11 可能性と自由意志
「……わたくしの大切な候爵様。まさかとは思っておりますが、そんなふざけたお話を本気で仰っているわけではありませんのよね?」
不意に聞こえてきた甘く柔らかい声に振り向くと、何故か馴染みの人物がすぐ側にいて、こちらの首に腕を回していた。
口元だけは優しい微笑みの形になっているが、いつも沈みがちだったその瞳の中には、得体の知れない光が宿っている。
「あの、テオ……ドール様ですよ? あのテオドール様が、そんな生ぬるいこと仰るわけがないじゃない! あなた様だって、お分かりなのでしょう本当は!」
思わずたじろぎつつもよく見てみると、そこは見覚えのある婦人用の部屋である。
そこでようやく、これは夢だと気が付いた。
あの最悪な出来事を体験して以来、体調が悪くなったり気分が落ち込んだりすると、いつも悪夢を見る羽目になっていた。
ただ、こうして少年期の体験ではない記憶が出てくるのは、最近になってのことだった。
ディーナが棺に寄り添って、その思いを吐露しているところを目撃して以来、彼は毎日焦燥感に駆られ続けていた。
ある日はテオドールならもういい、もう十分だから幸せになってくれと言うはずだという気になった。
主犯は既に討ったも同然、実行犯も死んでいるのだから、悪意が無かった者にまで累を及ばせるのは間違いだと。
しかしまたある日は、自分に都合良く兄の願いを利用しようとしている気がしてならなかった。
まさかこの人生を懸けた使命について、葛藤することになろうとは。
この心の中に息づく少年は、正真正銘その人生を贖罪に捧げた人間を許さないほど狭量ではない。
だが父を撃ち、兄姉を切り裂き、最終的に自らの命まで奪った輩に対して、かの人物は何を思うのか。
何を、自身の命と引き換えに守った弟に託すのか。
その答えはやはり、復讐だとしか思えなかった。
この二律背反に苦しんでいたオルランドは、義姉妹の変わらない思慕と怯え、引け目が入り混じった目線を向けられても応じることができず、むしろ煩わしいと感じていた。
どうしてこうも、何もかもが中途半端なのか。
何故、あの愚か者は娘にまで罪を背負わせたのか。
何故、テオは最後まで言い切ってくれなかったのか。次兄が仇を討てとはっきり言っていたなら、何としてでも引き鉄を引いていたのだが。
自身の好悪如きで人殺しに躊躇するようになるとは、精神が脆弱になってしまっている。
彼女もまた本物の悪党であれば、もしくは事件に一切の関わりがなければ、反省と誠意など無ければ、このような悩みまで抱えずに済んだものを。
何故ここまで人を苦しませておいて、目の前に姿を現していられるのかと思っていた。
だがその時点では、まだ彼にもある程度の心の余裕があった。
仇に報いを受けさせてやることには、相当に精神を回復させる効果があるらしい。
仇の目の前で娘の息の根を止めてやる計画は常に頭の片隅にあったが、まだそうしなくともいいと満足できる結果が得られていた。
しかし実行しないままに時は過ぎていき、怨敵はとうとう、望んだ通りに苦痛を味わい尽くしてから死んだ。
その時にはやはり、もっと子供たちの傷を見せつけておいた方がよかったかと心残りがあった。
だがそれはつまり、いい加減決着をつけるべき時期は来たれりという意味でもある。
その重みから気を逸らすための数々の用事と奢侈品たちの中でも、いつも現実はすぐ側にいた。
現実。オルランドは常に、それに苛まれていた。
そのためある程度の防衛策は知っており、心を俯瞰するようにして考えられるようになっていた。
そして、少なくともいつまでもこうしてはいられないというのは、確かだと思った。
あのディーナを殺すというのは、きっと一生実行しないはずだ。
ただ無為に、このまま全てを先延ばしにし続ける未来しか見えなかった。
しかしだからと言って、テオドールの声や震える目、大地に染み込む血を忘れられるわけではない。
あの光景や父の叫び、ロドルフの戦い、コルデリアの手の記憶は魂に刻み込まれている。
大体この怒りと喪失感を無くしたら、オルランド・フライナという人間そのものが完全にいなくなってしまうだろう。
両立はできない。片方を選ぶこともできない。ならばもう、解決を諦める以外に道はない。
ディーナを目の前から取り除いて、彼女の罪悪感、使命感も全て思い出させないように計らおう。
そしてこちら側も、あの女の娘など初めからいなかったものとして生きていこう。
それしかない。合理性だけを尊ぶなら、初めからそうするべきだった。
とは言っても逃げ、次善策、妥協案の域を出てはいなかったものの、少なくとも平和的な解決にはなり得たはずだった。
あの残虐非道な敵の元に残っていたものの、育ての恩があるのも確かであるベリンダ。
彼女やポロニウスたちには真実を打ち明けておこうとしたその前に、周囲を確認しておいたなら。
あの後から、ディーナは何度も窓から飛び降りようとしたり、紐を作ろうとしたりしていた。
オルランドはその度にどうにか説得しようと試みてはいたのだが、彼女としても絶対に自論を曲げようとはせず、毎回進展のないまま議論は崩壊していた。
そのため常に人をつけ、ディーナにとっての決定事項を実現する手段を取り払うしかなかった。
すると彼女は徐々に無気力になっていって、見張りも無視して物思いに耽るか、眠るかのどちらかしかしなくなっていった。
どうにかしなければ。このままでは絶対によくない。
そういった強い思いに駆られ、彼は二番目の兄が復讐を望んでいたとは限らない、と伝えようとした。
テオドールはやり返せとは、一言も言っていなかったと。
長らく何も反応を返さなかったディーナは、その時初めて寝台から起き上がった。
「……では、何と仰ったのですか?」
その手入れをしなくなった髪や服装、言葉遣いにはいつも心が痛くなる。
彼女はテオドールの最後の発言について知ってから、徹底的にオルランドを他人として扱った。
そんな話し方はやめてくれと頼んでも、わたくしはただ間借りしているだけであり、ベルティス候爵ともあろうお方に馴れ馴れしくしては失礼にあたると決して譲ろうとはしなかった。
「……テオドールは最期に、いいから行け、と言ったんだ。その代わり、絶対に……逃げ延びろと。必ず、姉さんたちのところまで逃げてくれと……」
油断すれば目が泳ぐと分かっていたので、強く、ディーナの鼻を見据えて口を動かした。
そして、本当にそうだったのかもしれないとさえ思った。
コルデリアと最後の相談をした時のことが、脳裏に蘇る。
これは、兄が絶対に言わないようなことではない。
これが正解だった可能性はあるという、一種の願望として。
ディーナの睫毛が、少し伏せられた。
「……本当に?」
「本当だ……」
そこで彼女は膝を体に寄せて、少し伸び上がった。
困ったような微笑みを浮かべると、目の前の人の頬に手をやる。唇の端を爪の際で撫でた後、顎の輪郭と耳に優しく指を当てた。
その穏やかさに、オルランドも小さく笑い返した。これは、やっと分かってくれたのかという希望が生まれかけていた。
柔らかな織物でできた袖が肌をこすり、首の後ろに手が回される。
そして少女時代を思い出させるような甘さで、囁いた。
「……わたくしの大切な候爵様。まさかとは思っておりますが、そんなふざけたお話を本気で仰っているわけではありませんのよね?」
今まで寝込んでいたとも思えぬ素早さと力強さで、両側から頭を掴まれた。つい、呼吸に詰まってしまう。
「あの、テオ……ドール様ですよ? あのテオドール様が、そんな生ぬるいこと仰るわけがないじゃない! あなた様だってお分かりになっているのでしょう、本当は!」
突然の豹変に、彼は胸郭だけを使って薄く息を吸い、まばたきを繰り返した。体温が下がっていくような心地がする。
「……いや、何を言っているんだ。テオ兄さんは、本当にそう言った」
「あなた様こそ何を仰っているの? 普通に考えれば、そんなはずがないではありませんか。……よろしいわ、あくまでわたくしを騙そうというおつもりなのね」
内側に光源があるかのように目を輝かせながら、もう一度改めて笑みを浮かべた。
「いいですこと? あなた様は先日、気の迷いによってわたくしを追い出そうとされました。そしてそのわけとして、テオドール様のお言葉を説明なさるところでしたのよね? もし本当にテオドール様がそのように仰ったのなら、意味が繋がっていないではございませんか。どうしてあのお方が逃げ延びてと仰ったら、わたくしを出て行かせることになるのです?」
オルランドは思わず、小さく歯ぎしりした。
「……それは……」
「仮に、本当にあのお方がそう仰せになったといたしましょう。それならどうして、わたくしが聞いた時に否定なさらなかったの? 伺いましたわよね? 仇を討って、とお願いされたのですかと。なのにあなた様は、何も仰らなかった! わたくしの邪魔をなさった時にだって、訂正できたではありませんか!」
張り詰めた叫びを放ち、彼を一瞬温度なく見据えた。そして不意に脱力して横に倒れると、背もたれの上で肘を枕にして、目を閉じたまま続けた。
「……そうされなかったということは、真実ではない。そう思わざるを得ない、としか申し上げられません」
それから垂れ下がる長い髪を払いのけることもせず、億劫だ、とでも言いたげに少し瞼を持ち上げた。
「あなた様は逆境にも負けられずに、凡人には成し遂げられないことを実現された。それは、疑いようもないお話かと存じますわ。ですのに、どうしてご家族方……。二番目のお兄君への、せっかくの誠意を汚すようなことをなさるのですか? 他のどなたが嘘偽りを言ったとしても、あなた様だけは、そんな背信をされてはならないはずですのに」
反論のしようもない。彼はそう思った。
背もたれにほとんどの体重を預けるような形で半身を起こしているディーナは、最早オルランドに目をやってもおらず、斜めに壁を見つめていた。
「……本当は、何と仰ったのでして?」
若干の逡巡があった。他でもない彼が、テオドールの意思を決めつけようとしたと認めることになるからだ。
だがこのままでは、復讐を求めると明言されたという誤解が解けない。
仕方なく真実を告げると、ディーナは顔を歪め、噛み締めるような声を出した。
「そうですか……そうでしたのね……。お話はよく分かりましたわ。ですが、そうであるなら尚更、わたくしは死んでおくべきではございませんか?」
彼が何も返さずにいると、攻め時と見たか、さらに服を掴んで見上げてきた。
「だって、あのお方が最期に何かを望まれたことだけは確かなのでしょう。でしたらわたくしたちは、それに応える最大限の努力を払うべきなのです。あの方が今も、仇の命をご所望になっていた時のために」
と、オルランドが彼女の額に銃口を向けようとした夜のようなことを言うのだった。




