15 鉄のような心
「……ガラテア。これは私たちの仲だから言うことなのだけど……。後で、全部が終わったら……イフィクレスを引き取ってもらいたいのよ。この家で」
ディーナは聞き取りやすくはあるが、歯切れの悪い声でそう言った。
以前彼女はイフィクレスが見舞いにやってきた時に、そういえば危うくこの子の将来を取り計らう前に死ぬところだった、かわいそうではない子供にしてあげたいなどと願っておきながらと思い出していた。
だがその問題には気が付いたものの、いくら考えようとしても頭が全く回らなかった。
何度も沸騰する絶望感や、目先の怒りにしか気が向かなくなっていた。
しかし当の弟からガラテアへの訪問の誘いを受けて、やっと彼女に託すのはどうかという案が浮かび上がってきたのだった。
そのガラテアの方はと言えば、口までは開けなかったが顔を少し引きつらせ、明るい茶色の目を忙しなく動かしている。
「それは……、それは……。どうしようかしら……」
「……そうよね、分かっているわよ。ごめんなさい、あなたに無理を言ってしまって……。でも、こんなことあなたにしか頼めないの。お願いよ。費用のことは、必ず私がどうにかするから」
そう訴えても、ガラテアはより困惑した思いを前面に出すのみだった。
「ディーナ……。それは違うわ。お金がかかるからじゃなくて……。どうして……?」
当然の疑問ではあるものの、ディーナはそんなことを説明したくはなかった。しかし、自分から言い出した以上無責任に終わらせるわけにはいかない。
「それは……あなたたちなら、絶対にイフィクレスを利用したりしないもの。……実は一度、あの子を養子に出す話があったのだけれど……向こうは色々と野心がお有りだったみたいでね。白紙に戻ったことがあるの」
「……そうなの? 初めて聞いたわ。それって誰に……?」
「ああごめんなさい、それは秘密にさせて。……でもだからって、今のままでいいとは言えないでしょう? こうするのが、一番あの子のためになるのよ。それから、あの方のためにも」
「……オルランドのため?」
ディーナはほとんど確信を持って頷いた。
「そうよ……。あの方がイフィについては全部割り切れていて、許せていればそれでよかったの。それなら誰も、文句は言わないわ。でもね、現にそうなってはいないじゃない。当たり前よね、だってあの子は私と同じで、あの人の血を引いているんですもの。あの二人を一緒にしておいたら、必ず不幸になるわ。絶対に」
「……オルランドが、あの子を殺すなんてことはないと思うわ」
「私だって、ないとは思うわよ。でも、分からないじゃない……! そうなってからじゃ、遅いのよ……!」
ディーナとしても、必ずイフィクレスの命が危うくなると考えていたわけではない。
そもそも世の中がオルランドに喝采したのは、彼がセレネイスと共に外敵を退けて数多くの人命を救ったからであり、著しい不正義を働いた悪を討ったからであった。
あの両手が尊属殺人罪の血に染まっていることなど誰もが知っているはずだが、わざわざそれを非難して得られるものなど大してない。
苦しみの時代を経て一族の無念を晴らし、さらにはその輝かしい功績と栄誉と貴き血をもって、慈悲深き司法にさえ見て見ぬふりをさせた。
何とも、胸のすく話ではないか。
しかし、生まれてきただけで何の罪もない子供まで手にかけたとなれば話は別だ。
そうなったらもう、お気の毒な貴公子ではいられない。
いかなサラヴィア号の英雄、ベルティスの主人であっても、残虐という誹りは免れないだろう。
あのオルランドがそれを分かっていないはずはない、しかしふとした瞬間に理性を振り切って、憎悪が燃え上がりでもしたらどうなるのか。
絶対にそうならないとは、誰にも言い切れることではない。
「それにね、あなただって覚えているでしょう? あのお家の皆様方がいなくなられた時、私たちがどう見られたか……!」
途端にディーナの目から現実は何もかも掻き消えて、絶望と人間の目線にひたすら怯えていた頃に包まれた。だが苦しく歯を食いしばり、親指を外側に引っ張ってその記憶をある程度押し込める。
「あの方はもう、ただのお貴族様じゃないわ。絶対につけ込まれる隙があっちゃいけないの! 名誉があるままを、求められるのよ! だからもしお気をお変えでもしたら、今度こそイフィクレスの居場所なんてどこにもなくなるわ。でもそうなった時には、私はあの子を助けてあげられないんだもの……。お願いよ……」
ガラテアはこの勢いに少々圧倒されており、長らく何も言おうとしなかった。
ディーナが突然裏返った声を上げたり、またすぐに落ち込んだりといった激しい感情の起伏を彼女に見せたのは、初めてだったのである。
それにいくら何でも、昔の婚約者を殺めた人間の子を育ててくれと依頼してくるなんて、普通の状態での発想であるとはとても思えない。
改めて心配になりつつ、暖炉の中で明るく揺らめく炎を見つめ、赤色の長い裾の下で足首を組み換えた。
「……聞いておきたいのだけれど。その話はもう、オルランドも知っているのかしら?」
ディーナは静かに首を振った。
「いいえ、それはまだなの。あの方に申し上げる前に、あなたの考えを聞いておこうと思って」
「ああ、それはそうよね。もしそうならこんな大事なことは、直接来るわよね……。じゃあ、この話を聞くのは私が最初ってことなの……?」
「ええ、あなただけよ。あなただからこんなことを言えるのよ。叔父様はご病気だから頼めないし、他のメレンヴィル家の人たちはあんな感じですし。だからって、フライナ家の方々は当てにする方がどうかしているでしょう?」
「イフィクレスは、賢いから……。どこかの学校に入れるっていうのは、考えた……? 考えたのよね?」
「ええ、それは当然……。でも、あの子が他の普通の子たちの間でやっていけると思う?」
ガラテアは制服に腕を通し、規則正しい生活に勤しむイフィクレスを想像してみた。
様々な男の子たちと、教師たち。活気溢れる教室と食堂、寮や運動場。
「……思わないわね。あんまり」
ディーナは熱っぽい様子で何度も頷いていた。
「ね? そうでしょう? 絶対に無理だわ。フライナ家の血が何の役に立つって言うのよ? あの子に関しては、むしろ邪魔にしかならないわよね。でも、あなたがいれば違う」
「……」
「私はもうどうしたって、義理の家族を殺した女という汚名からは逃れられないわ。だけどね、あの子はまだ間に合うじゃない。イフィクレスを助けてあげて……。お願いだから」
ガラテアはこの愁嘆にはどう返事をすればいいのか、と頑張って頭を絞っていた。
時計の針が、何度も何度も音を立てる。
その永遠に続くかのような間に耐えきれず、ディーナはやはり駄目だったか、と思わず袖口を触った。
「……困るわよね、こんなこと言われても。あなたにだってご家族がいるし、ロドルフ様のことだってあるのに……。でも何も、養子にしてもらいたいって言ってるんじゃないの。あなたたちが後ろ盾になってくれたって名分があるだけでも十分なのよ。それだけでも、蔑ろにする人はかなり減ると思うの。だからもしそうしてくれれば、私はこっちで学校に入れようとも、思っているから……」
言いながら自分でも無理があるような気がしてきて、語尾を濁した。
直接育てることにはならないにしても、その案とて友人に大変な苦労を背負い込ませることになるとは分かっていた。
だがガラテアを頼りにできないとなれば、打てる手はかなり限られてくる。
ディーナは指を組んで、判決を待った。
「難しいことだから……すぐには答えられないわ」
「ええ、そうよね」
「でも、主人とも話してみるわね。どうなるかは分からないけど、少なくとも何もかも反対されるってことはないと思うわ」
ディーナはさっと目を上げると、一筋の光明が差し込んできたような気分で、笑みを浮かべた。
「……ありがとう……!」
仮に引き受けられたとしても様々な障害があることも、単なる気休めで終わる可能性が高いことも分かっていた。
だがこんな自分たちのための頼み事を、真剣に取り合ってくれただけでも、多少は救われたような気分になる。
そのようなディーナの心境をガラテアは何となく感じ取りつつも、難しい顔をして、静かに付け加えた。
「でもね、条件があるわ。もし、私たちであの子を引き取ることになったら。その時は、あなたも一緒に来るのよ」
ディーナが浮かべていた笑顔に、少しずつ困惑が滲んでいった。
「ええ……?」




