5 月桂樹と山楂
十年前失踪したオルランド・フライナが、沈没する船から多くの人を救出した水兵、エリック・アドルノとなって帰ってきた。
まだ公にそう発表したわけではない。
だが、少しでも気の回る人間なら誰でも気付いていたはずだ。昔を知る者は完全に彼こそを後継者として仰ぎ、新しく来ていた者もそれに倣った。
全体的に、昔の溌剌とした雰囲気が、この土地と家に戻りつつあった。
それが成立していたのは、全員が候爵夫人の存在をなかったものとして扱ったからに他ならない。私もベリンダも、イフィクレスでさえも例外ではなかった。
オルランドの言う通り、弟は年齢に見合わないほど賢い子に成長していた。
そのため母親が兄姉に何をしたか、誰のためにしたのかとっくに知っていたのだろう。
恐らくはそのせいで、常に異母兄や異父姉、子守と同じ曇天のような空気を漂わせていた。
私には、それが気の毒だった。
このように死者と生者全員の人生を破壊し尽くしておきながら、助けてと言う者を助けられる人間はどれだけいるのだろうか。
少なくとも、私はその内には入っていなかった。
未だ肉親への情は一応残ってはいるものの、義父と義兄姉たちの無念を思うと、オルランドの報復を止める気にはとてもなれなかった。
暴力はよくない。それは、身に染みてよく分かっている。
だがもしあの人に母の居場所を知らされなかったら、きっと一生探さなかっただろう。
彼は二度と私を地下室へは連れて行かなかった。
そのため血が見えず、呻き声も聞こえないのなら、普通に過ごすのはあまり難しくないということが分かった。
しかし一度だけ娘の義理を果たさなければいけない気がして、人の目を盗み、薬や食べ物を渡しに行ったことがある。
傷薬を塗る間、母は一言も返事をしなかった。食事に目もやらなかった。
生きる気力をなくしていることは明らかで、助けというよりもむしろ追い討ちになっていることにはその時になって初めて気が付いた。
しかし元はと言えば本人が全ての元凶なのであり、あの母さえ余計なことをしなければ、全員無用の苦しみを受けずに済んだのである。
義父や義兄姉たちが痛みの中亡くなることもなく、オルランドが喪失の悲しみを味わわされた上に何度も命の危険に晒されることもなく、私が長年裏切り者として扱われることもなかった。
母の世界一大切なイフィクレスも昔のままの方が幸せだったに違いないのに、最悪の愚行を選んで周囲に無駄に災厄を撒き散らしたのだから、本当に救い難い。
そう考えると、自らの蒔いた種が少し多くの実を付けたくらいは、どうということもないだろう。
数ヶ月をかけて、お母様は死んだ。
言葉にこそ出さなかったものの、誰もがやっとかと思ったと思う。
世間体のための簡単な葬儀が、ひっそりと執り行われた。
どう見ても自然死の遺体ではなかったが、それを口に出す人など一人もいなかった。
オルランドの予想が当たったと言えよう。
それからベルティスではなく私の故郷ケイランタに埋葬したのだが、面倒くさいことに、そこでも一悶着あった。
しかし反対するメレンヴィル家の人々に、責任感がないと噂を立てられたらどうすると抗弁すれば、あっさりと引き下がってくれた。分かりやすいものである。
ただし立ち会った者は私と叔父しかおらず、それも私だけだと準備が大変だろうという理由だったが。
野外にある簡素な墓を見ていると、どうしても我が一族の霊廟との距離が目についた。
その時思い出したのは、いつも通っているお義父様、前候爵夫人、コルデリア、ロドルフ、テオドールの棺のことだ。
全ての墓碑に心がこもった銘が刻まれ、地上には私と当時の家政婦長が植えた菫や白薔薇、黄水仙が春には花をつけていた。
涙が落とされていない時はなく、花束がない時もなく、いつも管理人や住民に大切にされていた。
その記憶と比べると、後世まで末永く汚名を伝えるであろうこれなど、建てなかった方がまだ慈悲があったのではとさえ思えてきた。
それとは対照的に、オルランドは栄光の中にいた。
正式にベルティス候爵となると同時にエリック・アドルノであったことを認め、世間は悲劇を乗り越えた高貴な英雄に夢中になった。
元々多かった招待状が山と舞い込み、新聞記者や野次馬が家の周りをうろつくようになった。勲章が改めて授与され、首都の凱旋門にも名前が連ねられた。誰もが彼を誉めそやし、冒険の数々を聞きたがった。
その上、国王にすら讃えられた。
元々フライナ家は王室に連なる血筋であり、オルランドたちもその両親も大層可愛がられていたと聞く。
非業の死を遂げたはずの親戚の子供が故国の危機を救い、候爵家に返り咲いたともなれば覚えがめでたいのも頷けるが、それにしても尋常ではない目のかけられようで、いらない反感を買いはしないかと心配になったほどだった。
しかし私の知る限りではそんなこともなく、彼の素晴らしさを示す箔付けになっていたように思う。
またその箔付けのうちの一種なのか、彼の周囲も掘り起こされるようになった。
白銀のベルティスの民の忠義が持て囃され、元々人気者だった海軍の兵士は神話の登場人物並みの扱いを受けた。
私たちメレンヴィルの血を引く子供ははじめ悪役とばかりに誹られていたが、それも間もなく賞賛に変わることになる。
十年間義兄弟を愛し続けた美貌の烈女と、親に振り回された同情すべき末弟という評判を聞いた時には、思わず鼻で笑ってしまった。
幸せだった頃でさえコルデリア姉様の引き立て役だと陰口を叩かれていたし、あの事件が起こってからは気狂い女、共犯者のくせに白々しい、身の程知らずの不出来な息子などと本当に散々な言われようだった。
それなのに風向きが変わった途端貞淑な美女と不運な子供とは、馬鹿馬鹿しさもここに極まれりとしか言いようがない。
私がどれだけ知らなかったと訴えても信じず、侮蔑と中傷をもって応えていたくせに。
彼らの言動も理解できないではないが、今さら何だと言うのか。
正直言って放っておいて貰えないかと思っていたのだが、オルランドはこの騒ぎを受け入れているように見えた。
誰からの称賛も失礼にならない程度に受け流しており、それなら自分だけ苦言を呈するのも気が引けた。ただでさえ私たち姉弟のような人間は立場が弱いのだから、おかしな目立ち方をしてもいいことはない。
いと高きベルティス候爵の陰で、大人しくしておくに限る。
とは思っていたもの、さっそく候爵になった記念の舞踏会という例外が発生した。
通例でさえ一大行事なのに主役が国民的英雄の上、仇敵の娘までいるともなれば、王国の皆が招待されたがったのも無理からぬ話ではある。
大変なのはこちらだったが、私もこの時ばかりは無邪気に夜遊びを待ち望む人たちと同じ気持ちだった。
オルランドが何を考えているのかというのは、私にはよく分からないものがある。
仇敵の子供たちにもこの家での寝起きを許し、それでいて和解しようというわけでも、母のようにいたぶろうというわけでもない。
不可解で、不安で、恐ろしかった。
けれども私の方から離れはしないのは、どうしても期待するのを止められなかったからだった。言い訳はできない。
こうして準備の一部を任されているからには、彼の言っていた通り、最低限の信用はあると判断して差し支えないだろう。
もしうまく行けば、もう一度昔の通りに戻れるかもしれない。
しかしそのようなことは、さすがに口に出せはしない。どうせ叶わない望みだとは思っている。
そのため、私はなるべく手放しで喜べる話だけに集中するようにしていた。
それとは、あのオルランドがついに。義父の跡を継いだということだ。ロドルフ兄様と、テオドール兄様の代わりに。生きて、青年の姿になって。
今現在の彼のことは少し憎たらしいと思ってしまう反面、泣きそうなほど感慨深くもある。
あの人がもう一度この家に立つ時を、どれほど待ち望んだことか。
イフィクレスに問題があるわけでも、再び相見えた日の仕打ちと痛みを忘れたわけでもないが、だが義兄たちの次はあの人でなくてはならなかった。
何としてでもこの目で、苦難の時代が終わったところを見届けたい。
例えオルランド本人が難色を示そうと、立場を理解していないと言われようと、どうかこれだけは見逃してもらいたかった。
その目的のためなら、解決した側から湧き出る面倒事の数々も、さすがに彼の正式な相手役は務められないという現実も、大したことのないように思えるのだった。




