再動編7『焼肉デートと、そのあとで』
落ち着いた雰囲気のおしゃれなイタリアンやカフェ――なんて選択肢は、この二人には最初から存在しなかった。
二人がたどり着いたのは、ファミリーや学生グループで賑わう焼肉食べ放題のチェーン店だった。
店内には肉の焼ける香ばしい匂いが充満し、あちこちからジュージューという音や楽しげな笑い声が聞こえてくる。
そんな中、二人は網の上にカルビやロースを次々と並べていた。
(まあ、どう考えても普通のデートで来る店じゃないわよね……)
希は、網の上で焼けていく肉を眺めながら、心の中で苦笑した。
せっかく二人きりなのだ。もう少しこう、ロマンチックな雰囲気というものがあってもいいのではないだろうか。
……いや、無理だ。
二人とも現役のガチアスリートなのである。
練習で消費するカロリーは半端ではない。食べても食べても腹が減る。おしゃれなレストランで小さな料理をちまちま食べていたら、店を出る頃には二人そろって空腹で倒れかねない。
それに、予算だって限られている。
食事代を節約して、浮いたお金でランニングシューズを買う。
それが、この二人の金銭感覚だった。
「おい、希。タン塩焼けたぞ。食え」
「あ、ありがと! じゃあカルビ追加ね!」
「お前、さっきもカルビ頼んでなかったか?」
「望だってロース追加してたじゃない!」
「俺は走ってるからいいんだよ」
「私だって走ってるわよ!」
「へいへい」
そんなことを言い合いながら、二人は肉を頬張る。
お互い遠慮なく食べ、遠慮なく言い返す。
これでは、せっかくの食事も色気がない。
でも、これはこれで楽しいのだ。
網を挟んでひたすら肉と米を口に運びながら、近況報告に花を咲かせることになった。
「でさ、今の大学の練習って、どれくらい走るの?」
「月間で言ったら、今はだいたい……」
「うわっ、相変わらずエグいわね。私、仕事しながらそこまで走ったら、たぶん過労で倒れるわ」
「まあ、大学は陸上漬けだからな。逆に、練習以外は結構自由だぞ」
「へえ。授業は?」
「……聞くな」
「単位、大丈夫なの!?」
「大丈夫だって。たぶん」
「たぶんって何よ!」
望が苦笑し、希が呆れる。
そんなやり取りが、いつまでも続いた。
大学の練習はどれほど厳しいのか。チームメイトにはどんな奴がいるのか。希の職場にはどんな人がいて、仕事はどれくらい忙しいのか。
話題は次から次へと尽きなかった。
箱根駅伝での失敗について、望は自分から詳しく語ろうとはしなかった。希も、無理に聞き出そうとはしなかった。
けれど、望が話すときの表情は、少しずつ柔らかくなっていった。
箱根の中継で見た、あの苦しそうな顔。
ゴールまで必死に前を追いながら、それでも思うように順位を上げられなかった姿。
あのときの望が、今、目の前で笑っている。
それが、希には嬉しかった。
(よかった……)
少なくとも、笑えている。
悔しくないはずがない。本人が納得できる走りではなかったのだろう。それでも、こうしていつもどおりに話せている。
ならば今は、無理に何かを聞き出さなくてもいいのかもしれない。
希はそう思い、焼けた肉をひっくり返した。
「……って、ちょっと! 望、そっち焦げてる!」
「うわっ、マジだ!」
「何やってんのよ。食べ放題だからって、肉を無駄にしたらダメでしょ!」
「お前が話を振ったんだろ!」
「人のせいにするな!」
結局、二人して慌てて肉を救出する羽目になった。
そんなくだらないやり取りに、また笑いが起きる。
久しぶりに、心から笑った気がした。
望も、同じだったのかもしれない。
少なくとも、食事が終わる頃には、彼の表情から箱根以来の険しさが少しだけ薄れていた。
◇◇◇
「ふう……食った食った!」
最後の肉を平らげ、望が満足げに腹をさすった。
「もう当分、お肉はいらないかも……」
「お前、最後の方ペース落ちてただろ。まだまだ甘いな」
「うるさいわね! デザートのアイスは別腹なの!」
「その腹、いったい何個あるんだよ」
「女には秘密のポケットがあるの!」
「便利だな、おい」
二人して笑いながら、食後のアイスまできっちり平らげた。
高級なドレスも、ムード満点のレストランもない。
お互いの顔を気にして、気取った会話をする必要もない。
腹いっぱい食べて、くだらない話で笑って。
そんな時間が、今の二人には何より心地よかった。
……少なくとも、希はそう思っていた。
これがデートと呼べるのかどうかは、よくわからない。
でも、望と一緒にいられるのは楽しい。
もう少しだけ、この時間が続けばいい。
そんなことを考えている自分に気づき、希は慌ててアイスの最後のひと口を口に放り込んだ。
考えるのは、あとだ。
今は、この時間を楽しもう。
◇◇◇
店を出ると、冬の冷たい空気が頬を撫でた。
「ううっ、寒っ!」
「食った直後にそんなに腹をさすってるからだろ」
「お腹いっぱいなんだから仕方ないでしょ!」
「いや、寒いなら上着の前を閉めろって」
「わかってるわよ!」
そんな軽口を叩きながら、二人は夜の街を歩き始めた。
世間一般の恋人たちなら、食後はおしゃれなバーで大人っぽく……なんて流れになるのかもしれない。
しかし、あいにく二人はまだ十九歳。お酒を楽しむには、もう少し時間が必要だった。
食後の運動と腹ごなしを兼ねた散歩。街灯がぽつぽつと照らす夜道を、二人は並んで歩いていた。
帰りを急ぐ必要はない。
せっかく久しぶりに会えたのだから、もう少し一緒にいたい。
それは、どちらも口にしなかったけれど。
先ほどまでの焼肉屋の賑やかさが遠ざかる。
車の走る音と、二人分の足音だけが聞こえる。
会話が途切れても、気まずさはなかった。
昔は、こんな沈黙を意識することさえなかった。
隣に望がいて、一緒に歩いている。それだけで当たり前だった。
今も、隣にいる。
なのに、希の胸の中には、言葉にできない思いが渦巻いていた。
あの箱根駅伝の日から、ずっと考えていたこと。
望は、本当に大丈夫なのだろうか。
笑っているからといって、悔しさが消えたわけではないはずだ。
自分の走りに納得できなかったことも、期待に応えられなかったことも、彼の中には残っているだろう。
そして、その重荷の一部は、自分が原因なのではないか。
そう考えるたび、胸が苦しくなった。
「……プレッシャーって、あんなに厄介なものだとは思わなかったな」
前を向いたまま、望がぽつりと呟いた。
希の足が、ほんのわずかに鈍る。
「沿道を埋め尽くすほど人がいて、中継車まで何台も走ってて。あんなところで走るのは初めてだったから」
望は苦笑した。
「頭ではわかってたつもりだったんだけどな。
走る前は思った以上に周りが気になってさ。
自分の走りに集中しなきゃいけないのに、気づいたら余計なことまで考えてた。
走り出したら今度は頭が真っ白になって、何もできなくて、ただ焦ばっかりで…」
その言葉に、希は箱根駅伝の中継を思い出した。
苦しそうに歪んでいた望の表情。
必死に前を追っているのに、思うように身体が動かないように見えた、あの姿。
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
「……ごめん」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
自分でも驚くほど、小さな声だった。
望が足を止める。
「……なんで希が謝るんだよ?」
「だって……」
希は俯いた。
言いたいことは、たくさんあった。
でも、いざ口にしようとすると、どれも自分勝手な言い訳に聞こえてしまう。
「私のせいで、望に余計なものを背負わせちゃったから……」
あの借金。
自分たち家族を救うために、望が背負った責任。
あのときの希は、救われたことが嬉しかった。望がいてくれることが、何より心強かった。
けれど、今になって考えてしまう。
彼が背負ったものは、本当にそれだけだったのだろうか。
借金を何とかするための責任だけではない。
自分の判断が間違いではなかったと証明すること。周囲の期待に応えること。オリンピックという目標に向かって、結果を出し続けること。
望は、どれほどのものを一人で抱えているのだろう。
自分がいなければ、彼はもっと身軽に走れたのではないか。
余計な心配をせず、競技だけに集中できたのではないか。
「私がいなかったら、望はもっと……」
「希」
遮るように名前を呼ばれた。
顔を上げると、望が真剣な目でこちらを見ていた。
「俺が勝手に決めたことだろ」
「でも……!」
「希のせいにしたことなんて、一度もないぞ」
きっぱりとした声だった。
希は言葉に詰まった。
望が自分を責めていないことくらい、わかっている。
彼は、そんな人ではない。
だからこそ、余計に苦しかった。
彼が何も言わないからといって、負担がなくなるわけではない。
彼が笑ってくれるからといって、自分が何も気にしなくていいわけでもない。
「……でも、望は……」
希は唇を噛んだ。
「私のことがなかったら、もっと自分のことだけ考えて走れたんじゃないの?」
言ってしまった。
ずっと胸の中にしまい込んでいた不安。
望に直接ぶつけるつもりはなかったのに、彼の前に立つと、どうしても隠しきれなかった。
望はしばらく黙っていた。
やがて、少し困ったように笑う。
「……そりゃ、何もなかったら、違う道もあったかもしれないけどさ」
希の胸が、ちくりと痛んだ。
「でも、それを言い出したら、きりがないだろ。陸上を選んだことだって、今の大学に入ったことだって、全部、自分で決めたことだ」
望は夜空を見上げた。
「箱根は、悔しかったよ。もっとやれると思ってたし、あんな走りをするつもりもなかった」
その声に、希は思わず息を呑んだ。
やっぱり、悔しかったのだ。
無理に平気なふりをしているわけではない。
望は、自分の失敗をちゃんと悔しがっている。
「でも、だからって、もう走りたくないわけじゃない。むしろ、次は絶対にもっといい走りをしてやるって思ってる」
望は、いつもの負けず嫌いな笑みを浮かべた。
「オリンピックのプレッシャーなんて、きっとこんなもんじゃないんだろうな。一度経験したんだから、次はもっとうまくやれる」
「……望」
「今回のことは、いい勉強になったよ。失敗したからって、そこで終わりじゃないしな」
その顔には、悔しさが残っていた。
けれど、それ以上に前を向く意志があった。
望は、立ち止まっていない。
自分の失敗を見つめ、次に進もうとしている。
そんな彼を、希はずっと知っていたはずだった。
そして、だからこそ。
自分も、ただ心配しているだけでは嫌だった。
彼が苦しいときに、何もできずに見ているだけの自分ではいたくない。
「……何か、私にできることない?」
希はぎゅっと拳を握りしめた。
「私、何だってするから……!」
食事の管理でも、練習のサポートでも。
自分にできることがあるなら、何だってやりたい。
望が背負っているものを、少しでも軽くできるのなら。
彼のために、何かをしたい。
ただ助けてもらったままでいるのではなく、今度は自分が彼の力になりたい。
それは、恩返しがしたいという気持ちだけではなかった。
望のそばにいたい。
彼が見ている景色を、少しでも近くで見たい。
彼が走り続ける世界に、自分も関わっていたい。
けれど、そんな思いをどう伝えればいいのか、希にはわからなかった。
ただ、必死に言葉を絞り出す。
「私、望の力になれるなら、もっと……!」
その瞬間だった。
「……っ!?」
ガシッ、と腕を掴まれた。
次の瞬間、ぐいっと身体を引き寄せられる。
ふわりと、望の体温に包まれた。
希の思考が、ぴたりと停止した。
(……え?)
え?
ええっ!?
今、何が起きた?
私、望に抱きしめられてる?
抱きしめられてるんですけど!?
陸上の大会なら、スタートの合図を聞き逃したことなど一度もない。
けれど今は、何の合図もなかった。
心の準備も、作戦も、ペース配分もない。
ただ、望の腕の中にいる。
近い。
近すぎる。
そして、温かい。
希は、どうすればいいのかわからないまま、硬直していた。




