第三章:プラセボの海、あるいは聖域の侵食
「本番、一分前。お願いします!」
三十回目の朝、あるいは三十回目の「同じ瞬間」が訪れる。
新宿の地下スタジオに満ちる、湿った熱気とアドレナリンの匂い。美咲はベッドの上で、自分の心臓の音を聴いていた。ドクン、ドクンと、規則正しく刻まれるそのリズムは、健斗と肌を重ねた「二十九回目」の残響を、細胞の隅々にまで撒き散らしている。
物理的な肉体はリセットされ、処女膜すら再生しているはずのこの「巻き戻った世界」で、なぜか美咲の身体だけが、健斗の指先の感触を鮮明に記憶していた。
(……おかしい。リセットされるはずなのに、熱い)
彼女は、スタジオの隅に立つ健斗を見た。
彼は、三十一回目の「一分前」を、以前とは違う表情で迎えていた。もはや怯えも、当惑もない。そこにあるのは、未知の症例を前にした外科医のような、冷徹で、かつ狂気的なまでの集中力だった。
「……ゆなさん、準備いいですか?」
美咲は、ゆっくりと首を振った。
「監督、ごめんなさい。このシーン、少し演出を変えたいの」
「あ? なんだよ、急に。台本通りでいいんだよ」
監督がイラついたようにモニターから顔を上げる。美咲は、バスローブの肩をわざと崩し、湿った瞳で監督を見つめた。
「……もっと、生々しいのが欲しいんでしょ? あそこにいるバイトの彼を、エキス
トラで使って。私の『昔の男』って設定で、影から見守らせるの。……その視線がある方が、私はもっと、激しくなれるから」
スタジオがざわめく。健斗は、バッテリーを抱えたまま固まった。美咲は、彼にだけ伝わる挑発的な笑みを送る。
(……ねえ、健斗。あんたの言う『上書き』、もっと徹底的にやってみようよ)
第AM 09:15の逃避:三十一回目
撮影は混乱を極めたが、美咲の「神懸かった演技」への期待から、監督は健斗をカメラのすぐ横に配置することを許可した。
照明の逆光に照らされた健斗の横顔は、彫刻のように美しい。
「本番、スタート!」
男優の手が美咲の腰に回る。だが、美咲が見つめているのは、目の前の男ではなく、レンズの横で自分を凝視する健斗だった。
彼女は、男優の耳元で喘ぎながら、健斗にだけ聞こえる声で囁いた。
「……健斗、見て。これが私の仕事。……あんたが救おうとしている『命』の、なれの果てよ」
健斗の指が、機材のコードを強く握りしめる。彼の脳内では今、医学的知識と、幼馴染としての独占欲が、激しい火花を散らして衝突しているはずだ。
「……美咲、やめろ」
「……やめない。あんたがこのループを止めるまで、私は何度も、知らない男に抱か
れる。……それとも、あんたが代わりに、私の『命』を、ここで奪ってくれる?」
その瞬間、世界が歪んだ。
健斗が機材を投げ捨て、本番中のベッドになだれ込んできたのだ。
「撮影中止だ! 出て行け、全員!」
「おい、何なんだお前は! 警備員!」
怒号が飛び交う中、健斗は美咲を力任せに抱き上げ、スタジオの奥にある更衣室へと連れ去った。背後で監督が「リテイクだ! クソが!」と叫ぶ。
更衣室の狭い空間。
鏡に映る二人は、まるで悲劇の逃亡者のようだった。
「……美咲。君の言った通りだ。……これは、プラセボ(偽薬)じゃない。……本物の毒だ」
健斗の声が震えている。彼は美咲を壁に押しつけ、その首筋に顔を埋めた。
彼の吐息は、先ほどの男優のような獣のそれではなく、もっと切実で、もっと痛々しい「祈り」に近かった。
「……医学部で、僕は数え切れないほどの遺体を見てきた。……死は、リセットされない。一度失われた細胞は、二度と元には戻らない。……だが、ここでは……死さえも、一分間の猶予の中に閉じ込められている。……美咲、僕は怖いんだ。……君を抱くたびに、君を失い続けているような気がして」
美咲は、健斗の背中に腕を回した。
彼の心臓の音が、自分の鼓動と重なっていく。
ドクン、ドクン。
シンクロ率が上がっていくのがわかる。
「……じゃあ、もっと深く刻んでよ。……リセットされても、消えないくらいの傷を。……医者になるんでしょ?……私の魂を、解剖してよ」
美咲の言葉に、健斗の理性が音を立てて崩れた。
彼は、獣のような激しさで美咲を求めた。狭い更衣室の床、散らばった衣装の上で、二人の「純潔な冒涜」が繰り返される。
健斗の愛撫は、二十九回目よりもさらに精密で、さらに残酷だった。彼は、美咲の体の敏感な箇所を、あたかもメスで切り開くかのように愛でていく。
「……ここか?……ここが、君の記憶の終着駅か?」
「……あ、……あ、健斗……!」
美咲は、目の前が真っ白になるのを感じた。
それは、ループのリセットによる白光ではない。
自分という存在が、健斗という巨大な引力に吸い込まれていく、魂の消滅に似た快楽だった。
その絶頂の最中。
健斗が美咲の耳元で、かすかに笑った。
「……美咲。……今、僕たちの脳波は、おそらく完全に一致している。……これが、脱出の合図だとしたら……」
「……え?」
「……もし、次に戻ったとき、僕が君を知らないふりをしたら……その時は、僕を殺してくれ」
その言葉が、最後のトリガーだった。
世界が、激しい閃光とともに、再び「あの場所」へと収束していく。
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【タイムループ対処手引き:第3条】
「慣れは最大の敵であり、唯一の友である」
三十回を超えたあたりで、君たちは「飽き」という名の地獄に直面する。どれほど激しい愛も、どれほど衝撃的な告白も、背景のノイズと化していく。だが、安心しなさい。その「飽き」の果てにこそ、真の自由がある。世界があなたを繰り返すなら、あなたも世界を繰り返しなさい。ただし、隣にいるパートナーの瞳だけは、毎朝、初めて見る標本のように観察し続けることだ。
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覚醒:三十二回目
「……本番、一分前。お願いします!」
美咲は、ベッドの上で目を開けた。
頬を撫でるメイクの筆。
スタジオの隅に立つ、健斗。
彼女は、祈るような気持ちで、健斗の瞳を覗き込んだ。
彼は、ゆっくりと眼鏡を直し、そして——。
「……ゆなさん。……体調、大丈夫ですか?」
その声は、初めて会うスタッフに向けるような、丁寧で、余所余所しいものだった。
美咲の心臓が、凍りついた。
リセットされたのは、世界だけではない。
健斗の「記憶」が、消えている。
彼女は、枕元に隠していた小道具のナイフを、そっと握りしめた。
「……ええ、大丈夫。……最高のリテイクにしましょう、健斗くん」
彼女の瞳に、初めて「真実の狂気」が宿った。
(第四章へ続く)




