22 蝋燭物語
伯爵との話し合いを終えた少し後、オルランドは部屋を出て廊下を歩いていた。
別れ際に扉の前で、色々とお答えしてくださり感謝いたしますと言うと、ジリート伯は、君たちの行手に幸多からんことをと握手を交わしてくれた。
そのことを思うと、感謝の念に耐えない。
伯爵のことを思い返していた彼の目の前には、勝手に数年前の記憶も連想で出てきていた。
その立ち上がる蜃気楼の場所、セレネイス王国は、オルランドにとっても数少ない楽しい思い出のある地だった。
波は荒く緑は茂る賑やかな都市や港、明るく真面目な人々には、何度救われたことか知れない。
特に昔の仲間たちに正体を知らせてもなお、距離を取られなかったことは有り難かった。
そのためセレネイスを挙げた理由には、彼らにもう一度会いに行きたいという願望も含んでいた。
家に招待した際は、ディーナとも気が合っていたようだったから、きっと彼女の助けにもなるだろう。
後はディーナ本人に説明すればいいと頭の中で整理してみたが、それが一番気が重かった。
もしかしたら、ガラテアがうまく気を紛らわせらせてくれたかもしれない。
そうだったらまだ希望はあるのだが、楽観的になるのはまだ早いと思われる。
もしガラテアの心遣いさえもあまり効果がなかったのだとしたら、セレネイス行きの提案など間違いなく一蹴される。
しかし無理強いしたとしても、いい結果が得られるはずもない。
色々と問題が多すぎて、頭が重くなってきてしまった。
今頃、ベルティスに帰っているであろう顔ぶれについて考える。
そうするとセレネイスの友人たち、飢えていた時に麦粥をくれた老人、酒癖が悪かった貿易船の船長、騙して追手に売り飛ばそうとしてきた夫婦、作業を手伝った漁師や農家などの顔も次々と流れては消えて行った。
そして一番目の兄、母親、両祖父母、父親、姉、二番目の兄の記憶も。
『いいから行け……その代わり、絶対に……』
何度夢に出てきたか分からない声や光景がまた甦ってきて、オルランドは額を強く押さえる。
不快な寒気がして、口の中が渇いていた。
結局根本的なところでは、彼とディーナの意見は一致していた。
恐らくテオドールは、敵と理不尽への怒りの中で息を引き取っていた。
何度検討してみても、必ずやり返せと言おうとしたとするのが、最も兄らしいと感じられる。
そう分かっているにもかかわらず、ディーナの生存にこだわっているのだ、とオルランドはまるで新しい発見かのように思った。
一度強く目を閉じて、それから開けた。
テオに申し訳ないのか? 無論だ。
しかしそれでももう、以前のように報復こそが人生であるとは思えない。
自分たち五人の中で誰か一人だけ死なずに済むという運命だったのならば、生き残るべきは自分ではなかったということか。
そういった考えを眺めながら、すれ違う女性に会釈をした。姉によく似た背格好だった。
コルデリアならば、自分と同じように必ず復讐を遂げていただろう。
ディーナやイフィクレスについては、恐らくは許した上で穏便な別離を選んでいた気がする。
ロドルフは体があまり強くなかったので、無理をすれば病魔に負けてしまっていたかもしれない。
だが例え奪われたままであっても、どこかで平和に暮らしていて貰えるなら、それでよかった。
ではテオドールはと言えば、彼もまた敵討ちを選んでいたと断言できる。
もし現実と同じように二人で逃げていたのだとしたら、かなり高い確率で、死に際の自分は余計なことを言っていたはずだからだ。
仮にそうでなかったとしても、次兄は自発的に、心から讐敵の死を願っていただろう。
異母弟と義妹を許すかどうかは、半々といったところか。
彼らの誠実さと信義に免じて過去を忘れることにしていても、自分のように葛藤しながらも刃を向けていてもおかしくない。
父に関しては、よく分からない。
いずれにせよ、死ななかった人間がオルランド・フライナでさえなければ、もっと早くに事態は収集がついていたはずだった。
ディーナとしても、少なくとも今よりは納得できる結果となっていたに違いない。
だが、この使命と辛苦と怒りを姉や兄たちに背負わせることにならず、よかったとも思う。
自分の代わりに誰か一人でも助かっていたならば、この命など惜しくはない。
だがフライナ一族は総じて、心に熾火を飼っている。
怨敵を抹殺できる力があるのであれば、あえて剣と天秤を持った側に立とうとはしないはずだ。伯爵の、本当なら殺してはいけなかったという意見が正しいと分かっていたとしても。
今は、皆何を感じているのだろうと思った。この有様に心を痛めているのか、それとも全てを忘却して久しいのか。
いつだったか、ディーナは死後にテオドールと会った時、どうして自分のために死んでくれなかったのかと聞かれるのが恐ろしいと言っていた。
そのような質問がされ得るとするならば、自分もまた聞かれるのかもしれない。
何故、家族全員を最も汚い方法で陥れた女の娘を生かしておくことにしたのかと。
オルランド自身としては、テオは言いそうにないことだと思ってはいるが、有り得ないとまでは言い切れない。
答えはそれほど間を置かずに、彼の内面から出てきていた。
そうなったとしたら、最早謝るしかないだろうと。
テオドール兄さんは、ディーナを許してなどいなかったのか。そうか、申し訳なかったと。
本当に心苦しく思う。だがどうしても、彼女だけには手を下すことができなかった。
昔はあのくだらない女を破滅させるためだけに、ただひたすらに未来を願っていた。
今でも、それを恥じるべきことだとは思っていない。
けれどそれは、姉さんと兄さんたちとのためでもあったが、私が許せなかったからでもあった。
許せない。
優しい顔をして家に上がり込み、全てを壊していった悪魔よりも下劣な人間が。
何の罪もない皆の命を奪い、生き残った周囲も苦難の谷に突き落とした奴のことが。
にもかかわらず私はその娘を許してしまい、そのために、彼女を死なせたくなかった。
自分勝手だとも、誓いを守れず情けないとも思っている。許してくれ。兄さんたちの苦しみを忘れたわけじゃない。
だがもう頼むから、私は十分成果を出したということで、終わりにさせて欲しい……。
オルランドは歩を少しずつ早めていたが、次第に遅くなっていき、ついに立ち止まった。
「……クライド」
そして思わず、後ろにいた従者に呼びかけた。
「はい、ご主人様」
彼は丸い目を素早く動かして答える。
「なんという名前だったか……そうだ、ペテロだ。ペテロに売っている、干した杏を注文しておいてくれないか」
「ああ、ペテロ菓子店の……杏の砂糖がけでしょうか?」
オルランドは該当の菓子箱に書かれていた商品名を何となく思い出しながら、頷いた。
「そうだな。それのことを言いたかった」
「承知しました。一箱でよろしいですか?」
「とりあえずは一箱でいい。……あれは、兄が好きだったんだ」
そう言った後、知らないうちに溜め息が出ていく。
「テオドールの方で……私も好きだったが、兄は特に気に入っていたな。ロドルフ兄さんは食べなかったから、いつもその分まで勝手に食べていたんだ」
「……そうでしたか」
クライドは頷いた後、少しばかり躊躇した。それから、あの、すみませんと切り出すことにした。
「あの菓子屋の、菫飴も購入しましてもよろしいでしょうか。それも、テオドール様がお好きだったようですので」
「……菫?」
オルランドにはそのような記憶はなかったため、思わず語尾の音を上げた。
「そうだったかな?」
「はい。ダニエルを覚えておいでですか、前の料理長の子供です。私の小さい頃からの友人でして」
「ああ……覚えているよ、よく一緒に石蹴りで遊んでいたからな。一度川向こうの子供たちに殴られて、それで兄が怒って大変だった」
「そうです、以前そのダニエルに聞いたことがありまして。ガラテア様……いえ、伯爵夫人が少しだけいらっしゃったことがあったそうなのですが。その時にあの店の菫飴をくださって、テオドール様は大層お気に召したそうなのです。ダニエルもいただいたらしいのですが、本当にいい香りで、美味しかったと言っておりました」
「へえ……知らなかった」
オルランドは、まさか今になってテオドールについての新しい話を聞くとは思わなかったと、半ば感心しながら呟いた。
「ご主人様は、その時外出されていたそうですから。ですので、もしよろしければ……」
「ああ……そうだな……。それなら一箱で……」
頼む、と続けそうになったが一度口を閉じる。それから、いや……と呟いた。
「四箱で頼む。ガラテアたちとお前と、ダニエルにも……。どこに住んでいるか、分かるか?」
オルランドは力なく微笑みを浮かべたが、クライドは力強く頷いた。
「はい。半年前に引っ越したそうでして、その時に家族から聞きました」
「そうなのか。お前は物知りだな」
「恐縮です」
などと言いながら二人は階段を抜けて、外へと出て行った。
肌に触れる風には、少しの暖かみがある。
どこか遠くに、人々のざわめきが響いている。
クライドは先程謙遜してみせたが、彼は実際に様々な人間関係や周囲の近況を把握していた。
頭も人柄もよく、多くの相談事を持ちかけられているためである。
とは言っても主にベルティスで暮らしているので、首都近辺など他の地域で、近頃このような噂が流布していることまでは知らなかったが。
「ねえ、聞いた? ベルティス候爵様といる、あの人の話だけど」
「ああ、ディーナさんね。一見まともそうに見えて、実は……って話のこと?」
「そうそう。どうなんだろうね? 最近、結構色んな人が言ってるけど。王女様との結婚を潰しちゃったって、本当なのかな? あとは、公爵様にすりよってたと思ったら、今度は怒鳴りつけたとか……」
「さあねえ……でも、ずっとお母さんに不利になるような証言してたのは確かなんでしょ? 覚えてないけど。本当の本当に共犯だったら、そんなこと言わないんじゃないの? あたしは、ただの噂だと思うけどなあ」
「……いや、だからさ。確かにあのお姉ちゃんは親を庇っちゃいなかった。でもさ、実の娘なんだろ? 母親と口裏合わせしてたとしても、おかしくないとは思うがなあ。窓を開けて、義兄弟二人を唆したって言ってたらしいけどさ。そのくらいなら犯罪にはならんって、分かってたからわざと言ったんじゃねえの?」
「まあな。確かに、怪しくはあるよなあ。そういえばこの前、弟の……なんて名前だっけ? を養子に出す話があったんだが、あのお嬢さんに阻止されたってのは聞いたことがあるぜ」
「え、本当か?」
「多分マジ。俺が聞いた奴は、その養子先になるはずだった家で働いてる奴から聞いたらしいからさ。そうしたら弟が相続できなくなるかもしれないし、家に居られなくなるってんで、やめにしたってことらしいが」
「あー、なるほどなあ……まあ、俺たちには関係ない話だけどな。でもそれなら、とんでもねえ女掴まされたもんだな。英雄の候爵様も」
「確かに。そういえば、このベルティス風の煮込みって美味そうだな。一回頼んでみるか」
「そうは仰いますが……。実際にずっと喪服をお召しになっていましたし、オルランド様をお探しになっていたでしょう? 噂通りの方なのでしたら、周りの方々が黙っているはずがないのではございませんか?」
「確かに、そう見ることもできますわね。しかし、それも批判を受けないためだったのでは、とも考えられますわ。新聞にも、そのようなことが書いてありましたし。悲しむふりくらい、どのような方にでも簡単なことでしょう?」
「演技を十年間続けるというのは、少し難しいような気が……。慣れなのですかね? まあ、わたくしは実際にお会いしたことはないので何とも言えませんが……。ですが、どうして侯爵閣下がお戻りになったのに、居座っているのかとは言われておりますわね。本当にあの方のことをお思いになるならば、お帰りになった際に出て行かれるべきだったのに、とか。もしかすると、本当に高潔な方とは言えないのやもしれませんわねえ」
「ええ、親が親なら……とは、よく言われるものですし。この国とご家族のために尽力されて、勲章まで授与されていらっしゃるのに、これですとはねえ……。候爵様も、お気の毒ですこと」
「……そうそう、その通り。さすがに、噂の全部が嘘なはずがないだろう。あの家の一番大事なティアラを持ち出したのも、ディーナ・メレンヴィルだったらしいじゃないか」
「いや、僕はフライナ家の方だって聞いたけど? 執事の人がこっそりやったんじゃなかったっけ?」
「そうなんですか? 俺も、メレンヴィルの二人がやったって聞きました。母親の指示だったんじゃないかって」
「へえ? でもベルティス出身の子が、娘の方は結構いい人で、ずっと気に病んでたって言ってたような……。最近は面に出てきてないから、よくは知らないけど」
「騙されてるんじゃないのか? 全員。なんかあの家、今もかなり揉めてるくさいしさ。例の弟の相続権とか、おかしくなったとか何とかで……」
「……ああ、元ベルティス候爵夫人の娘の話? 聞いたことあるわ。それって、何かあれでしょ? 候爵様を裏切っておいてずっと自分は関係ありませんって顔してたけど、それで母親も見捨てることになったせいで、罪悪感に耐え切れなくなってとうとう……ってのだったっけ?」
「俺は、母親の方が不利になってきたから裏切ったって聞いた。どっちが合ってるのかは知らないけどな。前にさ、結構あの姉弟が見直されてたことあったじゃん? それのせいで騙されてたけど、段々本性がバレてきたから……とか? あとは仮病とか」
「んー、あったわね、そんなことも。でも、どうだったとしても迷惑な話よね。何で候爵様が面倒見なきゃいけないのよ? 関わってた人たち全員叩き出せばいいのに」
「そうもいかないんじゃねえの? 候爵閣下がさあ……継母を、やっちまったってのは皆知ってることだろ? 言わないだけで。だからその娘に外で色々喋られると、さすがにやべえ……ってことじゃね?」
「だけど、それって候爵様のせい? あの方は、ご家族を殺されたのよ? 特にお姉さんとお兄さんたちなんて、あんなに若かったのに。普通、子供にそんなことしないじゃない。怒って当然よ。私だってそうするわ」
「確かに、俺もできることならそうしたくなるだろうな。すごいお人だよ。実に孝行息子だ。まあだけど、そのくらいは仕方がないんでないの。後々問題になるよりましだろ」
「でも、私は許せない。あんな目に遭わされた人が、どうしてまた苦労させられなきゃならないの? しかも、またあの気持ち悪い親子のせいで。ひどすぎるわ。多分、私と同じことを思っている人はいっぱいいるはずよ」
そしてこの後、オルランドとクライドの元には、家からの使いが急いでやってきていた。
彼は息を弾ませ、言いにくそうにあのう、そのうと言い淀んでから、目を泳がせつつ口を開いた。
「先程ガラテア様のところで働いてるという者が、一人やって来たのですが……。 その、ディーナお嬢様とイフィクレス坊ちゃんが……」




