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生きて帰った英雄と、仇の娘の後悔と日々  作者: 羽園零雅


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18 凍てつく涙の井戸

 






 復路についたその翌日は、肌で分かるほど急激に気温が上がっていた。

 寒い土地から暖かい土地に近付いていることもあるのかもしれないが、小さな新芽や淡い色の草むらが目につくようになっている。

 ガラテアとの話し合いは大変意義あるものだったが、身内だけになった途端、何だか気が抜けたような感じがする。一度に疲れが出た時の目には、薄い緑色は心地よかった。



 ふとディーナが車窓から隣に座る弟の方に目を移すと、俯いて熱心に本を読んでいた。

 表紙を見るに、とある昔の発明家の伝記であるらしい。

 そういえば昔、かのお方と共に歴史小説を読んだことがあったと思い出していると、イフィクレスは視線に気付いて顔を向けてきた。



「姉上、どうしたの?」

 そこで何となく、目を逸らす。その姿はまるでロドルフの生まれ変わりかのようで、今は真っ直ぐに見られなかった。

 対面にいるベリンダは、鞄を抱えて静かに寝息を立てている。



「イフィクレス……ハルビアは、楽しかったかしら?」

「……うん。久しぶりにあそこの子たちと一緒に遊べたし」

「そうね、よかったわね。……それで、さっき聞こうと思ったことだけど。首都の方のお家に着いたら、夜にはお出掛けしたい? それとも、今日は休みたいの?」

 続いて聞くと、彼の方も指を紙と紙の間に挟んで本を閉じた。



「……僕は、休んだ方がいいと思う。多分皆、疲れてるしさ」

「あなたが行きたければ、遠慮しなくていいわ。あちらのお家付きの人たちに、お願いすれば大丈夫よ」



「ううん、いいよ……。僕は今度来る、音楽隊とか花火の方が見たいから。姉上は?」

「私は、特にはね。それじゃあ、お外は明日にしましょうか」

 そうだね、と控えめな返事がきている。

 ディーナはここまでの会話の間、どう話を切り出そうかと迷っていたのだが、ついにほとんど直截に言うことに決めた。



「……ねえ、私、あなたには感謝しているのよ。誘ってくれてありがとう。あと、心配かけてごめんね……」

 彼は初めは少し驚いているようだった。それから気まずそうに、別に……とだけ言ってまた俯いている。



「でもね、もう一つ謝っておくことがあるの。ごめんね。私、イフィの期待通りにはできなかったみたい」

「……え? ごめん。どういう意味だよ?」



「私がガラテアに会いに行ったのはね、あなたの話をするためだったってこと。あなたがどうしてお出掛けしたかったかなんて、全部分かっていたのよ。でも、ちょうどいいと思ったから」

 イフィクレスは怪訝そうに、え……とだけ言って彫像のようになっていた。



 この少年はとても賢い子ではあるのだが、まだ幼い。

 姉の考えを変えるようガラテアに説得してもらうという目的が見抜かれていた上で、全く違う問題のために利用されていたとは、思いもしていなかったのだろう。

 彼の心遣いを無下にしたことを少し申し訳なく思いつつも、真っ直ぐに見据えた。



「イフィクレス……。あなた、ガラテアの家の子に、なりたい?」

 イフィクレスは口を開けて、それから本の背をきつく握りしめていた。



「え、それって、それって……。兄上が、そう言ったの?」

「いいえ、あなたのお兄様にはまだ何も申し上げていないわ。でも、その前にあなたの考えを聞いておきたかったの。どう思う? イフィクレス……」



 彼女としてもすぐに返答が聞けるとは思っていなかったが、イフィクレスは肩を緊張させて、長らく口を開こうとはしなかった。

 車輪が小石でも踏んだのか、突然の大きな揺れにイフィクレスは立ち上がり、そしてまた着席した。



「え、これって、正直に言ってもいいの……?」

 と聞きにくそうに訊ねられ、ディーナは頷いた。

「正直に言ってちょうだい。あなたがどうしたいかが聞きたいんだから」

 と答えたそれからも、イフィクレスは答えにくそうに指を擦り合わせていた。しかしついに、指に強く力を入れた。



「僕は、あの、僕は……なりたくない……です……」

 その答えに、ディーナは弟の子供らしい頬をそっと撫でた。



「……そう。どうして? ガラテアたちのこと、好きでしょう。このままお兄様方に気を使ってばかりいるよりも、あのお家にいたいとは思わないの? 前の引き取り先の方たちとは違うんだから。ちゃんとベリンダにも一緒に行くか、聞いてあげるわよ?」

 と言っても、イフィクレスは激しく首を振る。



「……思わ、思わないよ……。だって……ベリンダは来ても、ブランカは連れて行けないんだろ……?」

 一瞬ブランカとは誰だったかと首を傾げかけたが、すぐに白い犬のことだと思い出す。



「ブランカって……あの、お母さん犬のことよね? あの子一匹くらいなら、頼めば大丈夫かもしれないわよ?」

「じゃあ、ロロは? ルークとエリーとナナとアルゴスとカイは? あと、ギードとミーチャとキャラメルは?」

 ディーナは母犬の側の子犬たちや猫たちの姿を思い浮かべながら、そこまではちょっと……と呟いた。

 すると、ほら、やっぱりとイフィクレスも言う。



「今はまだ、ロロとかミーチャたちと一緒にいたいよ……」

「……そう。でも、本当にいいの?」



「いいよ……。だってさ、僕だってあっちの家のことは好きだよ……。ベルティスより好きかも。でもさ、皆、姉上とか兄上とは違うじゃないか……。何かもう、だめな気がする……何だかよく分からないけど……」



 今は外部の人間だからハルビアに住む一家とは良好な関係を築けているのであって、身内として接するようになっても大丈夫なのかは分からない。

 そうなった時に、また輪の中に入れなくなり、彼らに幻滅したらと思うと恐ろしい。



 それにディーナやオルランドは曲がりなりにも血縁であり、嫌な思い出の宝庫であっても、ベルティスにはそれなりに慣れ親しんできた。

 その地を捨てて、生活の場を変えたとしてもまた人に気を使って、毎日不安にならなければならないことに変わりはない。



 大好きな人たちや場所が大好きではなくなり、新たな気苦労をしなければならないことを考えたら、今まで通りの方がずっといい。

 例え兄姉たちに負担をかけ続けることになったとしても。



 大体今ディーナと別れたりしたら、そのまま一生会えなくなりそうで、絶対に嫌だ。



 イフィクレスとしては概ねこのような意味合いのことを感じていたのだが、その半分もまとめられてはいなかった。

 得体の知れない恐怖と情けなさで涙が込み上げてきているものの、泣きたくないと頑張って堪える。

 まさか本当に捨てられはしないだろうかと姉の様子を伺っても、彼女はいつも通り悲しそうに疲れた無表情に見えていた。



「そうなの、分かったわ。でも、それだったら学校に行くことも考えておいてちょうだい」

「学校……いつかは行くことになると思ってたけど……」

「そう、学校。あなたには色々と大変でしょうけど、楽しいこともたくさんあるはずよ。困難に打ち勝ったら、強い男の子になれるの」

「……姉上は、僕に出て行って欲しいの?」



 違う、とすぐに否定しようとして、声を詰まらせた。

 どれほど耳触りよく言い繕っても、畢竟そういう意味も含んでいることは、決して否定できない。眉根を寄せて考えた末に、躊躇しながらも口を開いた。



「……そうねえ、出て行かせたいんじゃないのよ。私が一番心配しているのはね、イフィクレス……あなたたちが今以上に仲が悪くなること。そうなったら、あなたみたいな小さくて力も弱い子が、お兄様に勝てるはずがないじゃないの。あなたにもお兄様にも不幸だわ」



「兄上は、僕にはそんなことしないよ……」

「そうかもね。でも、もしかしたらってことがあるでしょう」

「いや、大丈夫だって……」

「どうしてあなたにそんなことが分かるのよ?」



 イフィクレスの口調には妙に確信に満ちたところがあったので、ディーナは少し奇妙に思って尋ねてみた。彼は緊張気味に、正面にいるベリンダを見つめている。相変わらず、ふんわりと夢を見ている様子であった。



「……兄上から、聞いてないの?」

「何を?」

「約束のこと」

「……約束って?」

 イフィクレスは声も動きもぎこちなく、ゆっくりと下を向いた。



「……そっか。兄上かベリンダが、姉上にも教えてると思ってた」

 挟んで栞にしていた彼の指を抜き、本を座席の上に立て掛けた。そして、姉の肘に両手でしがみついた。



「……あのさ。実はさ僕、この前も、旅行に行ってたんだ……。戦争終わったばっかりの時。で、兄上は……サラヴィア号のエリック・アドルノがエウシェリア人だってのは、別に隠してなかったよね……。だから、あんなにすごいことしたら、目立つだろ……。誰か気付いて、母上に教えた人がいた……」

 ディーナは車輪の音も忘れて、異父弟の後頭部を見つめていた。



「母上はそういう時のことも、ちゃんと考えてたみたいで……真夜中に、僕を起こして二人で遠くに出掛けた。だから、オルランド兄上は見つけられなかったはずだったんだ……。本当は」



 イフィクレスは項垂れていた頭を上げて異父姉の母の面影を持つ顔を目にし、そしてそのまま、記憶に意識をやった。

 どこに有るのかも知らなかったような寂しい村や、暗くて古い小屋の映像が次々に浮かび上がってくる。



「……姉上。隠れ家の場所を兄上に教えたのは、僕だよ。僕が、母上を売ったんだ」







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