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再動編5『デートってやつなのでは?』

 スマホの画面に浮かぶ、『おつかれさま』の六文字。

 希(のぞみ)はスマホを握りしめたまま、その短いメッセージを穴が開くほど見つめていた。


 本当は、聞きたいことも伝えたいことも山ほどあった。


 大丈夫?

 足は痛くない?

 悔しかったよね。

 今、どんな気持ちでいるの?


 箱根駅伝の中継で見た、あの苦しそうな顔が脳裏に焼きついて離れない。


 いつもの望(のぞむ)なら、あんなところで終わるはずがない。本人が一番わかっているだろうし、誰よりも悔しい思いをしているに違いない。


 だからこそ、何を言えばいいのかわからなかった。


 大丈夫かと聞けば、心配していることを押しつけてしまう気がする。頑張れと励ますのも、今さらだ。悔しかったねと慰めるのだって、彼が自分で気持ちを整理する前に、勝手に決めつけているようで嫌だった。


 下手な言葉で、これ以上傷つけたくない。


 結局、考えに考えた末に送れたのは、たった一言。

 おつかれさま。

 それだけだった。


 送信ボタンを押してから、数十分。

 希はスマホを手放せずにいた。何かするでもなく、画面を点けては閉じ、通知が来ていないか確かめてしまう。


(……私、何やってるんだろ)


 たった一通のメッセージに、こんなに振り回されるなんて。


 昔は、もっと気軽に話せたのに。


 相手が何を考えているかなんて、いちいち気にしなかった。


 なのに、今は。何を言えばいいのかさえわからない。

 いつから、こんなに遠慮するようになってしまったのだろう。


 望は変わっていないのかもしれない。少なくとも、希にはそう思えた。変わってしまったのは、二人を取り巻く環境と、そして――自分の気持ちなのかもしれない。


 そんなことを考えていた、そのときだった。

 ピコン、と通知音が鳴った。


「ひゃっ!?」


 思わず変な声が出た。

 慌ててスマホを確認する。

 望からだった。


『ありがとう。

 急なんだけど、今度の3連休に休みもらえて帰省できることになった。

 ご飯でも行かない?』


「…………え?」


 希は目をぱちぱちさせた。


 ご飯?

 望と?


 いや、文章としては何もおかしくない。友達なのだから、食事に誘われたところで不思議ではない。


 ないのだけれど。


 あの箱根での、苦痛に満ちた表情が脳裏をよぎる。


 きっと、悔しかったはずだ。

 自分の思い描いていた走りができなかったこと。周囲の期待に応えられなかったこと。そして何より、自分自身が納得できなかったこと。

 そんな思いを抱えているはずなのに、望はいつもと変わらない調子で誘ってくれた。

 こちらに心配をかけないようにしているのだろうか。それとも、本当にもう気持ちを切り替えられたのだろうか。

 今の希には、判断できなかった。


 けれど。

(ご飯……うん、行く!)

 それだけは、迷う余地もなかった。


 希は勢いよくスマホを操作した。


『行く! 楽しみにしてる!』


 送信。

 よし!

 これでいい。


 美味しいものを食べて、少しでも元気を出してもらおう。せっかく帰ってくるのだから、楽しい時間を過ごしてほしい。

 いつものように、くだらない話をして。陸上の話をして。できれば、あの頃みたいに遠慮なく笑い合えたらいい。

 望が少しでも気を楽にしてくれたら、それでいい。


 ……それだけ、のはずだった。


 希はスマホを見つめたまま、ふと固まった。


(…………待って?)


 今、私は何を送った?


 『楽しみにしてる!』


 いや、別におかしくない。友達との約束だって、楽しみなら楽しみだと言う。そこに何の問題もない。


 ない、のだけれど。


 スマホを持つ手が、じわじわと熱くなってきた。


(これって……もしかして……)


 望からの誘い。

 二人きりの食事。

 久しぶりの再会。

 そして、自分はさっき、何のためらいもなく「楽しみにしてる!」と返信した。


(……デートってやつなのでは……!?)


「~~~~っ!!」

 声にならない叫びを上げ、希はその場にしゃがみ込んだ。


 いやいやいや!

 落ち着け、緑川希!

 相手は望だ。


 昔から一緒に走ってきた相棒。遠慮なく言い合いができて、負けたら悔しがって、勝ったら一緒に喜んできた、あの青島望だ。

 今さら、食事くらいで何を慌てる必要がある!


 ……ない。

 ない、はずなのだが。


 考えてみれば、二人きりで出かけるのは初めてだった。


 中学時代は陸上漬け。高校は別々になり会う機会はなかった。卒業してからも、希の生活は仕事とトレーニングの繰り返しだ。


 わざわざ二人で食事に行くなんて、今まで考えたこともなかった。


 ……いや、考えたことがなかったというのは、ちょっと違うかもしれない。


 望と二人で出かけられたら、楽しいだろうな。

 そんなことを想像したことくらいは、ある。


 でも、それはあくまで、友達として。

 そう。友達として、だ。


(……じゃあ、なんでこんなにドキドキしてるのよ!?)


 希は勢いよく立ち上がった。


 まずい。

 これはまずい。


 食事に行く。それだけのことなのに、急に重大な問題が浮上した。


 何を着ていけばいいのだ。


 希はクローゼットへと向かい、勢いよく扉を開け放った。

 そこに並んでいるのは、スウェット、パーカー、ジャージ、そして履き古したジーンズ。


 見事なまでに、いつもの練習着ラインナップだった。


「うそでしょ……」


 思わず呟く。


 仕事中は会社の制服。

 仕事が終わればトレーニングウェア。休日もランニングショーツにTシャツ。少し寒ければパーカーを羽織る。


 以上。

 女子らしいお洒落?

 そんなもの、最後に意識したのはいつだっただろう。


 そして、望と食事に行くのに、どんな格好が正解なのだろう。


「ど、どうしよう……!」


 毎月の給料は、家計の足しにする分を差し引けば、あっという間に消えてしまう。

 ランニングシューズは消耗品だ。サプリメントだって必要になる。大会の参加費に遠征費、交通費。


 自己ベストを更新するたび、次はもっと上を目指したくなる。

 そのために必要な出費を惜しんだことはない。


 けれど、自分を着飾るためにお金を使おうと思ったことは、ほとんどなかった。


 どうせ走るだけだし。

 どうせ汗をかくし。

 動きやすければ、それでいい。

 そうやって過ごしてきた結果が、今のクローゼットである。


「パーカーにジーンズなんて、いつもの練習帰りみたいじゃない……!」


 いや、別にそれでもいいのかもしれない。


 望は、昔からの自分を知っている。

 短い髪も、日に焼けた肌も、男の子みたいな格好も。今さら取り繕ったところで、すぐに見抜かれてしまうだろう。


 それに、望だって、希にお洒落を期待しているわけではないはずだ。

 そもそも、ただの食事なのだから。


 ……なのに。


 希の視線は、クローゼットの奥にしまわれた、数少ない私服へと戻った。


(でも……)


 ほんの少しだけ。

 ほんの少しだけでいいから。

 いつもと違う自分を見てほしい。

 望に。


 そう思った瞬間、希は自分の考えにぎょっとした。


(……私、何を期待してるのよ!?)


 ただご飯に行くだけだ。

 友達と食事をするだけ。

 それなのに、なぜこんなにも必死になっているのか。


 しかも、よりによって望相手に。


 今や彼は、名門大学の陸上部で箱根駅伝を走るトップアスリートだ。テレビに映れば、たくさんの人が注目するような存在なのだ。

 大学には、きっと可愛い女子大生だっているだろう。

 お洒落で、綺麗で、流行にも詳しくて。望と同じ大学で、同じ陸上部の仲間たちと過ごし、彼の活躍を間近で見ている女の子だっているかもしれない。


 希の知らない望を知っている女の子。

 希の知らない顔を、望に見せてもらえる女の子。


 そこまで考えて、胸の奥がちくりとした。


(……って、なんで私がそんなこと気にするのよ)


 別に、望が誰と仲良くしていようが、関係ない。


 彼には彼の生活がある。希には希の生活がある。それは今までだって、これからだって変わらないはずだ。


 わかっている。

 わかっているのに。

 せめて、久しぶりに会ったときくらいは。

 少しでも、綺麗になったと思ってほしい。


 そこまで考えて、希は両手で顔を覆った。


「うわああああ……!」


 言ってしまった。

 心の中で、とうとう認めてしまった。


 自分は、望に可愛く見られたいのだ。

 友達としてではなく、ひとりの女の子として。


 ……いや、女の子なんて年齢でもないのだけれど。


「もう! 何なのよ、これ!」


 希は頭を抱えた。


 試合前の緊張なら、いくらでも乗り越えてきた。

 スタートラインに立つときの心臓の高鳴りも、勝負どころで相手を追い抜くときの苦しさも、よく知っている。

 苦しくても、足を動かせば前に進める。ペースを乱しても、立て直す方法はわかっている。


 なのに、たかが食事の約束ひとつで、完全にペースを乱されていた。


「……陸上より難しいじゃないの、これ……」


 鏡に映る自分を見つめる。


 短い髪。

 日に焼けた肌。

 すらりとした体つきには、走り込んできた証の筋肉がついている。


 嫌いな自分ではない。


 むしろ、この体で走り続けてきたことには誇りがある。以前のように、望に追いつくことだけを考えていたわけではない。今は走ることそのものが好きだし、少しずつ速くなっていく自分が嬉しい。


 そんな自分を、否定したいわけではない。


 それでも。

 今度、望に会ったとき。

 彼の隣に立った自分を、少しだけ好きになれたらいい。

 そんなことを願ってしまう。


「……ほんっと、どうすればいいのよ……」


 新年早々、人生最大級の難敵が現れた。


 その名も、青島望との食事に着ていく服問題。


 箱根駅伝よりも、マラソンよりも、今の希にはよほど攻略困難な相手だった。


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