第四章:忘却のスペクトル、あるいは聖域の崩壊
「本番、一分前。お願いします!」
三十二回目の朝。世界は、何事もなかったかのように、あのカビ臭い地下スタジオへと収束した。
美咲――「深津ゆな」は、ベッドの上で指先の感覚を確かめた。先ほどまで健斗の背中に食い込ませていた爪の感触、彼が流した汗の熱、そして耳元で囁かれた「僕を殺してくれ」という呪詛。それらはすべて、彼女の脳幹に焼き付いたまま、消え去ることを拒否していた。
しかし、スタジオの隅に立つ健斗の瞳に、もはや熱はなかった。
彼は、ただの「機材運びのバイト」として、退屈そうに照明のバッテリーを抱えている。その眼鏡の奥にあるのは、見知らぬAV女優に対する、わずかな好奇心と多大な無関心だった。
「……ゆなさん、準備いいですか?」
メイク担当の問いかけに、美咲は答えなかった。彼女の視線は、一点を射抜くように健斗を捉えていた。
(嘘よ。忘れたなんて、言わせない)
彼女は立ち上がり、バスローブの裾を乱暴に捌きながら、彼のもとへと歩み寄った。撮影スタッフたちが「おい、ゆなちゃん、どこ行くんだ!」と騒ぎ出すが、今の彼女には、このループの主導権を握っているという全能感と、唯一の理解者を失ったという絶望が、奇妙に同居していた。
「……ねえ。私を見て」
美咲は、健斗の目の前で足を止めた。
健斗は、戸惑ったように眉を寄せた。
「……あの、何か御用でしょうか。僕はただのバイトで……」
「健斗。千葉の、あの九十九里の海。……あんた、そこで私に言ったじゃない。心臓の動弁症の話。……そしてさっき、更衣室で私を抱きながら言ったわよね。……『僕を殺してくれ』って」
健斗の顔から、血の気が引いていく。
だがそれは、記憶が蘇ったことによる共鳴ではない。見知らぬ女に、自分のプライベートな過去と、身に覚えのない狂言を突きつけられたことへの、純粋な恐怖だった。
「……どうして、僕の本名を? ……更衣室? 何を言ってるんですか。僕は今、ここに来たばかりで……」
その瞬間、美咲の胸の奥で、何かが静かに、しかし決定的に壊れた。
ループという監獄の中で、唯一の「神」であった二人の共有記憶。それが失われた今、この世界は、ただの「死んだ一日の残骸」に成り果てた。
「五、四、三、二……」
カウントダウンが、無情に響く。
美咲は、枕元に置いてあった撮影用の小道具――本物そっくりに作られたが、刃の付いていないゴム製のナイフではなく、自分が密かに持ち込んでいた、果物ナイフの感触を思い出した。それは、先ほどの「三十一回目」のループの終わり、健斗の願いを聞き入れるために、更衣室のバッグから抜き取っておいたものだ。
「……わかったわ。あんたが忘れたなら、私が思い出させてあげる」
――カチンコが鳴る。
そこからの光景は、地獄絵図だった。
美咲は、演技を放棄した。彼女は、自分を抱こうとした男優を突き飛ばし、狂ったような叫び声を上げながら、健斗へと突進した。
「美咲! 何を――!」
健斗が叫ぶ。その口から漏れた「美咲」という名は、本能が呼び覚ましたものか、それとも恐怖による錯乱か。
彼女の手にあるナイフが、健斗の白いシャツを裂き、その胸元に浅い傷を刻む。鮮血が飛び散り、スタジオ内はパニックに陥った。
「撮影中止! 警察を呼べ!」
「ゆなちゃんが狂ったぞ!」
スタッフが彼女を取り押さえようとするが、美咲は笑っていた。
「いいのよ、健斗。これで、次の『一分前』、あんたは絶対に忘れない。……痛みが、記憶を繋ぎ止めるのよ!」
彼女は、自分の喉元にナイフを突き立てた。
意識が遠のく直前、彼女が見たのは、血まみれの胸を押さえながら、自分に手を伸ばそうとする健斗の、絶望に満ちた表情だった。
第AM 09:10の彷徨:三十二回目から四十回目まで
それからの数時間は、あるいは数日間は、血塗られた試行錯誤の連続だった。
三十二回目。健斗は、胸の痛みを抱えて目覚めた。物理的な傷はない。だが、彼は自分の胸を掻きむしりながら、美咲を見て叫んだ。
「……殺された! 君に、殺された記憶がある!」
三十三回目。二人は、再会の喜びではなく、殺し合いの余韻の中で抱き合った。
快楽は、もはや「生」の実感ではなく、死から逃避するための麻薬に変わっていた。健斗は医学生としての知識を動員し、どうすれば効率よく「痛み」を記憶に刻めるかを研究し始めた。
「……美咲、脳の扁桃体は、恐怖と痛みを最も深く刻む。……僕たちがこのループを
抜けるには、愛ではなく、決定的なトラウマが必要なのかもしれない」
三十六回目。二人はスタジオを脱走し、高速道路を逆走した。
衝突の瞬間、炎に包まれる車内。美咲の肌が焼ける音。
だが、目を開ければ、またあの「一分前」だ。
三十八回目。二人は、もはやエロスという言葉さえも贅沢に感じるほどの、無機質な交わりを繰り返した。
「……ねえ、健斗。私の体、もうボロボロよ。……記憶の中でだけ、何千回も犯されて、何百回も殺されて」
「……僕もだ。……医学部で学んだ『命の尊厳』なんて、もうどこにもない。……あるのは、この一分間をどう塗り潰すかという、作業的な欲望だけだ」
四十回目。
二人は、撮影現場の屋上にいた。
下では、スタッフたちが彼らを探して右往左往している。
新宿の街並みは、朝の光に照らされて、皮肉なほど美しく輝いている。
「……健斗。もし、このまま一生、ここから出られなかったら?」
健斗は、美咲の肩を抱き寄せた。彼の指先には、もはや震えはなかった。あるのは、すべてを諦めた者の、凪のような静寂だ。
「……それなら、それでいい。……僕たちは、世界で一番贅沢な死刑囚だ。……毎日、君と愛し合い、毎日、君を失う。……これ以上の純愛が、他にあるか?」
彼は、美咲の唇を塞いだ。
そのキスは、血の味がした。
屋上からの飛び降り。地面に叩きつけられる直前、二人は互いの名前を叫んだ。
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【タイムループ対処手引き:第4条】
「トラウマによる記憶の定着は、諸刃の剣である」
忘却を恐れるあまり、互いの肉体に消えない傷を刻もうとするのは、初心者が陥りがちな過ちだ。痛みは確かに記憶を繋ぎ止めるが、同時にそれは、二人の関係を「被害者と加害者」の構図に固定してしまう。ループを脱出したいのであれば、地獄を共有するのではなく、地獄の中で「笑い合う」方法を見つけなさい。絶望に飽きたとき、扉は不意に開くものだ。
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覚醒:四十一回目
「……本番、一分前。お願いします!」
美咲は、ゆっくりと目を開けた。
頬を撫でるメイクの筆。その筆先が、今日は妙に優しく感じられた。
彼女は、スタジオの隅を見た。
そこには、健斗が立っていた。
彼は、バッテリーを抱えたまま、静かに涙を流していた。
美咲は、ベッドから飛び降り、彼のもとへ駆け寄った。
スタッフの制止を振り切り、彼の胸に飛び込む。
「……健斗。……生きてる。私たち、まだ、生きてるわよね」
健斗は、美咲を強く抱きしめた。
「……ああ。……まだ、九時一分にはならない。……でも、美咲。……今、分かったんだ。……僕たちが探すべきなのは、出口じゃない。……この一分間の中に、永遠を見つけることなんだ」
彼は、美咲の耳元で囁いた。
「……さあ、最高の演技をしよう。……世界が、リテイクを諦めるくらいの、本物の愛を」
美咲は、涙を拭い、満面の笑みでカメラの方を向いた。
「監督、お待たせ。……世界一の絶頂、見せてあげるわ」
二人の狂気は、ついに「日常」という皮を被り、更なる深淵へと潜っていく。
(第五章へ続く)
⭐執筆ノート
この第四章では、ループによる精神の摩耗と、「忘却」という恐怖に抗うための過激な行動を描きました。二人の生い立ち(千葉の海辺の記憶)と、現在の凄惨な状況を対比させています。エロスとバイオレンス、そして皮肉なユーモアが混ざり合う、この小説のターニングポイントとなる章と考えています。次章からは、この狂気を受け入れた二人が、ループを「遊び場」に変えていく、より倒錯した展開が待っています。




