今度はどんな顔をするだろう。
考えたところで、答えなんて出ない。
それでも、自然と想像してしまうのだった。
希は夜空を見上げた。
追いつけるかどうかなんて、わからない。
そもそも、追いつくというのは、どこまで行けばいいのだろう。
タイムなのか。実績なのか。それとも、彼の隣に立つ資格なのか。
……隣に立つ資格、か。
そんなことを考えてしまった自分に、希は少しだけ苦笑した。
別に、望の隣に立つのに資格なんて必要ないはずだ。
昔は、何も考えずに隣を走っていたのだから。
なのに今は、彼の隣にいる自分を想像するだけで、胸が落ち着かなくなる。
どうしてだろう。
答えは、まだ出さないことにした。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
(また、会いたいな)
次に会ったときも、昔みたいに笑い合いたい。
彼の活躍を、ただ遠くから見上げるだけではなく。
自分も胸を張って、ここまで頑張ってきたのだと言えるように。
だから、今日も走る。
明日も、その先も。
いつかまた、二人で同じスタートラインに立てる日を夢見ながら。
希は風を切り、力強く地面を蹴った。
まだ見ぬ未来へ向かって。




