16 憐れみの光
「でもね、条件があるわ。もし、私たちであの子を引き取ることになったら。その時は、あなたも一緒に来るのよ」
ディーナが浮かべていた笑顔に、少しずつ困惑が滲んでいった。
「ええ……?」
彼女は頭の中の関連する物事について思いを巡らせながら、暗く斜め下を見た。
「……そう言ってもらえて嬉しいけど……でも、それは無理よ……」
「テオドールのため?」
「そうね。それと、私たち全員のためよ」
「どうして?」
ディーナはいよいよ本格的に首を傾げて、え……? と下から窺うような目線を送った。
「だから、まずあのお方のお望みがあって……あの、テオドール様のお話のことは……」
「知っているわ。それで?」
「それで、あなたたちにもご迷惑でしょうし、イフィクレスだってニコラス様とあなたに面倒を見ていただいたって経歴があった方が、将来有利でしょう……?」
ガラテアは壁の絵の方に目をやり、首や鎖骨の辺りを撫でていた。
「そうね、あなたの考えは分かったわ。でもね、ディーナ。私に言わせてもらえるなら、そんなの全然皆のためにはならないわよ。少なくとも、イフィクレスのためには」
口に右手を当て、肘掛けを握りしめる。
「……そんな、はず……ないと思うのだけれど」
「どうしてよ?」
「だって、イフィはあの人の子供なのよ? それだったら私が関わらない方が、母に影響されていないって皆納得するじゃない。それを、どうしてあなたが……!」
「分かるわよ」
その声によって改めて見つめると、そこには永訣を体験した人だけが持つ、悲しさそのものがあった。
「私に分からないはずがないでしょう、ディーナ」
何故こんな当たり前のことを改めて口にしなければならないのか、と苛立ち始めていたディーナだったが、完全に勢いを削がれる。
申し訳なさそうに座り直し、裾を整えた。
「……そうね、そうだったわよね。ごめんなさい。でも、それならどうして……」
「だって、あの子にはまだ家族が必要でしょう」
「そうよね。でも、力のある大人の方がもっと必要なのよ。あなたとニコラス様と、ニコラス様のお父様みたいな」
唯一生き残った兄との仲が良好であれば、何も問題はなかった。
だがあの母によって迫害を受けたオルランドに、そこまで求めるのも酷というものだろう。
現在彼らは目を合わせもしないのに、自分という存在がいなくなった後、ベルティスの館の中と外ではどうなってしまうのか。
母という、権勢を誇った欲しくもない後ろ盾があってもなお、あれほどの辛酸を舐めさせられたのに、無力な子供一人では生きていけないことくらい分かりきっている。
ガラテアは努めて言葉を選ぼうとしながら、目を左右させて手を握った。そして意を決して、小さく口を開けた。
「……あのね、あの子は本当にかわいそうな子よ。それは私だってそう思ってるわ。でもね、あの子が生まれなければ、私たちは誰も不幸になんてならなかった。そうでしょう?」
ディーナは、な……とだけ言って、完全に動きを止めた。
その内容自体はすぐに理解していたのだが、それが目の前の人の口から出てきたということが信じられなかった。
決して支離滅裂ではない、だがまさか、そんなことを明言されるとは。
「ガラテア……!」
その言った本人の方は深い青緑色の目を見られないままに、やや早口で続ける。
「分かっているわよ。さっき言ったでしょう、かわいそうに思ってるって。あの子は何にも悪くないわ。全部、あの方の責任よ」
と言いつつもまさか子供たちが帰ってきてはいないかと不安になったガラテアは、一瞬壁と扉の外に耳を澄ませる。
大きな窓を冷たく湿った強風が揺らしただけで、誰の声も聞こえなかった。
「……でもね、イフィクレスさえいなければロドルフたちが死ぬこともなくて、オルランドがお家に帰れなくなることもなくて、あなたは共犯者の娘になることもなかった。一度もそう思ったことがないなんて、言わないわよね?」
後ろめたそうな、だが揺るぎない台詞に、反発と自制が混じり合う。
「それはっ……そうだけど……!」
厳密に言うと、ディーナはイフィクレスが生まれてこなければと思ったことはなかった。
かの少年は仮にも血を分けた弟で、死んだロドルフに生き写しの、同じ辛苦を分かち合えるもう一人の人間だった。
そのため、そのようなことは考えるのもいけないことだと自然に制限をかけていた。
少しでも厭い始めれば、もう二度と後戻りはできないと分かっていたので。
「ね? あの子はすごく頭がいいから、大人の考えてることなんて全部分かってるわよ。だから、オルランドにもどうにか取り入ってみせたじゃない。でもそれってつまり、自分のせいで家族は不幸になったって理解してるってことでしょう? そんな子に、もう一人のお姉様まで殺させるつもりなの?」
ディーナは心臓を痛くして、下に目を落としていた。しかし、その目は何も見てはいなかった。
彼女は今、はっきりと動揺している。
友人の意見は、まさにディーナの主張の痛い所を突いていた。
それでいて、全て本心と配慮から出てきたものだと分かってしまうので、不用意なことも言えない。
今まで最善だと信じて疑わなかった解決策の思わぬ、だが明確な欠点を指摘され、睨まれていないのに睨まれたような気分になっていた。
「……私が、義務を果たしたいのは、テオドール様の御為と、全員のためであって……。あの子のせいなんかじゃないわ……。私の判断よ……」
何とか弱々しくそう発言したが、反論の余地があることは分かっていた。
「同じことでしょう。あなたがテオドールに殉じようとしているのは、テオが復讐を望んでいるかもしれないから。じゃあそうなったのは、誰のせい? ……って、辿り着いちゃうじゃないの。私たちがどれだけイフィクレスのせいじゃないって言っても、あの子がそれで納得するとは思えないのだけれど」
ディーナは何かは口に出そうとして、しかし思いがまとまらず、やめた。
暖炉では温めきれない寒さが依然としてあるのに、額に汗が滲んだような感覚がある。
「でも……私は、責任を、果たさなくちゃいけないのに……。テオドール様は、絶対に、敵をお許しにはならない方で……。どうしたらいいの……」
ガラテアはディーナの方を見られなくなり、下を向いて手を動かし編み目を一つ作った。
彼女に見られたくもなかった。
大人になれなかった、かわいそうなテオドール。彼は若い狼のように誇り高く、思いやりがあり、熱しやすい性格の持ち主だった。
正直なところ、彼の最後の言葉はどう解釈したとしても全てもっともらしく聞こえるが、それでも被害を受けた怒りが全くなかったというのは、らしくないように聞こえる。
しかし、それをあえてディーナに伝える気はなかった。
「……あの子たちのことは、生きて弔うようにしてちょうだい、ディーナ。苦しいでしょうけど、死んだ人たちよりもあなたの方を選んで」
ディーナはややあってから、へらりとした笑みを浮かべた。
「……あなたにそんなことを言われるなんてね」
「だってそうでも言わなくちゃ、聞き入れてくれないじゃないの。あなたまでいなくなったら、イフィクレスは絶対に今より不幸になるのに。オルランドも私たちも、ベリンダや他の皆も」
薪が爆ぜる音が、室内に響いている。
ガラテアは何となく編み物の続きをやり、ディーナは膝の上で手を握りしめていた。
「……あなたの意見が聞けて、よかったわ……ありがとう……。でも、ガラテア。もし、私までこの家に行ったとしたら……。またイフィクレスまで、悪く思われないかしら……」
ガラテアは、それには答えなかった。
茶菓子を一つ食べ、静かに人を呼ぶと、用意していたものを持ってきてと頼んでいた。
そしてまたもう一つ食べて、紅茶を飲み干す。
その様子を眺めている友人の斜め後ろを見据えて、溜め息をついた。
「……私はね、あなたたち三人が離れて暮らすこと自体はいいと思うの。そうなったとしても、もう仕方のないことなのよ。あなたたちが悪いんじゃないわ。でも、私だったら死にはしないわね。誰に何と言われようと、図太く生き抜いてやるわ。全部を都合よく考えてでもね……」
ちょうどその時一人の女性がやってきて、半月型の箱をガラテアに恭しく渡していた。
その様子が目に入った瞬間、ディーナは思わず身を乗り出した。
「それ……どうして……?」
ガラテアの手の中にある黒い箱は、確かに見覚えのあるものだった。
何年も前に、自分が持ち出したはずのもの。
だが、それを何故ガラテアが持っているのか。この家にあるはずはないのに。
彼女としては予想通りの反応だったのか、冷静なままに箱の留め金を外している。
「返しておいて欲しいって言われたのよ。相応しい場所で、相応しい人にってね」
ディーナは深く溜め息をついて、その開けられた蓋の中をしばし眺めた。
最後に見た時と同じく、繊細な白金の枝の中に、大粒の青い石がいくつも飾られている。
フライナ家の女主人に代々伝えられる、由緒ある宝冠だった。
この麗しい品が何食わぬ顔をして裏切り者に使用されるのは忍びなく、ディーナは独断で持ち出していた。
そして職を辞していたポロニウスに頼み込んで、フライナ一族のうちの一人に託したのだった。当時はそのくらいの抵抗しか、できなかった。
「今さら、あなたに合わせる顔はないからって仰っていたわ。そんなことはないでしょうにね……。ね? ディーナ。私たち以外にもあなたを認めていて、信じている人はいるのよ……」
強い風がまたも窓を打ち、重い雲の切れ目から薄雲越しの光が届いてきていた。
感慨が深すぎると、その中から口に出すべきことを選び取るのは難しくなる。
彼女本人としても半分忘れかけていたようなこれを今、この家で再び目にすることになるとは夢にも思わなかった。
本当ならば、ガラテアが戴くことになるはずだった冠。彼女の黒い髪には、さぞかし映えたことだろう。
ディーナもこの美しい装飾品には愛着を抱いていたものの、自分の持ち物にしたいと思ったことはなかった。
ただ親として慕い尊敬していた人が、豪奢な装いをしているのを見るのが好きだっただけだ。
現実的に考えて、自分がこの品に相応しくなることなど有り得るのだろうか?
少しずつ乱れ、弱々しくなっていく呼吸。非難と軽蔑の視線と泣き声。投げつけられてきた真っ当な批判と、それから中傷の数々。
それらを全て無視するとしても、フライナ家の生き残りと並び立てる日は、もう二度とやって来ない。そんな日を、望んでもいない。
有り得るとしたら、義姉妹という名目で居座り続けるくらいが限界か。
以前はその欺瞞と建前としての未来が支えだったが、今ではもうそれにも耐えられない。
真実を知ってしまった、今となっては。
けれども、ただこの時だけはどうか、天の国の方々にも目を瞑っていていただきたい。
金属の冷たさがあるそれを取り、頭の上に載せて、微笑んでみた。
「……どうかしら?」
ガラテアは眩しい光でも見るかのように優しく、柔らかく目を細めた。
「……よく似合ってるわ。完璧ね」




