再動編2『勝負!二人の市民マラソン大会(後編)』
沿道の歓声が、遠い波の音のように耳の奥で響いていた。
ひたすら、足を前へ。前へ。
腕を振り、呼吸を整え、一歩ずつ地面を蹴る。何度も何度も繰り返してきた動作なのに、今はそれがひどく難しい。
望の背中は、スタート直後にあっという間に遠ざかっていった。
当然だ。相手はオリンピックを狙うトップアスリートなのだから。
そして男子のトップ集団はもちろん、女子の先頭集団にさえ、とうの昔に置いていかれている。
それでも、希は走り続けた。
(悔しいなぁ……っ!)
歯を食いしばり、腕を振る。
もっと速く。もっと前へ。
望の姿は、もうどこにも見えない。
それでも、同じ道を走っている。
彼が今、どこか前方で必死に脚を動かしている。その姿を想像するだけで、不思議と足が前に出た。
できることなら、あいつを驚かせてやりたい。
そんなことを考えながら、希はひたすら脚を動かした。
そして、30キロを過ぎたあたりから、地獄が始まった。
脚が鉛のように重い。呼吸をするたびに肺が焼けつく。太腿は悲鳴を上げ、ふくらはぎは今にも攣りそうだった。
(きっつ……! なにこれ、ほんっとにきっつい……!)
短距離なら、全力を出し切る時間は限られている。
けれど、マラソンは違った。
苦しい時間が、いつまでも終わらない。
あと何キロ。
まだ何キロ。
もう十分頑張ったじゃないか。初めてのフルマラソンなんだから、完走できるだけでも上出来だ。
足を止めたっていい。少し歩いたっていい。
誰かに強制されているわけじゃないのだから。
そんな声が、頭の中で囁いていた。
もう、投げ出してしまいたい。
あと少しだけ頑張ろうと思っても、その「少し」が果てしなく遠い。
どうして自分は、こんな苦しい思いをしてまで走っているのだろう。
望に追いつきたいから?
彼に認めてもらいたいから?
それとも――。
(……嫌だ)
希は、きつく唇を引き結んだ。
そうだ。
嫌なのだ。
苦しいからといって、ここで諦めるのは。
自分には無理だと決めつけて、何もかも投げ出してしまうのは。
(絶対に、負けたくない……!)
望に?
違う。
自分自身に?
違う。
一度は自分の未来を諦めかけた、あの暗い絶望に、だ。
あの夜、何もかもを諦めていた自分。
自分の人生なんて、どうなってもいいと思っていた自分。
あのときの自分は、もう何も望んでいなかった。
ただ、目の前の苦しみが終わってくれればいい。自分さえ我慢すれば、家族が助かるのなら、それでいい。
そうやって、自分の未来を手放しかけていた。
けれど、望が助けてくれた。
彼は、希の未来を守ってくれた。
だから今度は、自分の足で進む。
どれほど遅くても。どれほど苦しくても。
自分の未来を、自分から諦めたりなんかしない。
「……っ、負けるかぁ……!」
掠れた声で、自分を叱咤する。
一歩。
もう一歩。
脚が重い。息が苦しい。
それでも、一歩。
やがて、視界の先に競技場のトラックが見えてきた。
ゴールが近い。
沿道の歓声が、少しずつ大きくなっていく。周囲のランナーたちも、残された力を振り絞るように脚を動かしていた。
希も最後の力をかき集める。
もう、脚の感覚なんてほとんどない。
それでも、前へ。
あと少し。
あと少しで、ここまでの努力に決着がつく。
そのときだった。
「のーぞーみ――っ!!」
割れんばかりの歓声の中から、自分の名前を呼ぶ声が飛び込んできた。
希は、はっと顔を上げた。
聞き間違えるはずがない。
望だ。
「希! あと少しだ! 頑張れ――っ!」
ゴール付近で、望がこちらに向かって大きく手を振っていた。
先にゴールしたはずの彼が、わざわざ待っていてくれたのだ。
(……っ、バカ……!)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
こんなところで、そんな顔をして応援するな。
そんな声で、自分の名前を呼ぶな。
だって。
だって、そんなことをされたら。
もっと頑張りたくなっちゃうじゃないか!
もう限界だと思っていた脚に、ほんの少しだけ力が戻った気がした。
「うおおおおおっ……!」
もはや雄叫びに近い声を上げ、希は最後の直線を駆け抜けた。
あと少し。
あと数メートル。
望が、こちらを見ている。
目が合った。
彼が笑った。
その笑顔を見た瞬間、希は最後の力を振り絞った。
そして――。
フィニッシュラインを越えた瞬間、膝から一気に力が抜けた。
「わっ……!」
前のめりに倒れかけた身体を、力強い腕がガシッと受け止める。
「……っ、よく走った、希!」
耳元で聞こえた声。
汗の匂いと、温かな体温。
望だった。
「……の、ぞむ……」
「おう。お疲れ!」
望は、まるで自分が優勝したとき以上に嬉しそうな顔をしていた。
「タイム、3時間13分47秒だぞ!? お前、本当に初マラソンかよ!?」
「……え?」
頭が回らない。
タイム?
3時間13分47秒?
何の話だっけ。
ぼんやりと顔を上げると、望が興奮した様子で掲示板を指さした。
速報掲示板には、確かに自分の名前が表示されている。
そして、その横には――。
『女子10代の部 8位入賞』
「……ウソでしょ?」
「ウソなもんか!」
望が弾けるように笑った。
「すげえよ! 初マラソンで3時間13分って、お前、才能あるんじゃねえの!?
マラソン、本格的にやれよ、希!」
「ちょ、ちょっと……!」
興奮した望に、ぎゅっと抱きしめられた。
強い腕が、背中に回る。
突然のことに、希は息を呑んだ。
近い。
近すぎる。
耳元で望の声がする。自分を支える腕の力が伝わってくる。汗だくの身体越しに、彼の体温まで感じられた。
苦しいレースの間、ずっと遠くにあった人。
追いかけても追いかけても届かなかった背中。
その望が今、自分を抱きしめてくれている。
嬉しい。
どうしようもなく、嬉しかった。
走ってよかった。
諦めなくてよかった。
そして、こんなふうに喜んでくれるのが望でよかった。
……って、いやいやいや!
「ちょ、ちょっと待って! 望、周りの人たちが見てるから! 離してってばー!」
恥ずかしい!
ものすごく恥ずかしい!
ゴール直後で汗だくの自分を、こんな大勢の前で抱きしめるなんて、何を考えているんだ、この男は!
それに、よりによって望にこんなことをされたら、心臓がいくつあっても足りない。
希が慌てて胸を叩くと、望はようやく腕の力を緩めた。
「悪い、悪い。嬉しくて、つい」
そう言いながらも、その顔はどこか名残惜しそうだった。
……本当に、もう!
希は真っ赤になった顔を隠すように俯いた。
走ったせいだ。
きっと、そうだ。
こんなに全力で走ったのだから、顔だって熱くなる。心臓だって、まだ落ち着いていない。
だから、この胸のどきどきも。
きっと、そういうことに違いない。
気を取り直して、希は掲示板へ目を向けた。
その頂点には、圧倒的な記録が刻まれていた。
『男子総合1位 青島望 2時間14分58秒』
「……2時間14分台って」
希は呆れたように息を吐いた。
「アンタ、本当に化け物ね」
「おいおい。人間だっての」
「じゃあ、どうしてあんなタイムを出せるのよ!?」
「練習したから?」
「腹立つぅぅぅ!」
あっけらかんと答える望に、希は思わず叫んだ。
目標タイムを達成し、きっちり2時間15分を切っている。
そして招待選手たちを抑えての堂々たる優勝だ。
まさに有言実行。
これが、今の青島望。
遠くへ行ってしまったと思っていた。
もう、自分とは違う世界の人間なのだと思っていた。
けれど、今は少しだけ違う。
自分もまた、ここまで走ってきた。
望の隣には立てなくても、自分の足でゴールまでたどり着いた。
初めてのフルマラソンで、最後まで走り切った。
その事実が、胸の奥にじんわりと広がっていく。
そして、望が自分のことのように喜んでくれている。
それが、何よりも嬉しかった。
希は、ニヤリといたずらっぽく笑った。
「でもね! ハンデのおかげで勝ったのは私だから!」
「……はい?」
「約束通り、今日の晩ご飯は豪華に奢ってもらいますからね!」
「いや、まあ、それはいいけどさ……」
「ふふん! 勝負は勝負よ!」
得意げに胸を張る希。
望は一瞬ぽかんとしたあと、やがて楽しそうに笑った。
「はいはい。お安い御用だよ。何でも好きなもん食え」
「言ったわね? 遠慮しないから!」
「おう。今日くらいは好きなだけ食え」
その笑顔を見て、希もつられて笑った。
昔と変わらない。
憎まれ口を叩いて、意地を張って、どちらも譲らない。
けれど、今は少しだけ違う。
望が笑うと、嬉しい。
自分のことを褒めてくれると、胸がいっぱいになる。
自分を抱きしめた腕の感触を、いつまでも覚えていたいと思ってしまう。
そんな気持ちは、きっと、ただのライバル意識とは違う。
希にも、薄々わかっていた。
わかっていたけれど、今はまだ、それを口にする勇気はない。
だから、いつものように笑ってみせる。
悔しさも、達成感も、そして少しばかりの甘い気まずさも。
全部まとめて抱えながら、二人は顔を見合わせた。
春の暖かな光の中、満開の桜が風に舞っている。
希は、隣で笑う望を見上げた。
まだまだ、追いつけそうにない。
競技者としても。
そして、自分の気持ちを素直に伝えることにおいても。
けれど、いつか。
いつかきっと、胸を張って隣に立てるように。
そして、そのときには。
今より少しだけ、素直になれたらいい。
(……待ってなさいよ、青島)
心の中で、そっと呟く。
(今度は、絶対に追いついてやるんだから)
その決意を胸に、希はもう一度、力強く笑った。




