再動編4『苦悶。箱根駅伝での失速』
あっという間に月日は流れ、新しい年を迎えた。
正月の風物詩といえば、箱根駅伝。
今年、希にとっては、いつもとは比べものにならないほど特別な大会だった。
なにしろ、青島 望が出場するのだ。
名門大学の一年生でありながら、熾烈なチーム内競争を勝ち抜き、見事に往路3区の走者に選ばれたのである。
実力主義で知られる伝統校だ。一年生が箱根駅伝のメンバーに入ること自体、簡単ではない。
それを、あいつはやってのけた。
(やっぱり、正真正銘の化け物だわ……!)
希は誇らしかった。
自分の知っている青島望は、昔からそういう男だった。
負けず嫌いで、努力家で、悔しいことがあれば納得するまで食らいつく。才能だけで勝ち上がってきたわけではないことを、希は誰よりも近くで見てきたつもりだった。
そんな彼が、ついに箱根駅伝を走る。
希はこたつに潜り込み、片手にミカンを持ったままテレビ画面にかじりついていた。
(もしかして、一年生でいきなり区間賞とか取っちゃったりして?)
いやいや、それどころではない。
(区間新記録とか叩き出して、ごぼう抜きの大激走!
翌日のスポーツ紙には『超彗星現る!』なんて見出しが躍っちゃったりして!)
想像するだけで頬が緩む。
だって、望だもの。
あいつなら、やりかねない。
そして、いよいよ望の出番がやってきた。
チームは6位。先頭との差はおよそ1分。
戸塚から平塚まで、21.4キロを走る3区。前半の下りで勢いに乗り、後半の海沿いでは風と戦うことになる。
テレビに映った望は、いつになく緊張した顔をしていた。
たすきを受け取り、走り出す。
「頑張れ、望!」
希はこたつから身を乗り出し、拳を握った。
画面に映るのは一位ランナーが中心だ。
その後ろに、やがて望が姿を現す。
そう信じていた。
序盤、望の順位は6位のままだった。先頭との差も、決定的に広がったわけではない。
まだ始まったばかりだ。
焦る必要なんてない。ここから少しずつ差を詰めていけばいい。
(落ち着いて。自分のリズムで走って。望なら、ここからだって!)
希は、これから始まる逆転劇を信じていた。
ところが、レースが海沿いに差しかかった頃。
「……あれ?」
画面に映った望の姿を見て、希は首を傾げた。
順位が7位に落ちていた。
相模湾から吹きつける風に、選手たちのユニフォームが大きくはためいている。先頭を追うランナーたちも苦しそうだったが、望の走りは、それとはどこか違っていた。
重い。
いつもなら、しなやかに伸びる脚。地面を力強く蹴り、軽やかに前へと進んでいくフォーム。
それが、どこか硬かった。
腕を振っている。脚も動いている。
なのに、前へ進む勢いが感じられない。
「……まだ、これからだよね?」
希は自分に言い聞かせた。
風が強いのだ。調子が悪い日だってある。今は苦しくても、望ならきっと立て直せる。
そう思いたかった。
しかし、次に望が映ったときには、順位がさらに一つ落ちていた。
前を走る選手の背中が遠ざかっていく。
望は必死に追おうとしているのに、差が縮まらない。
それどころか、後ろから別の選手が迫っていた。
希は、いつの間にかミカンを握りしめていた。
(違う……こんなはずじゃない)
望は、もっと速い。
もっと力強く走れる。
中学時代、隣で走っていたときだってそうだった。
どれほど苦しい展開になっても、最後まで諦めなかった。勝てないと思った相手にだって、最後の最後まで食らいついた。
だから、今日だって。
ここから巻き返すはずだ。
そう信じていた。
けれど、終盤に入っても、望の走りは戻らなかった。
カメラが彼の顔をアップで捉える。
食いしばった歯。
苦しそうに歪んだ表情。
それでも、前を追おうとする目。
希は息を呑んだ。
知っている。
あの顔を、希は知っていた。
思うように走れないとき。
何をやってもうまくいかず、それでも諦めたくなくて、無理にでも前へ進もうとするとき。
望は、あんな顔をする。
「……なにしてんのよ……っ」
気づけば、希は立ち上がっていた。
「何してんだー! バカーッ!」
こたつから飛び出し、テレビに向かって叫ぶ。
「そんなことでオリンピックに出られるかーっ!!」
届くはずがない。
ここで自分がいくら叫んだところで、箱根の道を走る望の耳には届かない。
そんなことは、わかっている。
それでも叫ばずにはいられなかった。
「頑張れ! 望! まだ終わってないでしょ! あんた、そんなもんじゃないでしょ!」
声がかすれた。
喉が痛い。
それでも、希は叫び続けた。
頑張れ。
負けるな。
いつもの走りを見せてよ。
あんたなら、まだやれるでしょ。
テレビの向こうにいる彼に、どうか届いてほしい。
その一心だった。
しかし、画面の中の望は、苦しそうに腕を振り続けていた。
順位はさらに落ちていた。
望は、まだ走っていた。
苦しくても、前を追うことをやめない。
簡単には諦めない。
それは、希が知っている青島望そのものだった。
だからこそ、余計につらかった。
ふと、頬に冷たいものが伝った。
「……え?」
指で触れて、初めて気づいた。
泣いていた。
慌てて拭ったのに、また涙が溢れてくる。
どうして。
自分がレースで負けたときだって、こんなに悔しかったことはない。
中学時代、たった0.02秒の差で全国大会を逃したときでさえ、ここまで胸が張り裂けそうにはならなかった。
なのに。
どうして、望が苦しそうに走っているだけで、こんなにも泣きたくなるのだろう。
負けてほしくない。
苦しんでほしくない。
いつものように笑ってほしい。
走り終えたあと、悔しそうに唇を尖らせながらも、次こそはと前を向いてほしい。
そんな望の姿を、ずっと見ていたかった。
けれど、胸の奥で膨らんでいた願いは、やがて別の感情に押しつぶされていった。
(……私のせいだ)
あの夜のことが、脳裏をよぎった。
自分を救うために、望は大きなものを背負った。
家族の借金を解決するため、望は資金を調達し、その返済に自分の将来まで懸けることになった。
あのとき、彼は笑っていた。
逆境だとか、漫画の主人公みたいだとか、そんなふうに冗談めかして。
希を安心させるように、いつもの調子で。
だから、希も信じたかった。
望なら大丈夫だと。
どんな困難だって、あいつなら乗り越えてしまうのだと。
でも、本当は。
どれほどの覚悟が必要だったのだろう。
どれほどの重圧を、一人で抱え込んでいたのだろう。
大学一年生。
まだ、これからいくらでも失敗できる年齢だ。
それなのに望には、結果を出さなければならない理由がある。
期待に応えなければならない。
借りた金を返さなければならない。
自分の未来を賭けた選択を、間違いではなかったと証明しなければならない。
もし、そうした思いが彼の心を縛っていたら。
もし、失敗することさえ許されないと思い込んでいたら。
今、あの苦しそうな顔をしているのは、そのせいなのだろうか。
(私が……望の足を引っ張ってるんじゃないの?)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
自分を救ってくれた人。
自分のために、未来を懸けてくれた人。
その彼が今、苦しそうに走っている。
もし、あの夜に自分がいなかったら。
望はもっと気楽に競技に打ち込めたのだろうか。
失敗を恐れず、目の前のレースだけに集中できたのだろうか。
こんなふうに、何かを背負って走らずに済んだのだろうか。
わからない。
何も、わからない。
望が今、何を考えているのかさえ、希にはわからなかった。
望は大勢の観客に見守られ、全国の人々が注目する舞台で、必死に前を追っている。
その姿は誇らしいはずなのに。
どうしようもなく遠い。
手を伸ばしても届かない。
隣を走って、苦しいときには声をかけて、ゴールしたら一緒に笑う。
そんなことが、今はひどく遠い夢のように思えた。
「……ごめんね、望」
声に出した途端、涙がまた溢れた。
何に対して謝ればいいのか、自分でもわからない。
彼に頼んだわけではない。
彼に背負わせたかったわけでもない。
それでも、自分を救うために、望が大きな決断をしたのは事実だった。
そして今、彼はその決断の先にある未来を走っている。
希はテレビの前で、両手を胸元に押し当てた。
画面の中の望は、最後まで必死に腕を振っていた。
前との差は、もう簡単には詰まりそうになかった。
それでも、走ることをやめない。
どうか、最後まで。
どうか、折れないで。
もう一度、いつもの望らしい走りを取り戻してほしい。
誰よりも速く、誰よりも楽しそうに走っていた、あの頃の彼に戻ってほしい。
でも、それは本当に自分が望んでいいことなのだろうか。
自分のために彼が背負ったものを思えば、今さら何もなかったことにはできない。
彼を応援することしかできない。
彼の苦しみを代わってやることもできない。
それどころか、自分が彼の負担になっているのではないかと考えてしまう。
そんな自分が、彼に頑張れと叫ぶことさえ、ひどく身勝手な気がした。
それでも。
「……頑張ってよ、望……」
今度は、声にならないほど小さく呟いた。
頑張れ。
どうか、最後まで走り切って。
そして、いつかまた。
何の重荷も感じずに、思いきり走れる日が来ますように。
希は、涙で滲む画面を見つめ続けた。
正月の明るい部屋に、テレビの実況だけが響いていた。




