再動編1『勝負!二人の市民マラソン大会(前編)』
あの日から、希は再び走り始めた。
中学時代、陸上部を引退するまで、朝練を欠かしたことは一度もなかった。
高校に入ってからも、走ることをやめたわけではない。
けれど、家計を助けるためにアルバイトを始めてからは、陸上に打ち込める時間が減っていった。練習に出られない日が増え、出られたとしても、以前のように全力を尽くすことはできなかった。
結局、高校での陸上生活は不完全燃焼に終わった。
それでも、走ることが嫌いになったわけではなかった。
早朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、まだ人影の少ない道を駆け抜ける。
頬を撫でる風。規則正しく地面を蹴る足音。少しずつ温まっていく身体。
久しぶりに走った朝、希は懐かしさとともに、胸の奥がすっと軽くなるのを感じた。
ああ、やっぱり走るのは気持ちいい。
身体は、覚えていたのだ。
ただし、一つだけ、以前とは大きく変わったことがある。
目指すのは、長距離だった。
◇◇◇
中学時代、希と望はともに短距離の選手だった。
短い距離を誰よりも速く駆け抜ける。その一瞬にすべてを懸けることが、二人の誇りだった。
練習では何度も競い合った。
勝てば相手をからかい、負ければ次こそ勝つと意地を張る。どちらかが自己ベストを更新すれば、もう一方も負けじと記録を伸ばした。
あの頃の希にとって、望は一番のライバルだった。
――本当に、それだけだったのだろうか。
ふと、そんな疑問が頭をよぎることがある。
望に勝ったときの、胸が弾むような喜び。
自分の走りを認められたときの、くすぐったいような嬉しさ。
練習が終わっても、なんだかんだと理由をつけて彼と話していた時間。
思い返せば、望がいるだけで、いつもの景色が少しだけ違って見えていた気がする。
けれど、今さらそんなことを考えても仕方がない。
あの頃の自分は、ただ勝負に夢中だった。
……たぶん。
ところが、高校進学を機に別々の道を歩み始めると、望は長距離へと転向した。
そして、そこで才能を開花させた。
今や彼は、将来のオリンピック代表候補として名前が挙がるほどの選手になっている。
日本の男子マラソンは、長らくオリンピックのメダルから遠ざかっている。かつては世界の頂点を争った歴史もあるが、近年は厳しい戦いが続いていた。
その壁を打ち破るかもしれない若き才能。
それが、今の望だった。
希の借金問題を解決するため、彼が差し出したもの。
それは、単なる金銭でも、口先だけの約束でもない。
自分が積み重ねてきた実績と、これから先の競技人生。そして、将来への期待を背負う覚悟だった。
彼は、自分の未来を懸けてまで、希を救ってくれたのだ。
あの日のことを思い出すと、今でも胸が苦しくなる。
嬉しかった。
救われたことが、何よりも嬉しかった。
でも、それだけではない。
自分のために、あんなにも真剣な顔をしてくれたこと。迷いなく手を差し伸べてくれたこと。
思い出すたび、胸の奥が熱くなる。
あのとき、もし望が来てくれなかったら。
そこまで考えて、希は慌てて首を振った。
やめよう。
もう、あの夜のことは考えない。
今の自分には、考えなければならないことがある。
では、自分はどうなのだろう。
短距離しか経験のない自分が、今から長距離に挑戦して、どこまで通用するのか。
そもそも、自分に長距離を走る力があるのかどうかすらわからない。
それでも、走りたかった。
望と同じ景色を見てみたかった。
彼の隣に立ちたい。
ただ助けられただけで終わりたくない。
あの日、望が自分の未来を守ってくれたからこそ、今度は自分の足で、自分の未来を探してみたいと思えたのだ。
そして、できることなら。
いつか彼に、すごいな、と言ってほしい。
助けてやった相手としてではなく。
守ってやらなければならない相手としてでもなく。
一人の選手として。
かつてのライバルとして。
望の目に、そんな自分が映ったら。
そう考えただけで、なぜか頬が熱くなった。
……何を考えているんだ、私は。
希は小さく頭を振り、再び前を向いた。
だから、走る。
最初は、思うようにいかなかった。
短距離の練習で鍛えた脚力があるからといって、長い距離を走り続けられるわけではない。
少しペースを上げれば息が切れ、距離を延ばせば脚が重くなる。走り終えたあとは、しばらく動きたくないほど疲れ果てることもあった。
そんなとき、望は電話越しに容赦なく言った。
『お前、最初から飛ばしすぎなんだよ。長距離は根性だけでどうにかなるもんじゃねえぞ』
「うっさい! わかってるわよ!」
『わかってねえから言ってんだろ』
「だったら、ちゃんと教えなさいよ!」
『はいはい。まずは明日の練習メニューからな』
腹が立つ。
腹が立つけれど、望の助言は的確だった。
走る距離を少しずつ伸ばし、ペースを調整し、疲労が残る日は無理をしない。走り方も、呼吸の仕方も、短距離とは違う部分が多かった。
教わったことを一つずつ試し、できなかったことができるようになる。
その積み重ねが、少しずつ希の走りを変えていった。
電話を切ったあと、希はときどき、スマートフォンの画面をしばらく眺めてしまう。
もう用事は済んだはずなのに。
もう少し話していたかった、なんて。
そんなこと、本人には絶対に言えない。
次に話すときは、もっとまともな報告ができるようにしよう。
そう思うと、翌日の練習にも自然と力が入った。
もちろん、望と同じような才能が自分にもあるとは思っていない。
それでも、走っている間だけは、あの夜の恐怖も、自分の無力さも、頭の片隅へ追いやることができた。
自分の脚で前へ進む。
昨日より少し遠くまで走る。
昨日より少し速く走る。
誰かに決められた道ではない。
誰かに命じられたわけでもない。
自分が走りたいから、走るのだ。
その当たり前のことが、希にはたまらなく嬉しかった。
もう二度と、自分の未来を諦めたくない。
今はまだ、望の背中は遠い。
けれど、追いかけることを諦めるつもりはなかった。
いつか、もう一度。
あの頃のように、隣に並んで競い合える日が来ることを信じて。
◇◇◇
季節は巡り、春が来た。
満開の桜が風に舞い、花びらがひらひらと街路を彩る頃。
二人は、とある地方都市で開催されるマラソン大会の会場にいた。
先日、高校を卒業したばかりの二人。
それぞれが新しい進路へ歩み出すまでの、つかの間の春休みだった。
その貴重な時間を使って、二人は同じ大会にエントリーしたのだ。
もちろん、ただ一緒に走りたかったから、というだけではない。
勝負をするためだった。
……少なくとも、希はそういうことにしていた。
会場は、朝から大勢の参加者で賑わっていた。
色とりどりのランニングウェアに身を包んだランナーたち。家族や友人の応援に来た人々。沿道には大会スタッフが並び、スタートに向けた準備が進められている。
その一角で、望はウォーミングアップを終え、軽く脚を伸ばしていた。
「今日の目標は、2時間15分」
「……2時間15分!?」
あまりにもあっさりと告げられた目標タイムに、希は思わず目を丸くした。
フルマラソン、42.195キロ。
それを2時間15分で走り切る。
単純計算でも、1キロを約3分12秒のペースで走り続けることになる。少しでも気を抜けば、あっという間に目標から遠ざかってしまう速度だ。
一般ランナーにとっては雲の上のような記録だが、望にとっては、ただ完走するだけの大会ではなかった。
「見てろよ。実業団の招待選手たち、まとめて食ってやるから」
望は口元をニッと吊り上げた。
いつもの調子で軽口を叩いているように見える。
けれど、その瞳には、勝負に臨むアスリート特有の鋭い光が宿っていた。
彼は、自分に寄せられる期待を恐れてはいない。
むしろ、それさえも走るための力に変えてしまおうとしている。
その横顔を見て、希は改めて思った。
遠くへ行ってしまったな、こいつ。
中学時代は、同じトラックを走っていた。
それが今では、オリンピックを目指す選手と、初めてフルマラソンに挑戦する選手だ。
実力差は、きっと途方もなく大きい。
けれど。
「ふん、言ったわね!」
希は胸を張った。
「私は1時間のハンデをもらうから!」
「おう。好きにしろ」
「なによ、その余裕!」
「いや、だってたったの1時間だぞ?」
「うるさい! 初マラソンだからって、舐めないでよね!」
望は楽しそうに笑った。
希も、負けじと笑い返す。
その笑顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
こうして隣に立って、くだらないことで言い合って。
そんな時間が、ずっと続けばいいのに。
――なんて。
希は慌てて、その考えを追い払った。
何を考えているのだろう。
今日は勝負に来たのだ。そう、勝負。
別に、望と一緒にいられるのが嬉しいわけではない。
……いや、嬉しいけれど。
それとこれとは別の話だ。
そう自分に言い聞かせながら、希はランニングシューズの紐を結び直した。
ちなみに、望の目標タイムは2時間15分。そこに1時間のハンデを加えれば、希の目標タイムは3時間15分となる。
初めてのフルマラソンで狙うには、かなり高い目標だ。
それでも、希はこの日のために準備を重ねてきた。
短距離で培った走りの基礎。苦しい練習にも食らいつく根性。そして何より、走ることが好きだという気持ち。
望に教わりながら練習を重ねるうちに、希にもわかってきたことがあった。
長距離は、ただ速く走ればいいというものではない。
自分の身体と向き合い、力を配分し、苦しくなってからも前へ進む方法を身につけなければならない。
才能だけではどうにもならない部分がある。
そして、そこには努力で変えられる余地がある。
最初は数キロ走るだけで息が上がっていた希も、今では長い距離を一定のペースで走れるようになっていた。
まだまだ足りない。
望のいる場所には届かない。
それでも、以前の自分よりは確実に前へ進んでいる。
「絶対に負けないんだから! 見てろよ、望!」
希はビシッと人差し指を望の鼻先に突きつけた。
その姿は、まるで中学時代に戻ったかのようだった。
練習が終わるたびに、次は勝つと息巻いていたあの頃。勝っても負けても、翌日にはまた顔を合わせ、今度こそと競い合っていた日々。
望は一瞬だけ目を細め、それから懐かしそうに笑った。
「へいへい。追いつけるものなら追いついてみな」
「言ったわね!」
「おう。楽しみにしてるぜ」
その言葉に、希の胸が熱く躍った。
嬉しかった。
同情でも、義理でもない。
望は今、勝負相手として自分を見てくれている。
自分がどれだけ成長したのか。どこまで走れるのか。
それを確かめる相手として、真正面から向き合ってくれている。
あの日、望に救われた自分は、もう彼に何も返せない弱い人間ではない。
まだ返せたものなんて、何一つないかもしれない。
それでも、少なくとも今の自分は、自分の意志でここに立っている。
望に連れてこられたわけでも、恩返しをするためだけに走っているわけでもない。
自分が走りたいから、走る。
そして、できることなら。
いつか、彼に認めてほしい。
すごいな、と笑ってほしい。
隣に並んだとき、昔みたいに遠慮なく憎まれ口を叩き合いたい。
そのとき、望はどんな顔をするだろう。
今みたいに笑ってくれるだろうか。
それとも、少しくらい驚いてくれるだろうか。
想像しただけで、胸がくすぐったくなった。
……だから、これは勝負相手として認められたいだけだ。
そういうことにしておこう。
◇
やがて、スタート時刻が近づいた。
係員の誘導に従い、参加者たちがスタート地点へと集まっていく。
健康のために走る人もいれば、自己ベストを目指す人、仲間と完走を楽しみに来た人もいる。
それぞれに違う目的を持つランナーたちが、同じスタートラインを目指していた。
その中で、望はひときわ目立っていた。
将来を期待される若きトップアスリート。
周囲から向けられる視線も、かけられる声も、一般の参加者とは違う。
それでも、望はいつもどおりだった。
軽く肩を回し、脚の具合を確かめるようにその場で跳ねる。緊張していないわけではないだろう。けれど、それを表に出すことなく、いつでも走り出せる状態を整えていた。
希は、その横顔をそっと盗み見た。
走る前の望は、いつもこんな顔をしていた。
余計なものをすべて切り捨てて、目の前の勝負だけを見つめる顔。
中学時代から、何度も見てきた。
見慣れているはずなのに、今は少し違って見える。
真剣な表情も、引き締まった横顔も。
そして、その隣に自分が立っている。
見据える目標も、背負っているものも違う。
望はトップアスリートとしての期待を背負い、世界へ続く道を走ろうとしている。
希は、まだ自分に何ができるのかもわからない。それでも、自分の可能性を確かめるために、この場所までやってきた。
走る理由は違う。
目指す場所だって、今は同じではない。
それでも、同じ道を走ることはできる。
「……望」
「ん?」
呼びかけると、望がこちらを向いた。
いつもの顔だった。
気取ったところも、特別に優しいところもない。希が知っている、昔からの望。
それだけで、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
「絶対、追いつくから」
希は彼の目を見て言った。
ただの強がりではない。
本当に、追いつきたいと思っていた。
望は前を向き直し、何でもないことのように答えた。
「待ってるよ」
たった一言。
それなのに、希の心臓が大きく跳ねた。
待ってる。
彼は、そう言ってくれた。
自分が追いつくことを、当たり前のように信じてくれている。
もちろん、競争相手としての言葉だ。昔からそうだった。望は希が食らいついてくることを面白がっていたし、負ければ次は勝つと向かってくる希を、いつだって真正面から受け止めてくれた。
だから、今回だって同じ。
わかっている。
わかっているのに。
その言葉が、どうしようもなく嬉しかった。
胸の奥が熱くなって、何か言い返そうとしても、うまく言葉が出てこない。
結局、希は彼の横顔から目をそらした。
「……絶対だからね」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
振り返ってほしいわけじゃない。
自分のために歩みを緩めてほしいわけでもない。
ただ、彼が本気で走るその先に、自分もたどり着きたい。
いつか、胸を張って隣に立てるように。
そのときは、もう恩返しなんて考えなくていい。
ただ、昔のように。
どちらが速いのか、どちらが強いのか。
そんなことで本気になって、笑い合える二人でいたい。
そして、できれば。
勝負が終わったあとも、もう少し一緒にいたい。
今日のレースの話をして、望の走りに文句をつけて、彼のほうも好き勝手に言い返してくる。
そんな時間を、想像してしまう。
……本当に、私は何を考えているのだろう。
スタート前だというのに、胸の中が騒がしくて仕方がない。
けれど、その落ち着かなささえ、今は嫌ではなかった。
号砲が鳴った。
大勢のランナーが一斉に駆け出す。
望は迷いなく前へ飛び出した。
希もまた、力強く地面を蹴る。
走り始めてすぐ、望の背中は人波の向こうへと遠ざかっていった。
追いつけない。
今の自分では、まだ。
それでも、希は前を向いた。
最初から追いつけるなんて思っていない。
今日の勝負で、彼の隣に並べるとも思っていない。
けれど、一歩ずつなら進める。
昨日より今日。今日より明日。
その積み重ねの先に、いつか届く場所があると信じている。
望が走っていく。
自分の夢へ向かって。
希は、その背中を追いかけた。
追いつきたい。
負けたくない。
そして、いつか。
あの背中の隣に並んだときには、今より少しだけ素直になれたらいい。
そんな願いを胸に秘めながら。
満開の桜が舞い散る春の道。
二人の「希望コンビ」は、それぞれの未来へ向かって走り始めた。
誰かに決められた未来ではない。
誰かに与えられた未来でもない。
今度こそ、自分たちの足で切り拓く未来へ。




