9 青白い願いを見てから
ようやく帰って来れたと言うのに、オルランドは決心と現実の狭間で苦しんでいる。だがベルティスを離れた十年前の時点では、苦しみをもって初恋を捨て置いていた。
明るく活発だが気が弱く、揉め事や暴力を大の苦手としていたディーナ。
もし母親の策略について知っていたなら、必ずや自分たちに教えていたはずだ。
だからあれはただ、不幸な偶然だったに決まっている。そう信じたかった。
だが常識的に考えて、一切何も知らずに相続上の邪魔者たちを襲撃犯の元へ送り込む、などということが有り得るのか?
本当に救い難く馬鹿で無能で愚昧だった自分にも、必要があれば嘘をつくくらいの悪知恵はあった。
出会った当初から賢く優しかったあの姿が、演技ではなかったという保証がどこにある?
むしろこのために油断させていたと考えるべきなのでは?
親兄弟を全員奪われるに至るまで、父の後妻の本性に気付けなかった自らの目など、とても信用できない。
何に代えても実現するべき目的のためには、故意であったと考えた方が望ましいだろう。
そう結論付けた後、彼は決めた通りに行動した。
かつての義姉妹と長い時間を共有していた分より深く憎み、過去の己の騙されやすさに怒りを抱いた。
醜い裏切り者。忌々しい詐欺師。殺人犯という邪悪の中でも最も汚らわしく、狂った異常な女。
いつかベルティスに戻ったその暁には、必ずや地獄の底に突き落としてやると心に決めて、現在まで恐ろしい大波を乗り切っていた。
けれども実際にキテイラの船が数多く沈み、海面の人々を船上に引き上げ、エリック・アドルノとして祖国に凱旋できるとなってみると、どうやら真相はそう単純ではなかったようだと分かってきた。
色々と調べたことを総合すると、候爵夫人の連れ子は賊を招き入れたのは認めているが何も知らなかったと主張しており、事実何年間もフライナ家の三男を捜索している、というものだった。
それを知った彼の心の中には、小さいが長い棘が刺さったような複雑さと困惑が生まれていた。
ベルティスの何者かが自分のことを探しているという話を、一度も耳にしたことがなかったわけではない。
だが彼にはそれがディーナ本人だったとまでは伝わっておらず、どうせまた追っ手だろうと考えていたのである。そして近隣国のアントリーでは近すぎるのかもしれないという不安に駆られ、噂も及ばないような遠隔地へと渡っていた。
これはもしや、判断を誤ったかとオルランドは思った。彼を喜んで迎えた故郷の人々も、メレンヴィル家の娘について尋ねられると皆一様に微妙な表情を作り、考え込みながら慎重に口を開いていた。
曰く、あの方のお悲しみは演技ではまず有り得ないものであり、十年間にも渡って喪に服し続けていたと。
初めは我々も疑いを持っていたが、候爵夫人の取り決めに同調されたことはこれまで一度もなかった。
ご主人様におかれましては、どうか慎重なご判断をと締めくくっていた。
確かにあの気質が本物だったのであれば、納得できる話ではある。直感に従って彼女のことだけは疑わず、協力を求めていれば、もっと早くに目標を達成できていたのだろうか。
裏切られた反動で、猜疑心が強くなりすぎていたか。
真実として彼女には悪意がなかったのであれば、十年間もいらない苦労をかけてしまったのかもしれない。
しかし、まだディーナが共犯者ではなかったとするのは早計だとも思った。
疚しいことで利益を得ておきながら、自分だけは絶対に手を汚さないような者には覚えがある。
もし、母親の手先として取り逃した敵を捜索してはいたが、不利になったらこちらの味方として振る舞えるようにもしていたらどうするのか。
実際に確認がとれるまでは、誰のことも信じてはならない。
こういった考えの元、オルランドは落ち着かない気持ちを抱えて彼女か、もしくはこの地を発った使者からの知らせを待っていた。
本当は自分で様子を見に行くつもりだったのだが、イフィクレスがもう事の次第を書いた手紙を出してしまったと言うので、行き違いを防ぐため、仕方なくベルティスを動かなかったのである。
戻ってくれば少なくとも何かしらの言い分はあるということで、使いが追跡に移ったと報告してくれば、間違った選択は避けられたということだ。
かくして、また新しい運命の日は追加された。
「はあ……」
二人が再会を果たした日、地下室から引き上げた後のことになる。ディーナを偶然部屋の前にいた家政婦に任せると、彼は溜め息をつきつつ、一人で思考をまとめようとした。
久しぶりに見た彼女の、自分は信用されていて当たり前と言わんばかりの態度は、少しばかり鼻についた。
しかし自身が脅かされてもなお笑みを作って軽口まで叩いてみせ、最終的には恐怖に震えながらだが、確実に引き金を引ききっていた。
実の母親への目線と、こちらに向けていた目線の差。旅の埃がついた喪服と袖口に隠されていた真珠。
あの泣き方、あの声。
『オルランドっ……! 生きていたのね、やっぱり……! 信じていたわ……!』
彼はもう一度溜め息をつき、壁にもたれてみた。
ここまでの義理立てを見せつけられては、嫌でも信じさせられてしまう。
恐らくディーナの訴えに、嘘偽りはないのだろう。
本当に何も知らずに窓を開けてしまった上、偶然自分と次兄を追い出してしまったのだろう。そしてそのせいで彼女もまた、過去の囚人としてしか生きられなかったと考えるのが自然な気がする。
そこまで考えると、彼は酒瓶に手を伸ばそうとしたがやめた。
放浪時代に飲み慣れたまずい安酒を口にしたい気分だったのに、その棚には美酒しか置いていなかったのだ。
しかしもう一度思い直し、重い酒瓶を取った。そして棚の縁に手を置き、酒瓶を振り下ろしてみる。骨の痛みは鋭く、筋肉の痛みは鈍かった。酒瓶を確かめてみると、ひびなどは全くない。
適当に戻して椅子にかけ、脈打ち始めた赤みを何となく観察していた。
まったく、何という腹立たしい不幸せな運命なのか。
あの親子によって安住の地を追い出された者たちの一人としてみても、こうまでされてしまうと、怒るに怒れない。
そしてそんな相手に、怪我をさせてしまった。もっと穏便な方法にしておけばよかったと思ってしまうが、紛れもなく自分の選択である。
どうすればいいのだろう。自らの心の赴くままに言えば、ディーナの過去に関しては不問にしたいという気がしてきていた。
誰もが、警察も親戚も、あの憎いという形容詞では言い表せない仇までもが四人の死を、オルランド・フライナの失踪を終わったこととして捉えていた中、彼女だけが、諦めていなかった。
誰にでも分かることだ。
本物の信念がなければ、貴重な芳紀をあてもない旅に費やすことなどできはしない。
例え人の批判を躱すための打算があったとしても、それの何が問題なのか?
保身だけが目的ではなかったことは明らかではないか。
そんな相手を単なる裏切り者として処断するというのは、全く気が進まなかった。
しかし、そうであっても。
ディーナが、四人の魂をあの女に捧げたという事実は揺らがない。
彼女もまた、親の仇であり姉の仇、兄たち二人の仇だ。
仇を許すなど、あの夜に時計の針が戻らない限り、死者が雲の上から帰ってこない限り、絶対にあってはならないことだ。
恐らくだが、次兄の最期の願いは復讐で間違いない。
こうやって迷いが生まれた際にいつも思い出す、テオドールと料理長の息子であるダニエルのことをまた考えた。
そして、実行犯たちへの罵りも。
あの兄が、血を分けた者たちを傷付けた敵に容赦するとはとても思えない。
そう信じ、そして彼自身も反撃を望んだからこそ、過ぎ去った平穏と神経を燃やし尽くして故郷を目指してきた。
ではこの場合、志をそのままにして、ディーナもその対象に含めるべきなのだろうか。
テオドールは、彼女の血を求めるだろうか。
いや、そもそもの問題として、兄の望みは「やり返してやれ」で合っていたのだろうか。
聞けるものなら他の家族の意見も聞きたいものだが、回答できる者は誰一人として残ってはいない。
兄からの戒めだけが頭の中に刻み込まれているはずが、何故だか心の中の空白に、迷いが長々と書き込まれてならなかった。
存在してはいけないはずの文章は、暗い部屋から部屋へと歩き回っても一文字も消えはしなかった。




