再会編3『どうせ奪われる初めてなら、相手は彼がよかった』
希の震える声に、望は途中で口を挟むことなく、ただ静かに耳を傾けていた。
父の会社が倒産したこと。
返済のために借金を重ね、利息が膨れ上がっていったこと。
父は姿を消し、母は泣くばかりで、どうにもならなくなったこと。
そして、返せなければ家族がどうなるかわからないと脅され、幼い弟や妹たちを守るために、自分がここへ来るしかなかったこと。
最初は、必要なことだけを伝えるつもりだった。
余計なことは話さなくていい。事情さえわかってもらえれば、それでいい。
そう思っていたはずなのに。
話しているうちに、押し殺していた感情が、次々と溢れ出してきた。
怖かった。
どうして自分が、こんな目に遭わなければならないのか。
何も悪いことをしていない弟や妹まで、どうして巻き込まれなければならないのか。
父は何をしているのか。
大人たちは、どうして誰も助けてくれないのか。
考えても、答えなんて出なかった。
ただ、どうしようもなく怖くて。
本当は、逃げ出したくて。
誰かに助けてほしかった。
でも、そんなことを口にできる相手は、今まで誰もいなかった。
母の前では、しっかりしなければならなかった。
弟や妹の前では、いつもどおりの姉でいなければならなかった。
自分まで泣いてしまったら、本当に何もかも終わってしまうような気がしたから。
だから、ずっと我慢してきた。
平気なふりをしてきた。
大丈夫だと、自分に言い聞かせてきた。
それなのに。
目の前にいるのは、昔、一緒に走っていた男だった。
くだらないことで張り合い、勝った負けたと騒いでいた、青島望だった。
久しぶりに会ったというのに、こんな姿を見られてしまった。
恥ずかしかった。
情けなかった。
けれど、それ以上に。
もう、強がらなくてもいいのだと思った。
気がつけば、希はすべてを話していた。
最後の言葉が途切れたあと、部屋には静寂が落ちた。
希は俯いたまま、ぎゅっと拳を握り締めた。
話してしまった。
こんなこと、誰にも知られたくなかったのに。
望は何を思っただろう。
呆れただろうか。
同情しているのだろうか。
それとも、面倒なことに巻き込まれたと後悔しているのだろうか。
何も聞こえてこない沈黙が、かえって不安を募らせた。
そのとき。
ぽん、と。
頭に、温かな感触が降ってきた。
希は、はっと顔を上げた。
望の手だった。
ぽん、ぽん。
大きな手が、不器用な調子で頭を撫でる。
「……っ」
思わず、息が詰まった。
昔、部活で落ち込んでいたときにも、こんなふうにされたことがあった気がする。
記録会で思うような結果が出なかったとき。
悔しくて、誰とも口を利きたくなくて、グラウンドの隅で一人、膝を抱えていたとき。
望は、何も聞かずに隣へ座った。
そして、やっぱりこんなふうに頭を撫でてきたのだ。
『……子供扱いすんな!』
あのときは、本気で怒った。
『はいはい。元気が出たなら、もう一本走るぞ』
『なんでそうなるのよ!』
結局、二人で競争して、また喧嘩みたいになった。
そんなことまで、思い出した。
懐かしかった。
あの頃と何も変わらない。
少なくとも、望は、昔と同じように自分に接してくれている。
今の自分がどんな格好をしていても。
どんなに情けない顔をしていても。
昔のように、当たり前の顔で。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「……任せろ」
頭を撫でていた手が、そっと離れた。
望は希の目を真っ直ぐに見つめていた。
「俺がなんとかする」
「……え?」
あまりにも、あっさりとした言葉だった。
妙に自信ありげな声。
まるで、明日の練習に遅刻するなよ、とでも言うような気軽さで。
希は、ぽかんと望を見つめた。
なんとかする?
何を?
どうやって?
こんなに膨れ上がった借金を。
家族を脅している大人たちを。
自分が抱えている、このどうしようもない状況を。
望一人で、どうにかできるはずがない。
それくらい、わかっている。
それなのに。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが小さく揺れた。
ずっと閉じ込めていた、助けてほしいという気持ち。
本当は、誰かにそう言ってほしかった。
もう大丈夫だと。
一人で頑張らなくてもいいのだと。
そんな言葉を、ずっと待っていたのかもしれない。
「え、ちょ……望?」
希が慌てて声を上げたときには、望はもう背を向けていた。
「待っ――」
呼び止める間もなく、ドアが閉まった。
静寂が戻る。
希はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
頭のてっぺんに、まだ望の手の感触が残っている。
優しく撫でられたことも。
真っ直ぐに目を見てくれたことも。
そして、あの言葉も。
『俺がなんとかする』
「…………」
やがて、希は力なくベッドの端に腰を下ろした。
(……言わなきゃよかった)
ぽつりと、心の中で呟く。
話したところで、何が変わるというのだろう。
確かに、望は頼もしかった。
あんな状況でも動揺を押し隠し、自分の話を最後まで聞いてくれた。
責めることも、哀れむような目を向けることもなかった。
ただ、頭を撫でてくれた。
そして、なんとかすると言ってくれた。
嬉しかった。
――嬉しかったからこそ、余計につらかった。
だって、彼だって、まだ18歳なのだ。
自分と同じように、これから先の人生を歩んでいく途中にいる。
大人たちが作った膨大な借金を、彼一人でどうにかできるはずがない。
(きっと……私が、あんまり情けない顔をしてたから)
見ていられなくなったのだろう。
昔の仲間が泣いていたら放っておけない。
望は、そういう男だった。
勝負では負けず嫌いで、口も悪くて、少しばかり強引なところもある。
けれど、困っている人を見過ごせない。
昔から、そうだった。
だから、あんなことを言ってくれたのだ。
精一杯の優しさ。
傷ついた自分を慰めるための、気休め。
そう考えれば、納得できる。
納得できるはずだった。
なのに。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
現実は何も変わっていない。
望が部屋を出ていったとはいえ、明日にも別の客があてがわれるのだろう。
知らない男と二人きりになって、何もかも受け入れなければならない。
そう思った途端、さっきまでかすかに残っていた温かさが、急速に冷めていくような気がした。
怖い。
やっぱり、怖い。
いくら覚悟を決めたつもりでも、知らない男に触れられることを想像するだけで、身体が強張ってしまう。
逃げ出したい。
今すぐ、ここから走り去りたい。
けれど、逃げた先に何があるのだろう。
自分が我慢すればいい。
そう決めたのだから。
希は両手をぎゅっと握り締めた。
そのときだった。
ふと、ひどく身勝手な考えが頭をよぎった。
(……どうせ、誰かに奪われるくらいなら)
そこまで考えて、心臓が跳ねた。
(……初めての相手は、望がよかった)
「――っ!」
希は息を呑んだ。
今、自分は何を考えた?
青島望。
中学時代、一緒に走っていた男。
くだらないことで張り合って、遠慮なく悪態をついて、勝った負けたと騒いでいた相手。
競争で負ければ悔しくて、勝てば思いきり笑った。
気取らなくていい。
無理に女の子らしく振る舞わなくてもいい。
格好をつけていなくても、情けないところを見せても、きっと昔と同じように接してくれる。
さっきだって、そうだった。
こんな自分の話を、最後まで聞いてくれた。
優しく頭を撫でてくれた。
そして、なんとかすると言ってくれた。
だから。
(だからって、どうしてそんな考えになるのよ!)
「〜〜っっ! 何考えてんのよ、私……!」
希は跳ね上がるように立ち上がり、真っ赤になった顔を両手で覆った。
違う。
そういう意味じゃない。
いや、どういう意味よ!
そもそも、望は助けてくれると言っただけだ。
そんなことを期待するなんて、図々しいにもほどがある。
望が自分をどう思っているかなんて、わからない。
昔の仲間として心配してくれているだけかもしれない。
それなのに、自分は勝手に、その先まで考えてしまった。
「もう、やだ……!」
誰も聞いていないのをいいことに、思いきり叫んだ。
白いドレスの裾が揺れた。
希は慌ててベッドの上にあった上着を引っ掴み、肩に羽織った。
鏡に映った自分の顔は、耳まで真っ赤だった。
情けない。
怖くて泣いて、昔の友達に慰められて、その相手を意識して。
挙げ句の果てには、とんでもないことまで考えてしまった。
こんな自分を、望が知ったらどう思うだろう。
きっと、呆れる。
いや、あいつのことだから、困ったように頭を掻いて、
『別にいいんじゃねえの?』
なんて、あっさり言いそうだ。
――それはそれで、腹が立つ。
「……バカ」
希は鏡の中の自分を睨みつけた。
けれど、すぐに目を伏せた。
胸の奥に残った熱は、いくら自分を叱っても消えてくれなかった。
望が戻ってきてくれたらいい。
そんなことを考えてしまう自分が、たまらなく嫌だった。
戻ってきたところで、何を話せばいいのだろう。
さっきの言葉を、本当に信じていいのかと聞く?
それとも、話を聞いてくれてありがとうと、お礼を言う?
どちらも、今の自分にはできそうになかった。
それでも。
もし、もう一度あの手で頭を撫でてもらえたら。
今度こそ、泣かずに笑えるだろうか。
希はそっと、自分の頭に手を置いた。
さっき望が触れた場所を、確かめるように。
「……ほんと、バカみたい」
そう呟いた声は、ほんの少しだけ、泣き笑いに似ていた。




