第二章:解剖学的愛撫、あるいは機能不全の神
その日、美咲——深津ゆなは、通算で二十七回目の「絶頂」を迎えていた。
正確には、演技としての絶頂が二十六回、そして今、目の前で呆然と立ち尽くす健斗の視線に貫かれながら迎えている、この「得体の知れない震え」が二十七回目だ。
「……カット! OK、最高だよ、ゆなちゃん。今の表情、マジで神懸かってた」
監督の豚のような濁声が響き、スタジオの緊張が弛緩する。しかし、美咲の耳にはその声は届かない。彼女の視線は、スタジオの隅でバッテリーを抱えたまま、幽霊でも見たかのように青ざめている幼馴染、健斗に固定されていた。
世界は再び、あの一分前に戻るはずだ。カチンコが鳴り、男優が覆い被さり、彼女はまた「処女のような淫蕩さ」を演じる。その無限の円環の中に、健斗という不純物が混じり込んだ。
美咲は、男優の腕をすり抜け、全裸に近い姿のまま健斗へと歩み寄った。
スタッフたちの「おい、何だ?」という訝しげな視線を、彼女のプロ意識が無視させた。
「……健斗。あんたも、覚えてるのね?」
健斗は、眼鏡の奥の瞳を痙攣させるように揺らした。彼の指先は、医学部で鍛えた緻密な触診の技術を忘れたかのように、バッテリーの冷たい金属を掴んで離さない。
「……三十秒後だ。三十秒後に、カメラの横にあるライトが
接触不良で一瞬だけ瞬く。その後、君が右足を少し引いたタイミングで、監督が『本番』と言う。……そうだろ、美咲」
彼の声は、解剖実習で遺体を前にした学生のような、乾いた諦観に満ちていた。
「正解。……ねえ、これ、いつ終わるの?」
「医学的には……いや、物理学的にも説明がつかない。脳内の神経伝達物質の異常による集団幻覚かとも思ったが、共有している情報の精度が高すぎる。美咲、僕たちは、時間の特異点に閉じ込められた」
彼が言い終えた瞬間、世界は再び「白」に染まった。
第AM 09:00の静寂:二十八回目
目を開けると、またあのカビ臭いスタジオだった。
メイクの筆が、美咲の頬を撫でている。鏡の中に映る自分は、かつて健斗と海辺で夢を語り合ったあの少女の面影を、厚化粧で塗りつぶしている。
「ゆなさん、準備いいですか?」
美咲は立ち上がった。今回は、撮影を待たなかった。
「監督、ごめんなさい。気分が悪いの。トイレ」
「えっ、おい! 本番一分前だぞ!」
監督の怒鳴り声を背に、美咲は健斗の腕を掴んだ。彼の腕は、記憶の中にあるよりもずっと逞しく、そして、今の彼女の生活には存在しない「清潔な石鹸の匂い」がした。
二人はスタジオを飛び出し、非常階段の踊り場へと逃げ込んだ。新宿の雑居ビルは、外の世界もまた、同じ「一分間」を繰り返しているはずだった。
「……ねえ、健斗。あんた、医学生なんでしょ? なんとかしてよ。私の体、もう二十回以上も、あの男優に触られて……心までリセットされるわけじゃないのよ」
美咲は、バスローブをきつく合わせた。AV女優という職業を選んだとき、彼女は自分の体を「商品」だと割り切ったはずだった。だが、健斗という、自分の純潔な過去を知る唯一の存在の前で、この「繰り返される蹂躙」は、彼女の魂を少しずつ削り取っていく。
健斗は眼鏡を外し、眉間を押さえた。
「……リセットされるのは、物質的なエントロピーだけだ。君の体から男の精液は消え、荒れた粘膜も修復される。だが、海馬に刻まれた記憶——情動は、物理法則を超えて蓄積されている。これは……救いであると同時に、最悪の拷問だ」
「理屈はいいわよ。どうすれば、この『本番』から逃げられるの?」
「……わからない。だが、一つだけ試したいことがある」
健斗の目が、かつて医学書の難解な記述を読み解こうとしていた時のような、鋭い光を帯びた。彼は、震える手で美咲の肩に触れた。
「……美咲。君の心拍数は今、120を超えている。交感神経が過剰に優位だ。……僕が、君の体を『上書き』したら、どうなるだろうか」
「……え?」
「あの男優が刻んだ記憶を、僕の記憶で塗りつぶす。医学生としてではなく、君の幼馴染として。……脳が受ける刺激を、別のもので満たせば、このループのトリガーが外れるかもしれない」
それは、あまりにも身勝手で、あまりにもエロティックな「治療法」の提案だった。
非常階段の冷たいコンクリートの上で、美咲は微かに笑った。彼女にとって、健斗は聖域だった。その聖域が、今、自分と同じ泥濘に足を踏み入れようとしている。
「……いいわよ。あんたの医学的知見とやらで、私を壊してみて」
健斗の手が、美咲のバスローブの紐を解いた。
彼の指は、プロの男優のような手慣れた愛撫とは正反対だった。どこかぎこちなく、しかし、解剖学的に「どこをどう触れば、神経がどう反応するか」を完璧に理解している、精密な動き。
「……ここは、大伏在静脈が通っている。……ここは、知覚神経が密集している……」
彼は呪文のように呟きながら、美咲の肌をなぞっていく。彼女の体は、慣れ親しんだ快楽のパターンを拒絶し、健斗の指がもたらす「未知の熱」に、狂ったように反応し始めた。
撮影現場の喧騒が遠くで聞こえる。
「ゆなさんは!?」「どこ行ったんだよ!」
そんな声さえも、二人の間にある濃厚な静寂には届かない。
健斗の唇が、美咲の鎖骨に触れた瞬間、彼女は自分でも驚くような声を上げた。それは、カメラの前で何度も披露してきた「演技の絶頂」とは似ても似つかない、苦痛に近いほどの悦楽だった。
「……健斗、もっと……もっと深く……」
二人の肉体が重なり、汗が混じり合う。
その瞬間、美咲は見た。健斗の瞳の中に、医学生としての冷徹な観察眼が崩壊し、一人の男としての、醜くも美しい渇望が溢れ出すのを。
しかし。
彼が美咲の内に、その「生」の証を叩き込もうとしたその刹那。
——カチンコが鳴った。
世界が、白く、白く、反転する。
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【タイムループ対処手引き:第2条】
「性行為による現状打破は、概ね失敗する」
ループという閉塞感の中で、人は真っ先に「生殖」という原始的なエネルギーに解決を求める傾向がある。しかし、忘れてはならない。ループとは、神が引いた「やり直し」の境界線である。愛する人との交わりがどれほど深くとも、それが「世界を前進させるエネルギー」として認められない限り、君たちはただ、リセットされるシーツの上で、虚しい精液の跡(それさえも消えるのだが)を数えることになるだろう。
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覚醒:二十九回目
「……本番、一分前。お願いします!」
美咲は、再びベッドの上にいた。
頬を撫でるメイクの筆。スタジオの隅に立つ、青ざめた健斗。
彼女は、自分の下腹部に、かすかな熱が残っているのを感じた。
物理的には消えているはずの、健斗の感触。
だが、彼女の心は、もはや「深津ゆな」ではなかった。
「……健斗」
彼女は、遠く離れた幼馴染にだけ聞こえるように、唇を動かした。
健斗もまた、眼鏡を直し、彼女を見つめ返した。その瞳には、先ほどの情事の残り香と、そして、ループをハックしようとする狂気的な決意が宿っていた。
「……次は、心臓の鼓動を完全に一致させてみよう」
彼が小声で呟いた。
美咲は、最高の笑顔でカメラを見た。
「監督、今度はもっとすごいのが撮れますよ。……期待してて」
二人の「終わらない一日」は、まだ始まったばかりだった。
(第三章へ続く)




