17 裁きよりも上に星は有り
ガラテアに貰った刺繍の袋を荷物の隙間にしまい込んでいると、ディーナの泊まっている部屋に贈り主がやってきた。
話し合いから何日か経って、ついに次の日発つことになったという時である。
「荷造りは済んだの? 手伝いがいなくて大丈夫かしら?」
「大丈夫よ。弟の方は、ほとんど何もしていなかったらしいけどね。でも、もう終わっているわ」
「あら。……それでなんですけど、首都の方には寄ることにしたの? 行くなら、私のところの男の子たちを付けるわね」
ディーナは少し、返事をするのに時間をかけた。本当は人数が増えるのはあまり気が進まなかったのだが、何となく言い出しにくかった。
これがもし自分だけなら断れていたのだが、イフィクレスやベリンダのことを思えば、確かにその方がいいのだろう。
「……ありがとう。何から何まで悪いけど……お願いするわ。あの子に聞いたら、行きたいって言っていたから。ちょうどあの方もおいでになっているそうですし」
ベルティスに帰る前に、首都に少し寄るなどという案は、ガラテアに言われなければ出てこなかったとディーナは思った。
折よくオルランドも向こうに行っているのだから、彼と落ち合って今後のことを話し合ったらどうかと言われていたのだ。
ちょうど記念日で様々な催し物も出ていることだし、観光がてらイフィクレスの意思も尋ねてみればいいだろうと。
本当に、全てにおいてガラテアに助けられている。
あの冠も安全のため、彼女の方で届けてくれるらしい。
改めて感謝の念が込み上げてきて、横に座っているガラテアの手を握った。
「ガラテア。これまで私たちがどれほどあなたに助けられたのか、ちゃんと伝えられているのかしら? ありがとう。本当に、いつも私たちを救ってくれるのね……。あなたがこんなに私たちのことを見捨てないでいてくれるなんて、思わなかったわ……ありがとう……」
ディーナが涙ぐみながら目を閉じると、ガラテアは困ったような顔で、握られていた手を抜き取った。しかし、すぐに反対側の手を添える。
「そんな風に言わないでよ……。私はね、あなたが思ってるような立派な人じゃないの。ただ、私のどうでもいい道徳心を満たしたかっただけ……」
彼女は腰についている飾りを少しつまんで、壁を見透かすようにして昔のことを思い返し始めた。
「見捨てられないとは思わなかった、って言ったわね。あのね、私はそれほど賢いわけじゃないから……噂に惑わされることだってあったわよ。特に、あなたたちのお母様……いいえ、その、あの方は……。誰の目から見ても完璧な人だったから……余計に信じられなくなったわ。あなたのことも。そんなはずがないのにね……」
「そんなこと、ないわよ……」
ディーナは自己の最大の痛恨事を、輪郭をぼやかして思い返しながら答えた。
それなりの年齢の娘が母親に従うような行動をしておきながら、何も知らずにしてしまったことだとは。
信じられなくとも無理はないし、仮に信じたとしてもそれだけで縁を切らない理由にはならない。オルランドや、他の知人たちもそうだったように。
婚約者を奪われているのにもかかわらず、優しく接してくれている彼女の方が稀なのだ。
「ねえ、覚えていて? あの事件から少し経って、あなたがあの方と一緒に夏の離宮まで来ていた時のこと。町の路地で、誰か五人くらいに囲まれていたでしょう」
「そうだったかしら?」
「そうだったわよ。忘れたの? ……でも、私は助けなかったの……当然の報いだと思っていたから。それでそのまま見ていたら、あなたは皆様の仰る通り、こうなってしまったからには私にも責任はある。だからせめてオルランドだけでも見つけるために、どうかお力をお貸しください……って。言ってたのよ……」
ディーナ本人としては、その頃はもうできれば忘れてしまいたい暗黒期の底だったため、大して記憶してはいなかった。
しかしそこまで言われると、はっきりと思い出すことができた。
同年代の少年少女たちと、大人もいたのだったか。
「……そういえば、確かにそんなこともあったわね。でも、そんなに悪い方々じゃなかったわよ。助けてくださるようお願いしたら、お金を渡してくださったもの」
「あれは、渡したとは言わないでしょう。投げつけたって言うのよ。しかも、あんな小銭……」
「ガラテア、あの人たちなんて全然お優しい方よ。だって、まあ……お金はお金だもの。悪口しか言わない人よりも、よっぽど助かったわ」
彼女としてもその人々が善意から施しをしたとは全く思っていないが、費用の足しになったのは確かである。
もっと恨めしい人間が大勢いる中で、わざわざ彼らを選んで憎んでやろうとはあまり思えなかった。
しかしガラテアは、悔しく足の指に力を込めた。
「そうよ。あんなのですら、あなたの助けになるくらいだったんでしょ? だから、思ったの。本当にこのままでいいのかってね……。ただ巻き添えを食っただけと分かっている子なのに憎んで糾弾して、それがロドルフたちのためになるのって。ずっと、仲良くしていたのに……。私には、そうは思えなかった。その時に、私はあなたたちを嫌えなくなったのよ……」
と言ってから目を閉じ、頬に手を当てた。
「でも、やっぱりイフィには関わりにくかったわ……」
「それは、そうでしょうね。母がいたもの……」
「ええ、あの方のことも一因よ。でも、それだけじゃなくて……。私、主人に聞いてみたの。私がイフィクレスを助けても、本当に大丈夫だと思うかって。そうしたら、やめておいた方がいいって言ってたわ。関わり合いにならない方が、お互いのためだって。でもね、結局駄目だったの。あの人もロドルフのお友達だったから、一度あのお顔を見てしまうとね……。だからね、分かったでしょう? 私は、人倫とか慈愛とかからは程遠い性分なのよ……」
ガラテアは本気で気に病んでいる様子だったが、ディーナは内心だから何だという気分だった。
過程がどうであれ、苦境の中彼女が味方になってくれたことに変わりはない。
そこで、もう一度友人の手を捕まえた。
「……ロドルフ様とニコラス様は、見る目のある方たちだわ。誰よりもね」
ガラテアは、眉を顰めたままに笑みを浮かべた。
それから二人は、何とはなしに昔話を始めた。これまではずっと、意図的に避けてきた話題だった。
ロドルフは病弱な上にあの歳になってもまだ偏食だったとか、それでいつもコルデリアに口に野菜をねじ込まれていたとか。
彼女は嵐のように気まぐれだったが面倒見がよく、弟の体の弱さを小馬鹿にしつつも、体調が悪い時は必ず看病していた。
健康だったテオドールの扱いはやや雑だったが、そんな二人のやり取りは側から見ていても面白かった。
しかしロドルフはお姉様のわがままからよく弟を庇おうとしていて、あの時はそんなところが好きだったとガラテアが言うと、でもコルデリア様は私たちとオルランド様には甘かったとディーナも返す。
長らく末っ子だったオルランドは誰からもちやほやされて、甘やかされていたが少しも嫌なところがなかった。
あんなに明るい子だったのに……イフィクレスのことも、あんなにかわいがっていたのにね……と、二人とも涙を堪えた。
しかしそれからも、テオドールは前の候爵様と一番仲が良かった、でもベリンダにはよく叱られていた、皆でロドルフの外遊びに付き合うのは楽しかったと彼女たちの声は途切れることがなかった。
溜まっていた膨大な量の思い出話を全て語り尽くそうとするかのように、ただひたすらに、もう二度と戻れない懐かしさと愁いに身を浸していた。




