19 強き栄光
オルランドに、彼の仇敵たる実母の居場所を教えたのは自分である。
イフィクレスがそう言い出してからしばらくの間、車内は時が止まったかのようだった。
ディーナは返事をするべきかどうかすら分からず、イフィクレスとしてもずっと抱えていた話を打ち明けただけでも、かなりの精神力を使わなくてはならなかった。
だが、このことは絶対に伝えなくてはならない。その思いで、彼はもう一度姉の袖を握った。
「母上なんか、大嫌いだ……死んでよかったんだ、母上なんか……」
だがその眉間と声には、明らかな苦悩と悲痛が浮かび上がっている。
「あのさ。前、皆まだ生きてた時の話だけどさ。コルデリア姉上が、子供部屋まで来て……。父上が嫌な男の人を紹介してきて腹が立つから、決闘してってテオドール兄上にけしかけてたことあったよね。多分、冗談だったんだと思うけどさ。テオドール兄上がそんなことロドルフ兄上にやらせろって言い返したら、姉上は私の弟たちは全員何の役にも立たない子だって言って、ベリンダじゃない乳母……誰だったっけ? に、そんなこと言うもんじゃないって注意されてた。僕はベリンダ……いや、多分オルランド兄上に抱っこされてて、何か皆喋ってるなあって思ってた。それで姉上は困っててオルランド兄上に止めるように頼んでたけど、兄上は放っとけよって言ってたかな」
そんなことを少しの淀みもなく自然に言うものだから、ディーナはただ目を見張って、何も口を挟めなかった。
確かに十年以上前、そういうことはあった。
だがその時はまだ乳児だったイフィクレスが、何故そのような、覚えているはずもない昔話を口にできるのか。
「な、何で……何で、そんなことを知ってるの?」
イフィクレスは、小さく唇の端を吊り上げた。
「さあ、何でだろ? それは僕にも分かんないけどさ。何か笑えないか? よりにもよってあの母上の子供がこんなんなんてさ。もう神様が母上を懲らしめるために、わざと僕をこうしたとしか思えないよ」
ディーナはそれには同意できなかったが、他に言うべきことも思いつかなかった。
「他に……覚えていることはある?」
「色々あるよ。ベリンダが僕が寝ている横にうっかり何か落として、びっくりして泣いたとか。……夜にディーナ姉上が僕を抱っこして走って……何してるんだろうって、思ったりとか。あとは、母上が……これできっともう大丈夫。私の頼んだ人たちはよくやってくれたわ。あなたの将来は安泰よって……言ってた……」
父上たちは急に来なくなるし、姉上はなんかいつも泣いて怒ってたし、ここまで来たら誰でも気付くだろ、と乱暴に目を拭いながらイフィクレスは座席の上で横になり、体を丸めた。
「僕は、最初は分からなかった……何があったのか。でもちょっと考えられるようになったら、全部分かった。……でも前は、皆はそんな小さい頃のことは覚えてないって知らなかったから、結構ぺらぺら喋っててさ。そしたらベリンダに、そういうことは人に言っちゃいけないって言われたんだ。三歳までのことしか、覚えてないふりをしなくちゃいけないって……。だからそうしてたんだ。ずっと……。姉上に言うのが嫌だったからじゃないよ」
「分かってるわよ……そんなこと」
そう言っても、彼の表情は少しも晴れない。
「何だろうな……。こんなんだから僕も、姉上とか、皆と一緒で……。ずーっとオルランド兄上を待ってた。母上に怒られた時も、知らないおっさんに悪口言われた時とかもさ……。こんなのは、兄上さえ帰ってきたら、全部終わるって思ってた……絶対に助けてくれて、嫌なことは無くなるって……。そんなわけないって、分かるはずだったのにな……よく考えてみれば……」
ディーナは弟を膝の上に乗せて、無言で抱え込んだ。前にそうした時よりも、ずっと重くて大きい。
彼女は不意打ちで、だがようやく答え合わせをされたような気分だった。
常人にならばあるわけがない記憶があったからこそ、この子は周囲の反応の意味にも、生みの親の罪にも気付いていた。
そのために過ぎ去ってしまった幸福、簡単に得られるはずだった未来を求めて、母親を密告していたのだ。
けれども一体誰が、この幼い子供を責められようか。
ディーナにはその気持ちが、胸が苦しくなるほど正確に理解できていた。
最も近しい者への愛憎に苦しめられていたイフィクレスが、記憶の中の異母兄を元に、理想像を作り上げていたとしても無理はない。
オルランドや死んだ義家族たちをより詳しく知っていた彼女にすら、その傾向はあったのだから。
ただ、現実は相変わらず現実だった。
英雄ではあったとしても救世主ではない、一人の人間であるオルランドには、仇の血統である彼らを無条件に受け入れることはできなかった。
理不尽に家族を奪われた被害者に、そこまで期待する方が間違っていると言われれば、全くもってその通りだ。
今のイフィクレスとしても、それは分かってはいるに違いない。
しかしだからと言って失望も悔恨も覚えるなというのは、到底口に出せない話であった。
ディーナもまた同じように、彼の異母兄からの許しと昔のような関係を、何よりも願っていたので。
「でもさ、兄上は約束を守ってくれてるよ。ここにいるって手紙を書いた時に……ちゃんとお願いしたんだ。教えたんだから、姉上とベリンダと、僕のことは助けてって……。だからほら、僕は死なないよ……」
ディーナはただ黙って、イフィクレスの後ろ襟や髪の毛を整えていた。
そう言われてみると確かに、この弟は生かされ続けるだろう。
もしも何かの拍子に、オルランドが制御できないほど激しい憎悪を思い出したらというのが一番の懸念だったのだが、まさかイフィクレス自身が行動で忠誠を示していたとは。
ここまで来れば、もうあまり彼の身の安全には気を揉まなくてもいいのかもしれない。
けれどもディーナとしては、弟と同じくらい楽観的になる気にはなれなかった。
これからイフィクレスの異母兄ともっと様々なことを話し合う必要があるが、きっと一筋縄では行かないはずだ。
よりよい未来にしたくはあるのだが、何が最善なのかはまだ分からない。
どうすれば……。
そんなことを思っていると、急に座席と足の下が沈み込むような感覚があって、車体が大きく揺れた。
ディーナとイフィクレスの二人とも思わず窓枠に掴まり外を見て、ベリンダも目を覚ましている。
「どうしたの?」
と御者に声を掛けると、この辺りには雨が降っていたらしく、道がぬかるんでいて車輪が嵌ってしまったという答えが返ってきた。
「……あら、困ったことね。本当に嵌ってるわ。しかもこれ、少し壊れてない?」
「もうすぐ街ですのにね。こんなに広い道がまだ舗装されていないなんて」
「頑張れば押し出せるかしら」
などと外に出て、言い合う。
色々と試した末、ガラテアのところから着いてきた従者が助けを呼びに行き、御者が馬車の応急修理に使えそうな木を探してきて、姉弟とベリンダ、そしてもう一人の従者が馬車を見ていることになった。
「確か、お名前はランディスさんで合っていたわよね?」
背が高く痩せている、少年と青年の中間くらいの男性に声を掛けると、小さく礼をした。
「はい、よろしくお願いします」
「よろしく。ガラテアのところにいて長いの?」
「そうでもありませんが、慣れてきたところです」
「それは何よりね。あ、そうだわ、ベリンダ。その子と手を繋いであげてくれないかしら。迷子になると困るでしょう」
「え……いいよ、ならないよ」
ディーナは嫌がるイフィクレスを鞄の上に座らせながら、その帽子と、小さな上着の肩を眺めた。
続いて何となく、弟がどうにか姉の命を繋ぎ止めようと、精一杯の知恵を絞って行動していたことに思いを馳せる。
ガラテアの指摘はもう既にその内面に入り込んでいたものの、彼女はまだ迷いを全て捨て切れてはいなかった。
すなわちテオドールを取るか、イフィクレスやオルランドたちを取るか。
どちらかを選べばどちらかを捨てることは避けられず、両立は叶わない。
そんなことはない、自分の考えに固執しすぎだという意見は何度も聞いたが、それこそくだらないとディーナは思っている。
あのお方が最期に願われるとしたら、弟君をはじめとしたご家族方の無事。
そして敵の血でもって、敗者の汚名を雪ぐ結末。
遺言を残されていたなどとは知らなかったため、また生前のお優しさに引っ張られていたために長らく目が曇っていたが、それ以外は有り得ない。
だが……。
ランディスやベリンダと会話していたイフィクレスは姉を見上げて、微かに笑みを浮かべた。
ディーナも、少し笑い返す。
微妙な温かさを持った日差しの中で、彼女は道の先に目をやった。
やはり本当に申し訳ないが、テオドール様にはもうしばらくお待ちいただかなくては。
少なくとも、この不運な弟の行く末を決められるようになるまでは。
四人は他愛もない話を続けつつ、人通りのない真っ直ぐな道の先から、人が戻ってくるのを待っていた。
青い空の下、都の縁まであともう少しというところである。
閑話
イフィクレスにはディーナに語った他にも多くの記憶があるのですが、当然知らなかったこともあります。
ディーナがオルランドを探しているのは責任感と兄弟愛によるものだと思っていたので、実は恋愛関係でもあったと知った時には、かなりびっくりしたようです。




