再会編4『消えた借金、そしてそれより重いもの』
あんなに思い詰めていたというのに。
どうせ誰かに奪われるくらいなら、初めての相手は望がよかった――などと、身勝手な覚悟まで決めていたというのに。
現実は、拍子抜けするほどあっさりと、その方向を変えた。
翌日。
店の担当者から告げられたのは、耳を疑うような言葉だった。
「緑川さん。あなたは、もう解放されました」
「……は?」
「あなたのご家族が抱えていた債務について、第三者から全額の弁済がありました。こちらとの契約も終了しています。今後、あなたがここで働く必要はありません」
希は、しばらく何も言えなかった。
借金が、なくなった?
全額?
あの、どう考えても普通に働いて返せるとは思えなかった、途方もない金額が?
「ちょ、ちょっと待ってください! どういうことですか? 誰がそんなことを……!」
「申し訳ありませんが、詳しいことはお答えできません」
「そんな……!」
「必要な書類はこちらです。お帰りいただいて構いません」
担当者は、それ以上何も教えてくれなかった。
書類を渡され、もう帰っていいと告げられただけだった。
あまりにも突然だった。
昨日まで、もう逃げられないと思っていた。
この先、何があっても耐えるしかないのだと、自分に言い聞かせていた。
それなのに。
解放された。
家族も、これまでの生活も、ひとまず守られた。
喜ぶべきことなのだろう。
いや、喜ばなければいけない。
なのに、希の頭の中は疑問符でいっぱいだった。
いったい、何が起きたというのだろう。
真っ先に思い浮かんだのは、昨日の出来事だった。
白いドレス。
泣きだした自分。
そして、頭を撫でながら「俺がなんとかする」と言い残して去っていった、あの男。
まさか。
いや、まさかね。
一瞬、漫画みたいな想像が頭をよぎった。
実は青島望は、大富豪の御曹司だった。
幼い頃から庶民のふりをして暮らしていたけれど、実は莫大な資産を持っていて、昨日のうちに大金をぽんと用意した――。
「……あるわけないでしょ!」
思わず、自分で自分にツッコミを入れてしまった。
あいつよ?
中学時代、練習用のシューズを買い替える金が足りなくて、ボロボロの靴を履き続けていた、あの青島望よ?
いや、あれから何年も経っているのだから、多少は事情が変わっているかもしれない。
けれど、家族の借金を丸ごと肩代わりできるような大金持ちには見えなかった。
だとしたら、いったい何をしたのだ。
気になって仕方がない。
考えても答えは出ない。
だったら、本人に聞くしかない。
いてもたってもいられなくなった希は、中学時代の友人たちに片っ端から連絡を取った。
望が今どこで練習しているのか。
何時ごろなら会えるのか。
事情を聞かれるたびに適当な理由を並べ、ようやく練習場所を突き止めた。
そして、その翌日の午後。
希は、望の通う高校まで押しかけた。
今も交流のある同級生に頼み込み、練習を終えた望を呼び出してもらった。
校門の近くで待つこと、数分。
練習着姿の望が現れた。
希は一直線に駆け寄った。
「あんた、いったい何をしたのよ……っ!」
「お?」
望が、きょとんとした顔で振り返る。
希は、その目の前まで詰め寄った。
「借金! うちの借金! 全部なくなったんだけど!? どういうこと!?」
「ああ、その話か」
望は、まるで今日の天気でも話すような調子で頷いた。
そして、さらりと言い放った。
「自分を売った」
「…………は?」
希の思考が停止した。
自分を、売った?
男が?
何を?
どこに?
そもそも、あんたにいったい、いくらの値段がついたのよ!?
「ちょ、ちょっと待ちなさい! 意味がわからないんだけど!」
「だから、自分を売ったんだって」
「説明になってないわよ!」
思わず怒鳴ると、望は困ったように頭を掻いた。
その仕草が、昔とまったく変わっていない。
こんなときまで。
いや、今はそんなことを気にしている場合じゃない!
「……順番に説明して」
「おう」
望は、少しだけ気恥ずかしそうに笑った。
「まず、お前の家の借金だけどさ。全部を俺が現金で払ったわけじゃない」
「……どういうこと?」
「支援してくれてる人に、頼み込んだんだよ」
話を聞けば、希の知らない間に、望はとんでもないところまで来ていたらしい。
高校に進学してから、望は陸上競技で着実に記録を伸ばしていた。
もともと才能はあった。
けれど、それだけでは勝てない世界だ。
毎日の練習。徹底した身体づくり。食事や睡眠の管理。故障を防ぐためのケア。
高校では中学時代には考えられなかったほど厳しい環境で鍛えられ、望は少しずつ頭角を現していった。
国内の主要大会で結果を残し、今では全日本クラスの有力選手。
将来、オリンピックの日本代表に選ばれてもおかしくない。
そんなところまで来ているらしい。
「……は?」
希は、間の抜けた声を漏らした。
全日本クラス?
オリンピック?
ちょっと待って。
あの、練習後に購買のパンを奪い合っていた青島望が?
「いや、お前、そんな顔するなよ。俺だって一応、頑張ってんだから」
「頑張ってるとか、そういう話じゃないでしょ!」
「まあ、そうなんだけどさ」
望は苦笑した。
「で、支援してくれてる人っていうのは、将来有望な選手を個人的に応援してくれてる人なんだ。いわゆるタニマチってやつ」
「タニマチ……」
「俺が結果を出せば、その人にとっても得になる。大会での成績が上がれば報奨金も出るし、代表に選ばれればスポンサーの話も増える。メダルを取れば、さらに大きな契約だって期待できる」
望は、そこで少しだけ表情を引き締めた。
「その人に、頼んだんだ。お前の家の借金を、なんとかしてもらえないかって」
「……それで、払ってくれたの?」
「正確には、債権者と話をつけて、支援者の人が必要な金を出してくれた。俺の将来の収入を見込んで、な」
「将来の……収入?」
「そう。これから俺が稼ぐ金だよ」
希は、こめかみを押さえた。
頭が痛い。
いや、痛いどころではない。
「……じゃあ、あんたは?」
「俺?」
「その人に、何を約束したのよ」
望は、一瞬だけ視線を逸らした。
ほんのわずかな間だった。
けれど、希は見逃さなかった。
「……望?」
「いや、まあ。約束っていうか」
「約束っていうか?」
「期待に応える、ってことかな」
「それだけ?」
「それだけ、ってこともないけど」
望は、気恥ずかしそうに頬を掻いた。
「俺がオリンピックに出る。メダルを取る。
そうなれば、支援してくれた人にも、出した金以上のものが返ってくる可能性がある。
だから、俺の将来性に賭けてくれたんだよ」
つまり。
まだ手にしていない将来の収入。
これから獲得するかもしれない栄光。
それらを見込んで、支援者は大金を出したのだ。
言ってみれば、望は自分の未来を担保にしたようなものだった。
希は、ゆっくりと顔を上げた。
「……じゃあ、もし」
自分の声が、思ったより小さくなった。
「もし、オリンピックに出られなければ? 期待されたほどの選手になれなかったら、どうなるの?」
「借金が残る」
「…………」
あまりにも簡単に答えられて、希は言葉を失った。
「……は?」
「いや、正確には、俺が約束した条件を達成できなかったら、支援してもらった金を返さなきゃいけない。細かい条件はいろいろあるけどな」
「それ、借金じゃない!」
「まあ、そうとも言う」
「そうとも言う、じゃないわよ!」
希の声が裏返った。
希の家の借金をなくすために、望が新たな借金を背負った。
しかも、返済の条件が、オリンピックにでること?
そんなもの、どれだけ努力したって確実に達成できるとは限らない。
競技の世界は、そんなに甘くない。
どれだけ優れた選手でも、怪我をすることがある。
調子を崩すこともある。
ほんのわずかな差で、代表の座を逃すことだってある。
ましてや、メダルなんて。
「……あんた、バカなの?」
「ひどいな」
「バカでしょ! 大バカでしょ!」
「そこまで言う?」
「言うわよ!」
希は、望の胸元を掴みそうになるのを、どうにかこらえた。
怒りたい。
思いきり怒鳴りつけたい。
けれど、その前に聞かなければならないことがあった。
「……それで。もしダメだったら、どうするつもりなのよ」
「そのときは、何とか返すしかないだろ」
「何とかって……!」
「まあ、マグロ漁船にでも乗るかな」
「はあっ!?」
「冗談だって」
望は、にやりと笑った。
「……冗談にできるかは、そのときの成績次第だけど」
「冗談になってないわよ!」
希の声が、グラウンドに響いた。
近くを通りかかった選手たちが、何事かと一斉に振り返る。
けれど、望は悪びれもしなかった。
むしろ、どこか楽しそうですらあった。
「でもさ、燃える展開だろ?」
「……何が?」
「こうなったら、絶対にオリンピックにでるしかなくなった」
望は、にやりと笑った。
「逆境だろ? 漫画の主人公みたいじゃないか」
まるで少年のような顔だった。
大きな目を輝かせて、目の前に立ちはだかった壁を、乗り越えるべき試練だとでも言うように。
その顔を見た瞬間、希にはわかってしまった。
この男は、本気なのだ。
軽口を叩いているけれど、覚悟を決めている。
失敗したらどうなるか、わかっていないわけではない。
それでも、自分が何とかするしかないと決めたのだ。
私のために。
希は、ぎゅっと拳を握り締めた。
どうして。
どうして、そこまでするのよ。
あんたには、あんたの夢があるでしょう。
これから競技者として、一番大切な時期を迎えるのだ。
オリンピックを目指して、毎日努力してきたはずなのに。
その夢を叶えるために、今までどれだけ頑張ってきたのか。
希は知らない時間のほうが多い。
それでも、わかる。
望は、努力を惜しむような男ではない。
誰よりも負けず嫌いで、一度決めたことは簡単に諦めない。
そんな望が、競技以外のことで、これほど大きなものを背負ってしまった。
自分なんかのために。
「……なんでよ」
気がつけば、声が漏れていた。
「ん?」
「なんで、そこまでするのよ……!」
望は、少しだけ目を見開いた。
「だって、お前、困ってたんだろ」
「だからって!」
「それに、言っただろ。俺がなんとかするって」
あまりにも当たり前のように言われて、希は息を呑んだ。
そうだった。
望は、確かに言った。
俺がなんとかする、と。
あれは、慰めでも、気休めでもなかった。
この男は、本当に動いたのだ。
自分の未来を懸けて。
希があの場所に戻らなくて済むように。
嬉しい。
信じられないくらい、嬉しい。
助けてもらえたことも。
あの言葉が、ただの気休めではなかったことも。
何より、自分が追い詰められていると知って、望が本気で動いてくれたことが。
嬉しくて、胸が熱くて、どうしようもなかった。
でも。
それ以上に、腹が立った。
あまりにも無謀で。
あまりにも無責任で。
そして、あまりにも優しい。
「アホーーーーッ!!!」
練習グラウンドに、希の絶叫が轟いた。
周囲の選手たちが、何事かと一斉に振り返る。
望は、目を丸くした。
「えっ、何で!?」
「何でじゃないわよ! このアンポンタンっ!」
希は、拳を握り締めたまま怒鳴った。
「私なんかのために、あんたの将来を賭けるなんて、何考えてんのよ!」
「いや、だから、俺がやりたくて――」
「そういう問題じゃないっ!」
言い返そうとした望を、希は一喝した。
涙が滲んだ。
嬉しいのに。
助かったのに。
どうして、こんなにも苦しいのだろう。
「……バカ」
声が震えた。
「あんた、本当にバカ……!」
ぽろりと涙がこぼれた。
慌てて拭おうとしたけれど、次から次へと溢れてくる。
望は、困ったように頭を掻いた。
そして、昔と同じように、気恥ずかしそうな顔で笑った。
「……でもさ。これで、お前はもう、あんなところに行かなくていいんだろ?」
その一言で、希は何も言えなくなった。
ああ。
この男は。
自分の夢がどうなるかよりも先に、私があの場所に戻らなくて済むことを考えたのだ。
希は顔をぐしゃぐしゃにして、もう一度叫んだ。
「この……超絶アンポンタンっ……!!」
今度の叫びには、怒りだけではなく、どうしようもない感謝と、胸に収まりきらないほどの想いが詰まっていた。




