再動編6『そのままの君でいて』
駅前の待ち合わせ場所で、望はそわそわと脚を揺らしていた。
スマホを確認する。まだ約束の時間まで五分ある。
ポケットにしまう。
また取り出す。
意味もなく画面を点灯させ、何も通知が来ていないことを確認して、再びしまった。
「……落ち着け、俺」
誰に言うでもなく呟き、望は額を拭った。
手汗がひどい。
別に、試合前というわけでもない。ましてや、今から走るわけでもない。
ただ、希と食事に行くだけだ。
それだけなのに。
(……もし、すげー綺麗になってたらどうしよう)
考え始めると、止まらなかった。
高校を卒業して、地元の会社に就職した希。
社会人になってからの彼女を見るのは、これが初めてだった。
最後に会ったのは、あの春のマラソン大会だ。あのときの希は、相変わらずランニングウェア姿で、ゴールした途端に俺に食ってかかってきた。
あれから、もうずいぶん時間が経っている。
大学に入ってから、望は周囲の女子大生たちを見る機会が増えた。
髪を綺麗に巻いて、流行の服を着て、きちんとメイクをして。高校時代とは違う、大人びた雰囲気を持つ女性たち。
もちろん、希だって社会人になったのだ。
仕事をしていれば、身だしなみに気を遣うようにもなるだろう。
ひょっとしたら、化粧を覚えているかもしれない。
髪を伸ばして、お洒落な服を着て、すっかり垢抜けているかもしれない。
そして、目の前に現れた希が、誰もが振り返るような美女になっていたら――。
(……俺、どんな顔して会えばいいんだ?)
いや、待て。
今の俺は、箱根で不甲斐ない走りをしたばかりの男だ。
期待されていた結果を出せず、自分の走りにも納得できず、頭の中では反省点がぐるぐる回っている。
そんな状態で、綺麗になった希を前にしたら。
まともに顔を見られる自信がない。
(いやいや、何考えてんだ俺は!)
勝手に想像して、勝手に緊張して。
これでは、まるで初デートに浮かれる中学生だ。
そんな自分に呆れながらも、望の手汗は一向に引かなかった。
「よっ、久しぶり!」
そのとき。
元気な声が頭上から降ってきた。
「お、おう!」
弾かれたように振り返る。
そして――。
「…………」
望は固まった。
そこにいたのは、履き古したスポーツシューズにジーンズ。チェックのネルシャツの上には、無骨なブルゾン。
短めの髪も、相変わらず。
どう見ても、いつもの希だった。
いや、待て。
社会人になったんだよな?
もう19歳なんだよな?
もうちょっとこう……何かあるだろう。
大人の女性らしい、華やかな変化とか。
待ち合わせ場所に現れた瞬間、思わず見惚れてしまうような、そんな劇的な変化とか。
少なくとも、望の脳内で勝手に育っていた「洗練された大人の女性」は、どこにも見当たらなかった。
希は不思議そうに首を傾げた。
「……なに? 私の顔になんかついてる?」
「……ッ、ハハハハッ!」
駄目だった。
こらえきれなかった。
「ちょ、ちょっと! なに笑ってんのよ……っ!」
希の顔が、みるみる赤くなる。
「いや、悪い! 悪いんだけど……っ!」
「何がそんなにおかしいのよ!」
「いや、だって……!」
望は笑いながら、何とか息を整えようとした。
別に、希の格好がおかしいわけではない。
似合っていないわけでもない。
むしろ、実に希らしい。
自分が勝手に妄想を膨らませ、勝手に緊張していたことが、急に馬鹿馬鹿しくなったのだ。
そうだ。
希は、こういう奴だった。
走ることが大好きで、負けず嫌いで、飾り気がなくて。
勝負に負ければ本気で悔しがるくせに、くだらないことで笑って、怒って、すぐに顔に出る。
昔から、何ひとつ変わっていない。
それが、たまらなく嬉しかった。
「な、なによ……! 私、こういう服しか似合わないんだからさ!」
希は拗ねたように顔を背けた。
「お洒落な服なんて持ってないんだよ! 悪かったわね!」
「いや、別に悪いなんて言ってないだろ」
「じゃあ、なんで笑うのよ!」
「それは……」
言えない。
まさか、綺麗になった希を前にしたらどうしようと、待ち合わせの数分前まで本気で悩んでいたなんて。
そんなことを口にしたら、今度こそ殴られかねない。
望はようやく笑いを収めた。
そして、改めて希を見る。
ジーンズにネルシャツ。飾り気のない格好。
確かに、華やかさとは無縁かもしれない。
けれど、気取ったところのない彼女らしさが、そこにはあった。
箱根で失敗して以来、胸の中に居座っていた重苦しいもの。
結果を出さなければならない。
期待に応えなければならない。
自分の選択を正しかったと証明しなければならない。
そんな思いが、少しだけ遠のいていく。
希といると、昔に戻れる気がした。
何者かにならなくてもいい。
立派な選手でなくてもいい。
ただの青島望として、くだらないことで笑っていられる。
それが、どれほどありがたいことなのか。
今の望には、よくわかっていた。
「……いや、ごめん。なんか安心した」
「はあ?」
希が怪訝そうな顔をする。
「何がよ?」
「いや、こっちの話」
「意味わかんないんだけど……」
まだ不満そうな希に、望は苦笑した。
そして、ふと思い出したように口を開く。
「そういえばさ」
「なに?」
「……あの夜のスリップドレス姿も、すげー似合ってたけどな」
「~~~~っっ!?」
一瞬だった。
希の顔が、耳まで真っ赤に染まった。
「あ、あああああんたねえっ!!」
「お、おい、どうした!?」
「どうしたじゃないわよ! なんで今あの話を出すのよ、バカッ!!」
希が猛然と詰め寄ってくる。
「あれは事故! 不幸な事故だから! 忘れなさい! 今すぐ忘れろーっ!!」
「いや、事故って言われても……!」
「いいから忘れろっ!」
「わっ、ちょっと待て! 胸倉を掴むな! 人目があるだろ!」
望は慌てて希の手を受け止めた。
周囲を通り過ぎる人々が、何事かとちらちらこちらを見ている。
新年早々、駅前で大騒ぎする二人。
傍から見れば、どう考えても仲のいい男女のじゃれ合いだ。
だが、当の二人には、そんなことを気にしている余裕などなかった。
「だいたい、あんたはデリカシーってものがないの!?」
「悪かったって!」
「絶対悪いと思ってないでしょ!」
「いや、まあ……ちょっとは?」
「ちょっとは!?」
「わかった、全面的に俺が悪かった!」
ようやく希の手が離れる。
望は胸を撫で下ろし、希は真っ赤な顔のまま、ぷいとそっぽを向いた。
「……もう。最低」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
思わず、二人で吹き出した。
何をやっているんだか。
19歳にもなって。
大学生と社会人になって。
それでも、会えばこんな調子なのだ。
けれど望は、笑いながら思っていた。
ああ、やっぱり。
俺は、こいつといる時間が好きなんだ。
結果を出せなかった自分も、格好悪い自分も、ここでは少しだけ忘れられる。
希の前では、昔と同じように言い返して、笑って、くだらないことで喧嘩ができる。
それが嬉しかった。
そして、同時に少し怖かった。
この時間が、いつまでも続くとは限らないから。
希は社会人になり、自分は競技の世界で上を目指している。
これから先、二人の距離はますます開いていくかもしれない。
それでも。
「……希」
「なによ?」
「今日、楽しみにしてたんだ」
今度は、笑わずに言った。
希が、ぴたりと動きを止める。
「……え?」
「久しぶりに会えるの。だから、来てくれて嬉しい」
望は照れ隠しのように頬を掻いた。
「……ま、飯でも食いながら、ゆっくり話そうぜ」
「…………」
希はしばらく彼を見つめていた。
やがて、真っ赤になった顔を隠すように、またそっぽを向く。
「……う、うん」
小さな返事だった。
その声が、いつもより少しだけ弾んでいることに。
望は、気づかないふりをした。
今はまだ、この距離でいい。
昔みたいに笑い合えることが、何より嬉しかったから。
――そして、そんな二人の間には、本人たちが気づかないまま、少しずつ甘い空気が流れ始めていた。




