8 空飛ぶ羊の蹄の下で
あの夜の初め、オルランドは何が起こっているのか分かっていなかった。
テオドールと階段を駆け降りて、喧嘩している家族を見物に行っただけ。
いつものように父や一番目の兄をからかったり、仲裁したりするだけで、それ以外のことなど起こるわけもない。はずだった。
だが複数人の声と誰かの悲鳴を聞いて、ようやく認識した。これは、何かがおかしい。
とりあえず二人で軽く相談し、確認だけして戻ろうということになった。
その瞬間を、彼は今でも悔いている。ここで判断を誤ったがために、ロドルフの肩が剣で貫かれる瞬間を見ることになり、そしてテオドールは死ぬことになってしまった。
「兄さん!」
絶叫が響き渡り、その場にいた全員が自分たちの方を向いた。襲撃犯を含めて。
「……あ……」
「逃げろ……二人とも……」
これは、まずい。
何も考えずとも分かったが、こちらに向けられた銃口に体が竦んだ。
間に合わないと直感で理解できたが、それでも考えをまとめて腕を上げ、頭を庇おうとした。
だが横から誰かが躍り出たために、その弾丸が当たることはなかった。
ただその代わりに、二人とも父親の熱い血飛沫を頭から被っていた。
「父上……!」
父は身体を折り曲げながら、かすれ声で鋭く叫んだ。
「テオ、早く逃げろ! 頼む、皆を守ってくれ!」
恐怖に脳髄が固まりながらも、テオドールに手を引かれて、来た廊下を必死に走った。だが曲がり角で、誰かに襟首を掴まれた。
「ちょっと! どこに行くの! どうしてこんな所にいるの!」
「……姉さん! 大丈夫か、それ⁉︎」
「大丈夫ではないわ、残念ながらね。でも、そんなに深くないのよ」
コルデリアの豪華な服の襟元が切り裂かれ、青い布が紫色に染まっていた。
三人ともその場で身を屈め、彼女は血で汚れた手でぺたぺたと弟たちの無事を確認した。
「くそ、くそ、あいつら……! 姉さん、あれはなんなんだ⁉︎ どうして……!」
「分かんないわよ、お父様の敵かなんかでしょ! でもとにかく逃げなきゃ、早く! 私はディーナたちを呼んで来るから、あなたたちは先に行っていて!」
「いや、それは……全員で一緒に逃げた方がいいんじゃないか⁉︎ 姉さんだって怪我してるのに……! イフィクレスたちは⁉︎ 兄さんは⁉︎ 義母上は⁉︎」
とテオドールが訴えたが、コルデリアは痛ましげに目を押さえた。
「あの子とお義母様は多分大丈夫よ、でもお父様は……足を刺されたの。だから待たないで先に行って、今ならまだ間に合うから! 上にはベリンダがいるから大丈夫よ!」
「じゃあ俺が皆を呼んでくるよ、それならいいだろ⁉︎ オルランド、姉さんとなら逃げられるよな⁉︎」
確かにそれがいいと思って頷こうとしたが、姉は語気を強めて、肩を掴んできた。
「馬鹿なこと言わないで、いくら馬鹿だからって限度があるでしょうが! せっかく逃げ出せてきたんでしょ⁉︎ すぐに、ここを出るの! 余計なこと考えなくていいわよ、上にはベリンダもいるんだから!」
思わずコルデリアの勢いに呑まれつつも、本音ではオルランドも子供部屋に戻りたかった。
ロドルフ、ディーナ、イフィクレス、ベリンダ、コルデリア。彼らを置いて行きたくなどなかった。
だが姉の言う通り、逃げるなら今逃げるべきだということも分かっていた。まだ年少の自分たちがいても、大した役には立たないかもしれない。
ディーナたちは……大人がいるからきっと大丈夫だ。無理やり頭にそう叩き込んだ。
「……分かった。俺たちは川の方に行くから、姉さんたちは村の方に行ってくれ。多分二手に分かれた方がいい」
テオドールが言うと、コルデリアもようやく立ち上がった。
「そうね、後で絶対、迎えに行ってあげるからね。早く、行きなさいよ……⁉︎」
振り返りつつ駆けていったその姿が、最後に見た姉だった。
弟たちがいることに驚愕していた兄、痛みすら忘れて自分たちを守ろうとした父。
これが最後の記憶で、後は遺体すら見られなかった。
だがこの時点では、まだ家族の生存を信じていた。
と言うよりテオドールと逃げ切ることで頭がいっぱいで、今まで生きていた者が死ぬなど想像もつかなかった。
「くそ、何なんだあの野郎どもは……。絶対にぶち殺してやる……死ね……」
テオドールの呟く悪態を耳にしつつ身を屈め、森の中を探し回る人間の気配を遠く近くに感じながら進んだ。
「見つけたぞ! 下の兄弟だ!」
ふいに角灯の明かりを当てられ、何度も転びながら走った。
少しでも銃声から遠くに逃れるため、喉を軋ませ足を動かした。
やっと少し視界が開けて、河畔に辿り着いた時には疲労のあまりまともに声も出せなかった。
「悪い、少し、休ませてくれ。うわ、ここ渡るのか……でも、確か泳げたよな、兄さん……も……?」
木立にもたれながら見上げたとほぼ同時に、テオドールがその場に倒れた。
「え……? 何やってるんだよ……?」
容易には、自分の見ているものを信じられなかった。服に空いた穴から、血液が溢れ出ている。慌てて力の限りに押さえつけたが、当てている上着が見る間に赤く染まっていく。
「兄さん⁉︎ 兄さん!」
いつだ、いつ撃たれたのか。敵からはかなりの距離があったはずなのに、と混乱している最中、急にあることが脳内に閃いた。
何回目かの発砲音が聞こえた際に、突然この兄は寄りかかってきた。 まさか。あの時、自らの体を盾にしたとでも言うのか。
余計な真似を、何故……!
テオドールは乱れた呼吸を繰り返しながら、薄く目を開けた。
「オルランド、うるさいから黙れ……」
「テオ、くそ、どうしよう……⁉︎」
この状態で川に入るのは自殺行為だが、かと言って地上を逃げ続けるというのも無理がある。
舟は作れないか、誰か助けを呼びに行くか、いやむしろ漁師でも通りがからないかと辺りを見回したが、都合よく味方が現れるなどということはなかった。
代わりに、男たちの声が森の中から風に運ばれてきた。
「もういいよ、オーリー……」
「は⁉︎」
「もう、行けって……」
「嫌だ! 馬鹿にするなよ!」
テオドールから離れるなどとても考えられない一方でその代案も思い付かず、重苦しい赤い血と時間だけが流れていく。
兄は普段からは考えられないほど弱々しく腕を掴み、絞り出すようにして声を出した。
枯れて小さかったが、凄みのある声。
「いいから行け……その代わり、絶対に……」
それきり、テオドールはまばたきをしなくなった。
「……ええ? うわ、うわあああっ……くそ、冗談だろ……? どうするんだよ、このくそ畜生が……。おい、テオ……、兄さん……」
などとうわ言を呟いている間にも、鋭敏になった聴覚が草を踏む音と犬の鳴き声を拾っていた。かすかだが、確実に近付いてきている。
「……ごめん、ごめんな兄さん……! 許してくれ……!」
せめてと血で重くなった上着を広げて、横たわっている兄に着せかけた。
そして振り返れないまま、嘘のようにいつも通り流れている川に身を投げていった。
その夜から、この目は開かれたのだとオルランドは考えている。
ただ能天気で素直で、無防備だった時代は終わり、本音を隠す術と疑心を身につけた。
毎日敵の気配に苛まれながら生きていく方法を学び、いつでも逃げられるように準備しつつも、役に立ちそうな情報を集め続けることも忘れなかった。
どれも簡単なことではなかったが、数多の困難にも負けずにいられたのは、テオドールの最後の言葉があったからに他ならない。
いいから行け。その代わり、絶対に。
その後に続くのは、どう考えてもやり返してやれだ。兄の性格からしてみても、犯人たちへの怒りを吐き出していたことからしてみても、フライナの名を持つ者としてみても。
また、遡ること十六年前に料理人の息子、今は首都で父と同じ職に就いているという少年が、隣の土地に住む子供たちにいじめられたと泣きながら帰ってきた時。
テオドールは念入りに事実確認をした後、殴り返しに飛んで行っていた。
両親や大人たちにきつく叱られても、あいつが小遣いまで取られた上、泣いていたからと一歩も引こうとはしなかった。
当時の彼は何もそこまでしなくとも、もっといい解決法があると言う乳母や両親の話をただ聞いていたものだが、今となっては兄の気持ちが痛いほど分かる。
大丈夫だ皆、心配しなくていい。
何としてでもこの借りは返してやるから。
酒場の裏、船上、そして異郷の地で胸の内に生きる家族にそう語りかける度に、涼やかで血腥い夜風の中での絶望と憎悪は、心を焼き尽くしていった。
ベルティスの下流にある村に潜伏していた折、行商人を装っていた男たちに襲撃されたことがあった。
その時も彼は何とか逃げ延びられたのだが、悪運はそれだけでは尽きなかったのだ。
物陰で、偶然耳にしていた。その連中が雇い主として、候爵夫人の名を口にするのを。
その後無事にレステルの港からアントリー行きの船に乗り込み、しばらくは安心できるとなった時、オルランドはこっそりと声を立てて笑った。
奇しくもテオドールと部屋を飛び出した際のように、熱を持った怪我の痛みも忘れて一人笑い転げていた。推測が当たっていた喜びと、あまりにも苦しい状況によって。
父の後妻が首謀者だったとなると、今後想定される困難は他の人間の比ではない。
掌握した財産と権力を使ってどこまでも追い詰めてくるであろう上に、メレンヴィル家どころか他家や王室まで抱き込まれている可能性がある。
その上エウシェリアの法律では、親殺しは普通の殺人以上の重罪だ。義理の親であっても、貴族であっても厳罰と糾弾は避けられない。
だがそうであっても、このままで終わらせてなるものか。いつか必ず、また祖国の土を踏んでやる。
何年かかろうと、人間の生皮を被った卑しい寄生虫を捻り潰す。
家族の受けた何倍もの苦痛が、地上で最も悲惨な死こそが裏切り者には相応しい。
その死をもたらし、血と内臓を天に捧げるまでは諦めない。
この先何があろうと、戦い抜いてみせる。
その誓いがあればこそ、家族の仇を討つという悲願を果たせたのは間違いない。
船舶火災に見舞われた時も、捕虜にされそうになった時も意志の力を以って切り抜けた。
そうして常に情勢を窺い、例え候爵夫人を叩き潰したとしても揺らがない程の名声を求め続けた結果、ついに武勲艦となったサラヴィア号が、英雄の称号を与えてくれたのだった。
追手から逃げ切った安心感も、勝ち戦の熱狂も、仇に報いを受けさせてやった時の晴れやかさには及ばない。
復讐は何も生まないとは言うが、少なくともオルランドにとっては人生で二、三番目に幸せな瞬間であった。
自分がこの世に生まれたのは、父と兄姉たちの無念を晴らすためだったのかとまで思うほどに。
と、そこまではよかった。父の後妻への報復が叶ったこと自体には何の憂いもない。
人道と法律に悖る行為はしたものの、これに関してだけは反省も後悔も一生できない上、しようとも思えていない。
ただ、そちらに付随する問題は、彼を大いに悩ませていた。
仇の娘にして、かつての恋人についてはどうするのか。それに対する回答こそが、今現在二人の間での最大の火種であった。
もしオルランドがもう少しだけでも冷徹であったり、ディーナの意思が弱かったりすればこれほどまでに拗れることもなかったはずだが、あいにくそうではなかったために、フライナ家の中はまたも重く沈み込んでいた。
補足
オルランドと兄姉たち、イフィクレスは完全に貴族なのですが、ディーナは貴族出身ではありません。メレンヴィル家の中心は貴族で、ディーナ親子はその分流といった感じです。




