7 薄氷の下には火薬庫が埋まっている
舞踏会は、全体的に見れば成功のうちに終わった。
ベルティス候爵の名声はますます高まり、硬い話も浮いた噂もひっきりなしに耳に入ってくるような様子だった。
私の評価も、概ね好意的なところに落ち着いた。昔と同じように優しく控えめで、母親とは異なり至ってまともだと。
裏ではこれ以上ないほどの醜聞を立てておきながら図々しいとか、それ以前にいくら義兄弟でも男と暮らすのは感心しないだとか言われているのかもしれないが、少なくとも表立っての批判は一つも聞こえてなかった。
なのでそちらに関してはまあよかったと言えるのだが、オルランドの方としては相変わらず私の過ちを忘れてはくれず、油断した頃にまた突き放されることの繰り返しだった。
もう慣れていたとは言えやはり惨めで悲しく、どうすればいいのかといつも暗い気分になっていたのだが、やがてそのような些事如きに構っている場合ではなかったと発覚した。
真に私が気にするべき問題、すなわちオルランドの真意の全てが判明したのは、ついに彼の戦友たちが帰国してからのことになる。
長く続いた吹雪の終わりで、綿のような柔らかい雪が降る日のことだった。
もう詳しい内容は忘れてしまったが、何かオルランドに相談すべき用事があったので、少しの間彼を探していた。
心当たりのある部屋には見当たらなかったため寝室まで上がってみると、オルランドは横になっていて、執事のポロニウスがその上着を広げているところだった。
「どうしたの? 頭でも痛い?」
入り口から声をかけると、二人ともこちらを向いた。
「お風邪を召されたようでございます、お嬢様」
「あら、まあ」
珍しいこともあるものだと思い、近寄って額に触れてみると、確かに熱かった。
オルランドは実の母君やロドルフとは異なり、至って頑健だった。そうであればこそ、厳しい逃亡生活、船乗り生活を生き延びられたのだろう。
だが、しばらく滞在していたセレネイスの人々が帽子を振りながら帰って行った後、オルランドはかなりの無理をするようになっていた。
頻繁に賭博や観劇、晩餐会に出掛けては深酒し、そして再び夜になるまで羊や牛を数え、工場の手配をして暮らしている。
そのような生活が体にいいはずはないが、私たちが止めても聞きはしなかったのだ。
「だから言ったじゃないの。お酒ばっかり飲むからよ」
むしろあのような不摂生をしておきながら、よくこの程度で済むものだ、とも内心思った。
「うるさい……」
「何ですって? 失礼ね。ポロニウス、今この人うるさいって言ったわよ。何とか言ってやってちょうだい」
彼に否定的なことを言われるといつも萎縮してしまっていたのだが、この状態ではあまり怖くなかった。
「旦那様、お嬢様のお叱りもごもっともかと存じます。ですがお嬢様、そういったお話はもう少し後でもよろしいかと」
ポロニウスが全面的に加勢してくれなかったのは少し気に入らなかったが、特段文句を言うほどのことでもない。
「もっと暖かくした方がいいわね、毛皮をもう一枚持ってきてあげて。それから牛乳も」
私の方は窓を小さく開け、火を強くしようと暖炉を掻き回した。
「ディーナ、もういい。もう暑すぎるくらいだ……」
そこで火掻き棒を元に戻し、毛布の上に腰掛けてから寝そべるようにして肘をついた。
彼の自暴自棄になったような行動は問題だが、寂しい気持ちはよく理解できる。
私は兵隊という集団が非常に好きというわけではなかったのだけれども、それでも彼の戦友たちは特別だった。あの面白くて楽しい人たちのことは、好きにならずにはいられなかったのだ。
「大丈夫? お医者を呼んだ方がいいのかしらね」
「必要ない。この程度で医者にかかると軟弱になる」
ずっと熱に浮かされた口調だったのに、そこだけ妙にはっきりと言い切っていた。
何をわけの分からないことを、と思ったが確かにこのくらいの病状なら家庭内医学でも十分であろう。
そう判断して、真っ直ぐに座り直した。
「そう。それなら何が必要なの? 果物がいい? それともお酒を温めて用意しましょうか?」
オルランドはしばらく黙り込んでいたが、目を閉じて横を向いた。
「……今は何も。寝かせてくれ」
それだけ言うと、本当に寝入ってしまった。
私は小さく溜め息をつき、運ばれてきた毛皮を上からかけた。そして、瞼に被さっている前髪を払ってあげた。
そうしてみると今の気難しさ、近寄り難さは薄れ、出会った頃の少年の面影があった。
自分よりもずっと背が高くて力も強い、恐ろしいが哀れな人。
そんな彼が体調を崩しているところを見て心から気の毒に思ったが、少しだけ気が晴れたことも否定はしない。
その後は他の用事を片付け、イフィクレスと少し話し、候爵様の代わりに陳情を聞いてとやっていたらもう日が暮れていた。
そろそろあの人の様子を見に行こうと思い、給仕の男の子が持っていた薬や飲み物を引き受けて歩いて行くと、暗い廊下の向こうからひそやかな話し声が耳に入ってきた。
思わず立ち止まってしまったが、よく聞いてみるとオルランドとベリンダの声である。
一瞬湧いてきた荒唐無稽な想像に苦笑しつつ、半開きになっている冷たい扉に触れたその時、はっきりと自分の名前の発音が聞こえた。
「そんな、出て行っていただくって……今さらですか? ディーナお嬢様はご主人様と皆様の御為に、あれほど……」
「分かってるよ……。だが、仕方ないだろう」
心臓が、大きく動きを乱した。
そのままそっと中を窺うと、ベリンダの向こうでオルランドは毛皮をいじりながら座っていた。
さすがと言うべきか、かなり治ってきている様子である。それ自体は、とてもいいことだと感じた。
そして、冷静にそう考えられている自分の状態に安堵していた。
よかった。思ったよりも、現実を受け止めることは辛くないようで。
脈拍も、まだ少し速いが、普通に戻ってきている。
どうやら私はもうこの家にはいられないらしいが、まあ、まともに考えたらそうなるだろう。
何となく続けられそうな雰囲気があっただけで、どうせ初めから終わりの見えていた生活だった。
求めてはいけない人を求め、引き際を間違えたというだけの話である。
大丈夫だ。
悲しいことは悲しいが、我慢できないほどの痛みではない。
一人で、虚空に向かって微笑んでみた。
頬と眉は、問題なく動く。涙も全く出ない。
完璧だ。
これなら、きちんと問題に対して向き合えそうだった。
しかしそれにしても、まずい時に来てしまったものだと思った。
この状況は一体どうすればいいのか。
さりげなく退散するにしても、雪の夜のこの静けさではどうしても気付かれそうだった。
私が壁際でじっとしているとも知らずに、二人の会話は進んでいく。
「そりゃ、そのご判断自体はごもっともですよ、ごもっともですとも。ですが、それならどうして、もっと早くに仰らなかったのですか? 無駄に希望を持たせるような真似をなさって……。いえ、それも復讐の一環でしたのであれば、余計なことを申し上げましたが」
「違う! ……私も、ディーナのことに関してはもういいと思っている。だから、どうにかならないかとずっと考えていたが……いよいよどうにもならないと分かった感じだ……」
すると今度は、鼻を鳴らす音が聞こえてきた。
「それはそれは。ご一族の皆様方は、さぞかしお喜びになることでしょうよ。どうしてあの方のご息女がと思っていたら、王女様だったんですからね。どうせこうなるのでしたら、いっそあの方と同じにして差し上げた方がまだよかったのでは?」
ベリンダ! という抑えられた鋭い声。
そして、そんなことは冗談でも言うなと彼は不愉快そうに告げ、しばらくの後に溜め息が続いた。
「……あの話は、初めから断る気だった」
「はい?」
「何で私がエマニュエラ様と結婚なんかすることになるんだ、ふざけるのも大概にしてくれ。あの方々とだけは、絶対にない。大体向こうとしても、本当は殿下をシルキアンの王妃にさせる気だからな?」
「……そうだったのですか? それは、存じ上げませんで」
気圧されたような返事に、私も思わず手の中に息を吐いた。
舞踏会で宮中の信任厚いジリート伯と長時間話し込んでいたことや、何度かあった手紙の往復からも推測してはいたが、やはりオルランドと第三王女殿下との間の噂は本当だったのか。
そう思うと、ただでさえ底冷えする廊下の中でも、さらに凍えるような心地がする。
知らずのうちに、ベリンダの意見をぐっと噛み締めていた。
余計な期待をさせておいて結局は捨てるくらいなら、初めから仇の一人として扱った方がまだましだったのではないか。
確かに家族を殺された復讐として弄ばれたならまだともかく、純粋に私と他の女を天秤にかけた結果として追い出されるなら、きっと私も彼女に同意していたことだろう。
だが我が心が伝わった上で、それでもやむを得ず決断したと言うのなら、母と共に殺されていた方がよかったとまでは思わないかもしれない。
許す。私はその一言が、ずっと聞きたかった。
それがほとんど叶ったようなものなのだから、逆らうつもりなどない。
とは言ってもやはり後から辛くなりそうな気もするが、諦念を抱えたまま生きていけそうな気もする。
まだよく分からない、というのが正直なところだ。
「恐らくはあのお姫様も、それは分かった上での話だと思うが。最後のわがままってところだろう」
そして、付き合わされるこっちとしては堪ったものではなかったけどな、と溢している。
「まあ……そういう事情がおありだったとは」
「それから、件のお人とは単純に合わない。嫌いなわけではないが、いくら何でも自由奔放が過ぎるんだよ」
「……さようで。でしたら……誰かがよくない噂でも、お耳に入れましたか?」
オルランドは少し返事をしたくなさそうに答えた。
「いや……世間体のせいではないんだ。全く気にならないと言ったら嘘になるが、今の話には関係ない」
「はあ……でしたら、どうして……」
もうこの頃になると立ち聞きはよくないという思いや、どうやって気付かれずに戻るのかという課題も意識の外に行っていて、ただひたすらに彼の答えを、本音を待っていた。
オルランドがどうして……と小さく繰り返した後は、長い沈黙が降りていた。
外の木の枝から、雪の塊が落ちる音が聞こえる。
そしてやっと、ベリンダには言っておくべきだな、というぽつりとした呟きがあった。
「何というか……迷っていたんだよ。私もずっと、どうしようかと思っていたが……やっと、決めることができた。……実は、あの時に言われていたんだ。テオドール兄さんに……」
がしゃん、ばきんという音が金属音と合わさって、辺りに耳障りに響き渡った。
私が手にしていた銀盤や、陶器と硝子の破片が床の上に散らばり、絨毯の端で止まっている。
ベリンダとオルランドは突然の騒音、そして私の姿に目を見開いていたが、こちらとしてもそれどころではなかった。
「……実は?」
顔色が青くなっていくのを感じ、裾と靴の下に液体と硬いかけらの存在を感じながら、部屋の中へ茫然と歩みを進めた。
私が近付く度に、二人の焦りと狼狽は色濃くなっていく。
聞かれたくないことを聞かれてしまった動揺、どうやってこの場を収めればいいのかという計算、予想される未来への恐れ。
オルランドの様々な内面が、自身のもののように読み取れた。
「あの、お嬢様、これはですね……」
「お兄様は、何て言っていたの? オルランド……」
何と聞きつつ、彼の言わんとしていたことは、既にほとんど理解できていた。
この人の一連の発言と今までの行動、そして、私自身の経験から。
信じることにすると言ったはずだったオルランドの、冷たく、疎むような態度。
皮肉気な口調と、遠くを見つめる目。
それらは全て、彼の傷のみに起因するものだと思っていた。
大量の血を流して、喋ることもできなくなった人たちが目に浮かぶ。
その眠るような表情と、苦痛に満ちた表情の蒼白さを思えば、完全に許すことなどできるはずがないと。
だが、どうして思い至れなかったのだろう。
オルランド以外の心の中に。
私の耳にも、お姉様の最期の声がまだ反響しているのに。それとも、しているからこそなのか?
「……頼まれていたのね? 仇を討って欲しいって……」
ほとんど確信を持って、そしてどうか勘違いであってほしいと願いながら、上擦った声を出した。
しかし途端に生まれた彼の目の反応が、物語っていた。
正解だ。
「……ああ。あはは……」
私の声が、勝手に洩れている。気付くと、首を斜めに曲げていた。
なるほどね?
咄嗟に視線を動かすと、思った通りに落ちていた。
鋭く尖った、薬瓶のかけらが。
それを見つけられた瞬間に、決断できた。すぐに膝をついて掴み取り、全力をかけて首の血管を狙う。
もう嫌だ。あまりにも恥ずかしすぎて、最早笑えてきてしまう。
今の今までテオドール兄様の本心に気が付けなかったのは、オルランドのことばかり気にしていたせいなのか、それともお姉様の遺言のせいなのか?
いや、どちらも違う。先入観があったせいだ。
あの優しかった義家族たちが、これほど努力した私を許さないはずがないという甘え。それから、母とは違うという自尊心があったせいだった。
情けないことこの上ない。
ああ、でも本当に、真実を聞けてよかった。
まずい時などでは、全くなかったのだ。
何も知らないまま生き永らえてしまったりしたら、その時こそ死んでも死にきれなかったので。
しかし私を地上から追い出すはずだった刃は、結局目的を果たすには至らなかった。
抵抗はしたのだが、脱臼しそうなほど強く手首を掴まれて、首筋に小さな痛みを残しただけで終わってしまった。
ただ、絨毯に血は飛び散っていた。
私の喉からではなく、その破片を奪ったオルランドの手から。
一瞬、呼吸さえ止まった。
そして、鼓膜を突き刺すような悲鳴が走り出た。
「オルランド! いや! ダメ!」
必死になって服の裾をたくし上げ、彼の手を押さえつけた。
段々赤色の範囲が広くなっていく布に気道が勝手に縮まり、視界が狭まるような心地がした。
だが今ここで失神するわけにはいかないなどと思っていると、先程の金切り声を聞きつけたのか、数人が部屋に飛び込んできた。
「どうされました、お嬢様!」
「ポロニウス……! 私じゃなくて、違うの、わざとじゃないのよ……」
こういう時は言い訳すればするほど不誠実に見えると分かっていても、弁解せずにはいられなかった。
だが幸いにして、賢明なる我らが執事は大方の事情を察してくれたようだった。
「ご心配なさらず、存じておりますよ。旦那様、お加減はいかがですか? お立ちになれますか?」
しかし彼は、ポロニウスに差し伸べられた手を押し留めて、縋るように抱きついてきた。
荒い息遣いが耳元に届き、温かい血が私の袖に染み込んでいく無言の時間が続いている。
「オルランド、治療を……」
私にはそれが不安に感じられるほど長く、とりあえず怪我について思い出させようとした。
「ディーナ」
「ねえ、傷が」
「旦那様、お嬢様がお困りですよ」
「ディーナ……」
「……何?」
彼は今しがた血の染みに気付いたという風に少し離れて、何度も息を吸い直した。
ぎこちなく顔を擦りながら首筋の切り傷に目をやり、目線を左右に動かしてからやっと、震える声で話し出した。
「謝るよ……謝る。全部私が悪かった。君には本当に何の罪もないし、何も気にしなくてよかったんだ。もう絶対に疑わないし、何でもするから、頼むから死なないでくれ……」
これに対し、まずそんなことで死のうとしたのではないと思った。
そしてあなたの家族の願いなのに、指だからまだよかったものを、そもそもあなたが手を出さなければ、何故またも私に人を傷付けさせたのかと胸中が入り乱れてめちゃくちゃになり、言語の代わりに涙が滴り落ちた。
力の限りにねじられた指と手首が、今さらながらに痛み出していた。
「……ばか、馬鹿……最悪よ、本当……。大っ嫌い……」
義兄弟は項垂れて、ごめん、としか言わなかった。
固まっていたベリンダや、気まずそうに佇んでいた他の屋敷の住人たちがあれこれと動き声をかけてくる中で、私は事ここに至ってようやく、もうお終いだという認識を持った。
自分の心の大部分を奪った人が私に憐憫を抱き、その使命を忘れてでも過去のしがらみから逃そうとしてくれたこと自体は、この上ない僥倖である。
本当に、願ってやまなかった再会が叶った時のように嬉しく思っている。
けれども、私にはその厚意を受け取ることはできない。
彼も知っての通り、死者の願いなら叶えるのが私たちの務めであるが故に。
次から、しばらくオルランド側のお話が続きます。それから地の文が、一人称から三人称に変わります。
元々はディーナが出てくる場面は一人称、それ以外は三人称で書こうと思っていたのですが、やってみたら三人称の方が書きやすかったので、次回からは全て三人称の文となっております。
もしも読みにくかったり、一人称の方がよかったりしましたらすみません。お楽しみいただけますと嬉しいです。




