10 真夜中の眠らない人々
同じところについて何度も悩み、一日をかけて考え続けた末に、彼はついに結論を出した。
もし次兄が生きていたならば、ディーナのことは許していただろう。ロドルフも、コルデリアも、父も。
また、彼らは今頃天上の真清水を飲みながら、もういいと言っているのかもしれない。
もう十分償いは果たしたと。果たしすぎたくらいだとまで言っていそうでさえある。
それならば、こちらとしても許してやれた。だが、その確認を取る術はない。
心苦しいが、兄が望んでいた時のために、そしてより良い復讐のために死んでもらうしかない。
館中が寝静まるのを待って、拳銃に弾薬を込めた。
そしてディーナの部屋を目指して、音がしないように摺り足で移動していった。
その額に向けて、この引き金を一回だけ引く。
母親とは違い必ず一つの銃弾で、苦しませず終わらせなければ。
しかし、さる伝説の英雄のように、鏡を持ってきた方がよかったかもしれないとも思った。
直接その顔を見れば、石にはならずとも決意が鈍りそうだった。
だが予想外に、廊下の闇の中には優しい黄色の光が細く落ちてきていた。
その上、部屋の中から物音がしている。
まだ起きているのか。
しばらく壁にもたれていても、物音は聞こえ続けている。
仕方がない、今夜のところは諦めて出直そうと思ったその時に、扉の隙間からディーナが滑り出てきた。
白い服と子供の時のようにほどいた髪の上から、流行遅れの外套を被り直している。
用心深く辺りを見回してはいたが、息を止めて角に隠れているオルランドには気付いていない。
そしてそのまま音もなく廊下を抜け、階段を降りて行った。
彼は何があったのか考えていたが、しばし後にまさか夜逃げだろうかと思い至った。
そこで、遅すぎる影の如くに追跡を開始した。
彼女は建物の中を素早く抜けると、花咲く蔓草が絡んだ裏口に鍵を使い、足取りも軽く裾をはためかせていった。
そして、大都市へ繋がる街道とは外れた方向へと駆けていく。
障害物がないので、深夜でも見失うことはない。
薄雲が天の下にかかる夜道を、ふらつきながらも迷いない足取りで踏みしめていた。
「あはははっ」
高笑いが響き渡った。オルランド以外にその声を聞く者があれば、亡霊か魔女かと身を震わせただろうか。
道を外れて森の中に入り、慣れた様子で茂みを避け、木の根を飛び込えている。そこまで行けば、彼にもディーナがどこを目指していたのか分かった。
彼女は墓碑の並ぶ草地を抜けて、地下に降りる入り口へと消えて行った。
オルランドも気配を察知されない距離を見計らって、その後をついて行った。
中に足を踏み入れると、土と湿り気の匂いが重たく漂っている。
「皆……ただいま帰りました。二年ぶりかしら? ごめんなさい、昨日のうちに来られなくて。あんまりにも疲れていたものだから……!」
息を弾ませながらの声が青白い光が薄く差し、灯火が揺れる空間に反響して吸収されていった。
隠れて窺うと、思った通り彼女は五つ並んだ棺の前に跪いている。
「あの子はもう来たの? 来たわよね、私よりずっと前に帰ってきていたんだから。ああもう、皆見たでしょう? やっぱり私は間違っていなかったのよ! やっとよ! やっと……! 諦めなくてよかった……!」
と立ち上がり、端から順に手を伸ばしている。何をしているのかと思えば、部屋から持ってきたらしい白百合を、外套の中から取り出して一輪ずつ供えているのだった。
四つの棺には親しげに、オルランドたち姉弟の実母のものに対してだけは一礼してから。
「十年も経ったのね……! 見た? あんなに背が伸びて……。ああ、お姉様、私は約束を守ったわよ! 見ていて? こんなに遅くなるとは思わなかったけれど……あら? でも、迎えに行ったというのとは少し違うのかしらね? あの子は自分で帰ってきたんだもの。でもその方が、お姉様にとっても嬉しいわよね。ロドルフ兄様も、奥様も……。オルランドは人の助けを待ってるような子じゃなかったものね。昔から……」
その声は穏やかな優しさに反してオルランドの胸を苦く刺し、そして深いところで動かなくなっていた。
一撃ではなく、何本も同時に尖った物で貫かれるような鋭い痛みだった。甘味は全くない。
暗い色の布に包まれた背中はしばし無音で動かなくなっていたが、急にぱたりと横に投げ出された。
「夢じゃないかしら……。ねえ、違うわよね……。嫌だわ、怖くなっちゃうのよ……。これまであんまりにも嫌ことばっかりあったから、急にいいことが起こると、怖いのよ……」
そしてコルデリアの棺に掴まって膝で立つと、表面に手を広げて頬を寄せた。
「聞いた? あの子がセレネイスのサラヴィア号に乗っていたって……。まさか、あのサラヴィア号にいるなんてね。ただでさえ危険な目にあっていたでしょうに、もっと危ないところに行ってるとは思わなかったわ。テオ兄様でもあるまいし……ねえ? やっぱり兄弟だからってことなの? それとも、びっくりしたの……?」
手を離してゆっくりと立ち上がる途中、急にあっ、と声を上げた。
「ごめんなさい、馬鹿なことを言ったわ。よく考えてみたら、知っていたに決まってるわよね、皆は。ねえ? だって、ずっと見守っていてくれたんでしょう? 皆が守っていてあげたから、戻ってきて、くれたのよね……。大丈夫だったの? もう、戦争になんか行くなんて……。嵐はなかった? 病気にはなってなかった? そういえば、大砲の弾が飛んできたって言ってたわよね……それも、皆が助けてあげたのかしら?」
はあ、と溜め息をついてから、何故か灯りを小さく振り回していた。
その時急に、何の前触れもなく身体の感覚がなくなったような気がした。今なら撃てる、という考えが頭の中を覆い尽くしていた。
彼女はこちらに気付く様子もない。
浅く呼吸しながら瞼を大きく開き、少しずつ所持している銃に手を伸ばす。
何を迷うことがある、今がその時だ。
注目しすぎて、灯りの軌道が、目に焼き付いていた。
「……ずっと見ていたなら、昨日のことも知ってるわよね。皆は驚いた? 私はびっくりしたわ。いえね、私の方の話よ。だってまさか、あの子があそこまでするとは思わないじゃない……。もう昔じゃないっていうのは、分かっていたはずなのに、でも……ひどいわよ……」
そう言うと、オルランドがその日の昼間に見た時はまだ腫れていた頬を撫でていた。
「ああ、ごめんなさい! よりにもよって私が皆の前でこんなこと言うなんて! ごめんね、無神経だったわ! 今度からは日記にでも書いておくから! ごめんね、許してね。……はあ、また来るわ。ほら、聞いていて? 今度、オルランドのお友達がいらっしゃるのよ。たくさん。ね、あの子にも仲良い人がいてよかったわよね。少しは安心した? だから明日明後日はちょっと無理かと思うけど、落ち着いたら、必ず来ますからね」
夫人の棺には礼をして、父と姉、兄二人の棺はもう一度顔を寄せて撫で、口付けを落とした。
「じゃあ、ね……」
そして今度は走らずに、来た通路を戻って行った。 噂の当人は先祖が安置されている別の部屋に引っ込んでいたので、ディーナの視界には全く映らなかった。
それから、初めより誰もいなかったかのように静かな時間が、長く続いていた。
オルランドは身じろぎもせず、その必要がなくなっても暗がりの中から動こうとはしなかった。
しかし足が痛くなってきたのでようやく立ち上がり、備え付けの燭台に火をつけた。
そして、いつまでも家族が入っている箱を眺めていた。
ディーナの考えた通り、彼がこの場に足を踏み入れるのは、帰還が叶ってから二度目だった。わざと首を曲げて、顔を逸らす。
その先の空間には、少し前まで自分の棺があった。気分が悪いので、既に撤去しているが。
「馬鹿だなあ……」
と、自然に呟きが溢れた。
何が、皆が守ってくれていたなのだか。
この十年来、死んだ誰かが側にいると感じたことなど一度もなかった。
大波の時も戦火の中でもこの身を助けたのはいつも自分であり、そして生き残るため必死に行動していた他人だった。
それ以外は単なる偶然である。
そうなるように仕向けたのはディーナの母親であり、彼女自身だ。
先程ディーナに撫でられていたテオドールの墓に近付き、上に供えられていた白百合を取った。
淀んだ空気の中で、そこだけ甘すぎる濃厚な匂いがする。
顔を近付けて少し嗅ぐと、ぽいと蓋の上に戻した。
そして服の中から拳銃を取り出して、白百合の隣に載せてみた。
金属の重みを持った、手に馴染んだ武器。いつも潮風と照りつける陽光、加えて数多の血の記憶を呼び起こさせる。
このありがたい道具が、テオドールの夢を実現させてくれたのだった。
情けない悲鳴を上げる中年女に向かって引き金を引けた時の感動は、そう何度も味わえるものではない。
兄の夢は自身の夢だった。
オルランドは棺の上の銃をもう一度握ると、弾薬を抜き取った。
次に蝋燭を吹き消し、地上へつながる階段を一歩ずつ踏みしめていく。
広い墓地には、爽やかで新鮮な夜風が繰り返し通り過ぎている。夜行性の鳥もよくいる野良犬もおらず、他の生きている物は植物しか見当たらなかった。
彼はそのうちの一つである糸杉に近寄っていった。十年よりもっと前から、この墓場に同胞と共に立ち続けている。
まだ実の母が生きていて、義理の姉妹となる少女の存在など知りもしなかった頃。
世の中にはかほどの残酷と苦悩が存在できるとは、思ってもいなかった頃だった。
テオドールが何故だか家を抜け出して墓地に行きたがり、弟である自分と寄り道して捕まえてきた羊を連れて、この草地にまでやってきたのだった。
一通り遊んだ後、兄は持っていた小さなナイフでこの糸杉に何か彫り込んでいた。
オルランドは羊と遊ぶのに夢中で、具体的に何をしているのかは意識しなかった。
その後ロドルフは笑って見逃してくれたにもかかわらず、コルデリアは末の弟を巻き込んだという名目で大人に告げ口し、叱られているテオドールを見て楽しんでいた。
姉を睨みつけている次兄と、悔しかったら最初からいい子にしておけばよかったという台詞、この身を抱き上げた母の腕を、今でも思い出すことができる。
かくして、その糸杉にはまだ引っかき傷が残っていた。子供が手を伸ばせる位置に、他愛もない星印や菱形が刻まれている。
オルランドはしばしその後をなぞってから、木の根本に膝をついた。
手袋を外して、土を掘り起こす。雑草や埋まっていた小石ごと、墓掘人のようだと思いながら必要な大きさになるまで穴を広げた。
さほど時間もかからず、穴は完成した。
その後、柔らかな土の上に、静かに拳銃を乗せた。
そしてやや時間をかけて手を離してから、横に盛り上がった土をかけて、埋め戻した。
なるべく平らにならしたが、元の地面よりはさすがに目立つ。誰かが気付くかもしれないが、掘り起こされたところでどうでもいいとも思った。
片膝を立てて肘をつき、少しの間ぼんやりとした。
遠くに見える森の上を、風が音を立てて吹き渡っている。
そのさらに上空を吹く風が、雲を蹴散らしていったのを見届けてから、彼は立ち上がった。
そしてディーナも通っていったのであろう獣道のような小道に沿って、寝床へと戻っていった。
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