6 汽水域
私も含めて、家の中にいる全員が各々の役割に忙殺されるうちに、気が付いたら舞踏会当日となっていた。
掃除係が蝋燭を落として床に焼き焦げができた、飾りに使うはずだった花が突然病気にかかったというくらいならともかく、注文した食材が大雨で届かないと来た時にはさすがにうんざりさせられた。
しかし、そんなことは招待客にとっては何の関係もないことだ。どうにかその他の問題も含めて解決でき、不手際を見せずに済んだのは天佑神助と言うべきかもしれない。
私もついに黒い服を脱ぎ、砂糖菓子のような淡紅色の盛装を着た。本来なら母親が死んだのに晴れ着など非常識極まりないが、もういい加減いいだろう。オルランドの気持ちとしても、私の気持ちとしても。
そういえば、このような明るい色の服は十年ぶりだった気がする。
胸元と巻き髪を花で飾り、首には黒いリボン、手首には真珠を巻けば、かなりそれなりに見えた。
それなりに着飾ったところで部屋を出ると、イフィクレスが勝手に大人たちの間をうろついていた。
誕生以来、ほとんど常に陰鬱だった屋敷が美しく飾られているのが面白かったらしい。
もっと喜ばせようと思い、用意していた菓子類を食べさせると、久しぶりに笑顔を見せてくれた。
そうすると本当に異母兄たち、特に長男のロドルフに似ていた。そのためこの子を見るといつも、私ですら切なくなってしまう。
本来なら見ずに済んだものを見続けてきた、かわいそうな子。
オルランドに手を上げられてはいなかったようだが、そんなことが何になる? まだ多少は救いがあったという程度だ。
まだ先行きには不安があるが、せめてこれからはかわいそうではない子供にしてあげたかった。
イフィクレスを図書室まで連れて行った後、オルランドに会うため移動したのだが、そこに一番神経を割いたと言っても過言ではない。
今後の私の評判の如何は、全てオルランドの気分一つにかかっていたからだ。
彼は扉の向こうで、給仕の男の子と何か話をしていた。
茶色く染めていた部分を切り落とし、新調した黒い服を着た姿はいかにも貴公子らしく、厳格な表情がなければ艱難辛苦に耐え続けた人間には見えなかっただろう。
息を飲み込みつつ近付くと、オルランドも視線に気付いてさっと私の方を向いた。
そしてやや間があってから、
「……ディーナ。似合ってるな、その服」
というお言葉を頂戴した。
「あなたも」
はあ、とこっそり溜め息をつく。
その鋭い眼光にはいつも身が竦んでしまうが、意外にもあまり悪くない反応である。
正直、いつも辛気臭い格好をしているから誰か分からなかった、などと皮肉が飛んでくるくらいは覚悟していたのだが。
これなら、客人たちの前で吊し上げに遭う可能性は低そうだと思った。
いちいち人の顔色を窺って情けないとは思うが、怖いのだから仕方がない。
せめて人前では、私の体面のことも慮ってくれるといいのだがと思うばかりだ。
その願いが通じたのか、会自体は特に波乱なく進んだため少々驚いてしまった。
そして舞踏会そのものに集中できるとこうも楽しいものなのか、とも。
オルランドはすぐに招待客に取り囲まれ大勢の女性と踊っていたが、それでも皆礼儀を弁えていて、候爵様がいらっしゃらない時でも不愉快な思いをさせられはしなかった。
実際に何を考えているかまでは知らないが。
一通りに客人たちと会話し、私の数少ない知己と軽くやり取りした後は、主にセレネイス人の相手と通訳を務めた。
オルランドの元同僚たちをはじめ、彼らも多く招かれていたのである。
この国ではあのサラヴィア号と言えばやはりレステル沖の海戦となるが、それ以外の日常についても色々と話してくれた。
「そういえば、候爵閣下とはもうご婚約されまして?」
しかしセレネイス語でそう聞かれた時には、少なからず動揺させられた。
「いいえ。そのようなことは……」
「じゃあ、これからなんですね」
その場にいた男性も参加してきた。
「さあ、どうでしょうか。あの人からは何も聞いていないものですから」
「あら、それは失礼を。そう伺ったことがございまして、つい信じてしまいました」
「そんな噂が?」
「謎の多いお方でしたそうで。どなたかの隠し子ですとか、陸に恋人を残してらしたとか色々言われておいでだった……と、弟が言っておりましたわ。ですからメレンヴィル様にお目にかかって、つい。不用意なことを申し上げましたわ」
「いいえ、お気になさらず」
「ですけど、もうすぐのことなのでは? そりゃアドルノ候爵様を狙ってるお嬢さんなんざ客船一隻分はいますけど、あなたに勝てる人なんて一人もいませんよ。実績ってもんがね、全然ありませんから」
言ってから余計なことだったと思ったのか、その人はそれきり口をつぐんでしまった。
私も微笑んで他の話題を提供しながらも、ずっとそのことについて考えていた。
本当に、オルランドには私しかいないのだろうか。それはかなり不明瞭というか、今の段階ではまだ判断が難しいと思う。
確かに目の前の客人の言う通り、十年間待ち続けたのも、それを具体的な形で証明できるのも私だけだ。
オルランドのため、コルデリアの遺言のため、贖罪のために胸をねじ切られんばかりの思いで無事を祈ってきた。
そこは私にも、一抹の自負がある。
きっとそれは、私の父と兄姉たちも分かってくれていることだろう。
だが同時に、それでもなお償いきれない過ちがあることも認めざるを得ない。
その上セレネイスの将軍の妹君にマトレイ公爵令嬢、果ては我が国の第三王女まで、大陸中のほぼ全ての女性がベルティス候爵に関心を寄せていることは知っている。
ならばもっと普通で財産があって美しく、おかしな親戚のいない人が選ばれたとして、何を不思議に思うことがあるだろうか。
しかしもし、本当にそうなったとしたら。温かくて息苦しい、この家から追い出されることになったとしたら。
そんなことになったら、虚しすぎてもう二度と立ち直れないかもしれない。
私の悩みをよそに、泡立つ葡萄酒と運動で少し頬を上気させたオルランドがやってきた。
「楽しんでいるみたいだな。今、何の話だったんだ?」
「あなたのことに決まっているでしょ」
「私の? へえ、それは。どんな悪口を吹き込まれたのかな」
「ええ? 悪口なんて。全然言われてなかったわよ?」
「本当に? よく海に落ちていたとか、下手なくせによく舞踏会なんか開けるなとか言ってたんじゃないのか?」
一瞬お客様が気を悪くするのではないかと困惑したのだが、オルランドの友達は笑いながら手を振った。
「おい、やめてくれよ。俺がそんなふざけたこと言うわけねえだろ」
「いや、お前なら言ってもおかしくない」
「違うって、冤罪だよ。ですよね?」
それでようやく、私も笑みを扇で隠して答えた。
「ええ」
私がずっと座っていたからということで、次の曲にはオルランドと参加した。
果たして、ただ単純に喜んでいいものなのだろうかと冷静に理性が話しかけてきていたが、感情が浮き立つのは止められない。
いるべき人たちが誰もいなくなっていたこの広間、私の目の前に、オルランドがいる。
追い求めてきた、ただ一つの願いがここに実現している。
また何か嫌なことが起こって、落ち込む羽目になりたくないと歯止めをかけなければ、泣いてしまいそうだった。
「……さっきはジリート伯爵閣下とお話をしていたの?」
「していたよ」
「そうなの。あの方もいらしてくださって、よかったわよね。昔は色々とよくしていただいていたもの」
「そうだな、久々に会うと懐かしい感じもした。でも、背が縮んでいなかったか?」
「オルランドの方が伸びただけかもしれないわよ。……それで、あなたは何のお話をしていたの? あの伯爵様のことだから、芸術論ではないでしょうし。哲学と軍事費について?」
「いや、王太子殿下の近況とか、アントリーは改革派が議席を増やしそうだってこととかだったな。それから……陛下は近々、反中央派狩りをするおつもりなんだと言っていた」
と声をひそめるので、私も思わずさらに小声になった。
「まあ……。それなら、汚職の証拠はあったのね?」
「多分あったんだろ。ないならないで、困りはしないだろうが」
「んー、そうですけどねえ……。それで、あなたは何てお答えしたわけ? まさか、お力添えしますって申し上げたの?」
「まさか。今回だけは見送らせてくれって言っておいたよ。申し訳ありませんが、若輩なもので未だ地元のことのみで手いっぱいです、ってさ。まあな、向こうも念のため聞いてみただけだと言ってはいたが」
「そう? まあそうよね、よかったわ。私も、その方がいいと思うもの。絶対に」
何気なく返したつもりだったのだが、オルランドは突然進行方向ではなく、こちらを冷ややかに見つめてきた。
「……そう思うか?」
いきなり何だろう、実は不本意な返事をしていたのかと内心焦りつつも、普通の声音を作った。
「ええ。だって反中央派には、あの公爵閣下がいらっしゃるじゃない? これからも色々と大変なのに、鉄のマトレイまで敵に回していられないわよ……そうでしょう?」
「ああ……。その通り、だなあ確かに……」
その言い方と笑い方には多分に含みがあったので、私も黙らざるを得なかった。
笑顔のままそっと見上げると、オルランドはさりげなく目を逸らしている。
まただ、と思った。
ベルティスに帰ってきてから、幾度となく見ることになった表情。
先程、着替えてきた私に目を留めた時の顔と全く同じだった。
何が切っ掛けで、いつこうなるのかは予想がつかない。
それまでは普通に会話していても、少しでも意見が食い違うと皮肉を言ったり、黙り込んでいたりする。
そして私は何もできないので、彼が背を向けるまでこの居た堪れなさは続くのだった。
初めのうちは何が悪かったのか聞き出そうとしたり、逆にわざと明るく振る舞ってみたりもしたが、程なくして何をしても無駄であることを悟った。
その目に深い苦痛がよぎる度に、悲しく口元が引き結ばれる度に、彼の思いが沈黙を貫通して突き刺さってくるからだ。
家族を死にまで追いやった女。誰よりも憎い仇の血縁。
その苦い事実を、思い出しているに違いなかった。
それなら私にはただひたすらに、彼の気に障らないよう心掛けることしかできない。
努力で覆せるような領域は、とうの昔に越えてしまっているのに、今さら何ができると言うのか。
しかし、それは十分承知しているのだが、気持ちは全く追いついてはいなかった。
私はこの無言で責め立てられるような雰囲気というものが心底嫌いで、いっそまた叩かれた方がまだいいのにとすら思う。
こうなる度に、いつも大声で釈明したくなってしまうためだ。
違うのよオルランド、違うの……! 私じゃないの、全部お母様が悪いのよ……!
私が余計なことをしたのは認めるわ、でも……!
あんなの、分からないじゃない……!
なりたくてこんな立場になったって、本気で思ってるの? あなただったら、予め気付けていたとでも言うつもり?
私だって全員を助けたかったのに、あなたたちのことを本当に心配していたのに、どうして許してくれないのよ……!
私の話を信じたなら、許すことだってできるでしょう! ねえ……!
そのような醜態を晒すくらいなら、黙っていた方が百倍ましだということは分かっている。
なのでやらないが、だが、いつも言いたくなるのだった。




