再会編6『普通の恋をできないようにしてしまったのでは?』
部屋のパイプベッドに深く身体を沈め、望は天井のシミをじっと見つめていた。
肺の中の空気をすべて吐き出すような、深いため息が漏れる。
(……カッコつけすぎた)
後悔しても、もう遅い。
あの夜。白いスリップドレス姿で、今にも壊れそうに震えていた希を目の前にしたとき、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
怒りも、悲しみも、彼女を抱きしめたいという衝動も。いろんな感情が一度に押し寄せて、何を考えればいいのかさえわからなかった。
それでも、必死に平静を装った。
『……任せろ。俺がなんとかする』
なんて、偉そうに。
『希は、自分のやりたいことやれよ』
なんて、いかにも物わかりのいい男みたいに。
「……何が、やりたいことやれよ、だ」
思わず独り言がこぼれた。
本当は、そんな綺麗なことを言いたかったわけじゃない。
本当は――。
(……今すぐ、抱きしめたかった)
他の男に買われるくらいなら、俺のところに来い。
俺がお前を守る。だから、もう一人で何もかも背負うな。
そう言って、あの細い肩を抱き寄せたかった。
そして、誰にも渡したくなかった。
中学時代、同じトラックを走っていた頃から、気づけば目で追っていた女の子だ。
負けず嫌いで、口が悪くて、単純で、すぐムキになるくせに、誰かが困っていれば放っておけない。
そんな希が、あんな場所で、知らない男に身体を差し出そうとしていた。
思い出すだけで、今でも腹の底が煮えくり返る。
(……いっそのこと、あの場で言っちまえばよかったんだ)
他の男に奪われるくらいなら、俺の女になれ、と。
借金は俺が何とかする。だから、お前は俺だけを見ていろ、と。
……いや。
今からだって、遅くはないんじゃないか?
希は義理堅い。自分のために借金を肩代わりしたとなれば、相当な恩義を感じているはずだ。
真剣に頼み込めば、簡単には断れないだろう。それどころか、あの単純バカのことだ。責任を感じて、何でも言うことを聞こうとするかもしれない。
つまり、今の自分には希を引き留めるための材料が揃っている。
彼女の家族を救ったという事実。
彼女が背負うはずだった借金。
そして、恩を受けた以上、無下にはできないという希自身の性格。
それらを利用すれば、彼女を自分のそばに置くことくらい、難しくはないのかもしれない。
(……利用、か)
その言葉が頭に浮かんだ途端、胸の奥が冷たくなった。
望はゆっくりと天井から視線を外した。
俺は一体、希に何を求めているんだろう。
恩義で縛りつけ、断れない状況に追い込んで。そうして自分の隣に置いた彼女を、恋人だと呼ぶのか?
自分に逆らえないから笑ってくれる女を手に入れて、それで満足するのか?
「……冗談じゃねえ」
吐き捨てるように呟いた。
そんなもの、望んでいた関係じゃない。
確かに、希が欲しい。
誰にも渡したくない。ずっと自分の隣にいてほしい。自分だけに笑いかけてほしいし、できれば、他の男には見せない顔だって見てみたい。
……いや、最後のはさすがに欲張りすぎか。
ひとりでそんなことを考え、望は苦笑した。
けれど、これだけは譲れない。
希には、自分の意思で隣にいてほしい。
借金を理由に繋ぎ止めたところで、何の意味もない。断れないから頷いたのだとしたら。仕方なく笑ってくれているだけだとしたら。
その笑顔を見て、嬉しいと思えるはずがなかった。
望が欲しいのは、そんな歪んだ関係じゃない。
中学時代の陸上グラウンド。
練習が終わると、二人で並んで水を飲んだ。タイムがよければ自慢し合い、悪ければ悔しがり、くだらないことで言い争った。
『次は絶対、私が勝つから!』
『はいはい。せいぜい頑張れよ、緑川』
『その余裕、今のうちだからね!』
あの頃の希は、いつだって真正面からぶつかってきた。
腹が立てば怒り、嬉しければ笑い、悔しければ食ってかかってくる。望に遠慮することも、顔色をうかがうこともなかった。
そして、望もまた、そんな彼女と対等でいられた。
欲しかったのは、あの関係の続きなのだ。
隣で笑い、遠慮なく文句を言い、くだらないことで喧嘩をする。
時には本気で競い合い、負ければ悔しがり、次こそ勝ってやると意地を張る。
そんな希が、これからも自分の隣にいてくれたら。
「……あー、くそっ。カッコ悪いな、俺」
望は腕で顔を覆った。
そもそも、何が悲しくて、惚れた女の弱みにつけ込むような真似をしなければならないのか。
好きなら好きだと、真正面から言えばいい。
……言えたら苦労しないのだが。
何しろ、相手はあの希だ。
一緒に走ってきた中学時代の相棒。気安い友人。口を開けば憎まれ口ばかり叩き合ってきた相手。
そんな希に、今さら男として意識しているなんて打ち明けたら、どんな顔をされるだろう。
驚くだろうか。
笑われるだろうか。
それとも――。
(……いや、今はそれどころじゃねえだろ)
望は頭を振った。
希はようやく、借金と、身体を売らなければならないという恐怖から解放されたばかりだ。
そんな彼女に自分の気持ちを押しつけて、今度は恋愛で悩ませるつもりなのか。それでは結局、自分の都合で彼女を振り回すことになる。
まずは、希が自分の人生を取り戻すことだ。
何をしたいのか。何を目指したいのか。これからどう生きていきたいのか。
それを、彼女自身に見つけてほしい。
……できることなら、その隣に自分もいたいけれど。
「はあ……」
またしても、ため息が漏れた。
彼女を自由にするために、自分は将来を賭けた。
それで希が笑ってくれるなら、それでいいと思った。
なのに、いざ目の前に立たれると、今度は自分のほうが置いていかれるような気がしてしまう。
希は、自分のために何かをしたいと言ってくれた。
その気持ちは、嬉しかった。
けれど、彼女には彼女の人生がある。恩返しのために進路を変えたり、自分の夢を諦めたりしてほしくはなかった。
だからこそ、好きに生きろと言ったのだ。
なのに。
もし、その先に自分がいなかったら?
希が自分の夢を見つけ、前を向いて歩き出したとき。その隣にいるのが自分ではなかったら?
想像しただけで、胸の奥がざわついた。
「……俺、思ってたよりずっと面倒くせえな」
彼女を縛りたくない。
でも、離れてほしくない。
自分の夢を追いかけてほしい。
でも、その夢の隣に自分がいなかったら寂しい。
まったく、どうしろというのだ。
望は寝返りを打ち、枕に顔を埋めた。
希を引き留めるための切り札なら、確かに手に入れた。
けれど、自分が本当に欲しいもの――希の心だけは、どれほど手を伸ばしても、掴める保証などどこにもない。
「……好きなんだけどなあ」
誰にも聞かれない部屋の中で、望は小さく呟いた。
陸上なら、練習を重ねて記録に挑むことができる。
だが、恋愛は違う。
どれほど本気で願っても、どれほど相手を大切に思っても、相手の気持ちまで自分の努力で決めることはできない。
誰よりも速く走ることよりも、どんな大舞台で結果を出すことよりも。
希の心を振り向かせることのほうが、よほど難しい勝負なのかもしれなかった。
……だからといって、何もしないまま諦めるのも違うだろう。
「……よし」
望は勢いよく身体を起こした。
さっきの希は、何か言いたそうにしていた。自分の言葉に戸惑い、何かを考え込んで、最後には黙り込んでしまった。
あの顔が、頭から離れない。
きっと、彼女自身にも、まだ答えが見つかっていないのだろう。
だったら、急かす必要はない。
今すぐ自分の気持ちを伝える必要もない。
ただ、彼女が何かを見つけようとしたとき、隣にいられる男でいたい。
希がまた走りたいと思うなら、応援する。
別の道を選ぶなら、それも応援する。
そのうえで、いつか自分の意思で隣に来てくれたら――。
(……いや、やっぱり、それだけじゃ足りねえな)
望は苦笑した。
応援するだけで満足できるほど、聞き分けのいい男じゃない。
本当は、隣にいてほしい。
できることなら、自分を選んでほしい。
その願いまでなかったことにするつもりはなかった。
「……まずは、話を聞くところからだな」
望はベッドから立ち上がり、机の上に置いてあったスマホを手に取った。
希にLINEを送ろうとして、指が止まる。
何と送ればいいのだろう。
今さら『今日は大丈夫だったか?』というのも、何だか違う。さっき別れたばかりだし、心配していることなら、もう十分に伝わっているはずだ。
しばらく画面を見つめた末、望は短く打ち込んだ。
『今度、飯でも食いに行こうぜ』
送信。
たったそれだけのメッセージなのに、妙に緊張した。
「……何やってんだ、俺」
思わず笑ってしまう。
大舞台のスタートラインに立つときだって、ここまで落ち着かなくなることはない。
それでも、送ったメッセージを取り消そうとは思わなかった。
借金のことも、助けたことへの恩返しも関係ない。
ただ、希と一緒に飯を食いたい。
昔みたいに、くだらない話をして、憎まれ口を叩き合って。
そんな時間を、もう一度重ねていきたい。
その先で希が何を選ぶのかは、まだわからない。
自分を選んでくれる保証だってない。
それでも。
「……逃げてたまるか」
望は小さく呟いた。
相手の気持ちを無理やり手に入れることはできない。
けれど、自分の気持ちから逃げずに、真正面から向き合うことならできる。
いつか希が、自分の意思で隣に立ってくれるように。
そして、できることなら――また二人で、同じ景色を見られるように。
望はスマホを手に取り、画面を確認した。
まだ、返事はない。
「……ま、気長に待つか」
そう呟いた声には、先ほどまでの情けないため息とは違う、ほんの少しの決意が混じっていた。
ということで起パート再会編は結びです。
次回から承パート、両片思いが続くという最も美味しいかもしれない部分です。
望の造形ですが、ChatGPTさんもGEMINIさんも大絶賛でした。
服従させたいわけじゃない。対等なパートナーでいてほしい。
男女同権時代においては理想的なヒーロー像です。
一方で男性諸氏には共感しにくいかもしれないなぁと思ってます。
実はエロゲーで前々から思っていたこと。
鬼畜系では女の弱味につけこみ支配下におきます。
純愛系では、やっぱり女の弱味をきっかけに関係を深めるのです。
実はやってること同じじゃね?
ということで、弱味につけこむことを否定するヒーローというモチーフが生まれたのでありました。




