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思し召し  作者: もい
17/19

8−2 浩

フラリと紀久の体が傾いた。咄嗟に腕を伸ばして支えようとするが、支えられるだけの力が残っておらず、一緒に地面に倒れ込んだ。


紀久を抱えた右の肩を強かに地面に打ち付け、痛みに顔をしかめる。しかし、浩の腕はしっかりと紀久を守った。


優美子の歌もその場を浄めるものになっている。

かなり消耗しているのだろう、顔色は蒼白で、その手は小刻みに震えている。いまにも倒れてしまいそうだ。

瀬越も地面にうつ伏せたまま動けない。

浩も、血は流れていないものの満身創痍で気力だけで意識を保っている状態だった。


紀久が対峙したのは、頭だけがぶよぶよと肥大した赤子と、餓鬼のように腹だけが異様に膨れた骨が浮出た黒く変色した子ども。その子どもの右腕だけが、獣の腕のように黒い体毛に覆われて太く、その指先には、黒光りした鋭い鉤爪がついていた。


異形に慣れた瀬越や浩ですら、恐怖に一瞬足が竦んだ。

だから、遅れた。

だから紀久と同じ空間に入れなかった。

入れたのは咄嗟に紀久に触れた優美子だけ。

守ると言ったのに、恐怖で動けなかった。


紀久にはあの異形がどんな姿に見えていたのだろう。


鋭い爪にも臆せずに、にっこりと可愛らしく笑ってあの異形たちを抱きしめた。


別空間にいるせいだろう。紀久の声は聞こえない。

一緒にいる優美子は異形の圧に争うのに精一杯なようで、浄化の場を作ることもできないようだ。立つことすらギリギリなのだろう、その背中は大きく震えていたが、それでも紀久から手を離してはいない。


手を離せば、きっと優美子も紀久も。


切迫するような恐怖と戦いながら、別空間にいる二人に声が届くように、瀬越とともに必死に声を張り上げる。


離れろ、それは危うい。危険なものなんだ。頼むから、離れてくれ、この空間を開けてくれ。


異形を抱きしめる紀久が真っ黒く塗りつぶされていく。黒く悍ましいものに彼女が汚されていく。

連れて行かれる。


迫り来る絶望。


血を、血を使えば向こう側へいけるかもしれない。浩は考えてはいけない考えに至った。自身の血は、アレらにとっては極上の餌、血を流せば、アレが空間を開いてくれる。


「おい、浩、馬鹿なことやめろ。みんな、死ぬぞ」

瀬越の声は聞こえない。聞いてはいけない。


紀久を失いたくない。

せっかく出会えた、光のような彼女を失いたくない。


しかし、事態は異形の思いがけない行動で、好転した。


異形が、獣のような右腕を引きちぎり、こちらへ向かって放った。

目の端で、異形から噴き出た澱に体を汚す紀久が見えた。

すぐにそばに行って、その澱から守りたかった。


しかし、目の前には、クマのぬいぐるみだったものが転がっている。

たくさんの怨さを吸い込んで、化け物と化した邪悪なものが。


「苦しい」と「辛い」と泣き叫ぶもの。

「あいつのせいだ」「私は悪くない」と怒るもの。

「どうしてこうなったの」「自分だけが不幸」と嘆くもの。

「自分だけが辛い」「全て周りが悪い」「ずるい」「ひどい」「お前のせいだ」

「お前も、落ちてこい」

ねばつくそれらは浩たちに襲いかかる。


これらは浄化できない。話も聞かない。聞く必要もない。これは堕ちてしまったモノだ。嫉妬や僻みに身を焦し、堕ちて行ったモノたち。絶望に絶望を重ね、全てを恨み、怨さを振りまくモノたち。クマのぬいぐるみはそれらをその体に溜め込んで、化け物へと姿を変えた。

そして、操りやすいあの子どもに寄生したのだ。


浩と瀬越はそれを片っ端から奈落へ落としていく。

耳の端で優美子の浄化の詠を拾った。しかし、そちらへ意識を削ぐ余裕はない。


力づくで、物理で、気力で。持てる技術も体力も精神力も全部使ってソレを闇へ溶かしていく。


瀬越が最後の思念を闇へとかし、そのまま前に倒れた。

倒れる時は前のめりと普段から豪語している瀬越らしく、見事な前のめりだ。


浩も膝から力が抜けるのを感じるが、歯を食いしばって紀久を振り向く。

空間が開いていた。


震える膝を叩いて、立ち上がる。体が鉛のように重く、一歩歩くたびに体が地面に沈み込んでいるような気がした。グラグラと視界も揺れている。目も霞んで前もよく見えなかった。


ようやく紀久の側に立ったその時、ブヨブヨの、半分溶けかかっていた赤子が、フワフワとした柔らかそうな赤ちゃんの姿になっていることに気がついた。可愛らしいふくふくの頬は喜びの色に染まっていて。

小さな、紅葉のような手が、優美子の作る浄化の光に伸ばされて、赤ちゃんは消えた。

満足そうな、一言を残して、七色の環に還って行った。


「赤ちゃん、行っちゃったの?」


餓鬼のように痩せ細り、不自然に膨れた腹とぎょろぎょろとした目が目立った子どもは、頬のまろい男の子になっていた。

以前に対峙したあの恐ろしい異形は、庇護欲をそそる姿に戻っている。それでも時折、ノイズが走るように体の一部が異形の姿になっては、人のそれに戻るということを繰り返す。

男の子の心の迷いが見えるようだった。


男の子の闇を吸い取っているのだろうか。紀久は闇に真っ黒に塗りつぶされていて、その顔は見えない。眼に見える肌は全て青黒く変色していた。まるで死体のような色に。


「いっちゃったねぇ。ママを探して眠くなっちゃったんだね。君は?」

男の子に闇が戻る。目がギョロリと反転する。右の頬が削げ、左の腕が枝のように変色した。

「りくはね、りくはママを探さなきゃ。探さないとくまちゃんがね怒るの」

「くまちゃんが怒るの?」

「そう。ママを探さないなんて悪い子だって」

「怒るくまちゃんの方が悪い子だね」

「そうなの?」

「そうだよ」

「もう、くまちゃんはいなくなったよ」


浩は男の子に話しかけた。

あの、悪意の集合体は消えた。浩と瀬越で全部落とした。奈落に。


浩は男の子と視線を合わせるようにしゃがみ込もうとして、膝から崩れ落ちた。紀久に触れる。まだ、その体は暖かい。腕を捕まえる。もう、離れないように。今度こそ守れるように。


「お兄ちゃん」

「また会ったね、りくくん」

ノイズが走る。

男の子の腹が不自然に膨れていく。


でも、まだ、こちらの話を聞いてくれる。

だから、君も、明るい方へ行こうよ。


「もうくまちゃんはいなくなったよ。赤ちゃんもお空に還ったよ。だから君も行こう。あるべきところへ。明るい方へ」

祈るように願う。何も知らずに、何もわからないまま、闇に落としたくない。明るい光に包まれて上へ昇ってほしいんだ。


ノイズが走る。

削がれた右頬が丸くなり、目が黒目がちに戻る。

「ママ、いる?」

「どうだろう」

きっといない。でも、それでいい。

「ねえ、りくくん、君はまだここにいたい?ママはいつ戻るかわからない。もしかしたら戻らないかもしれないよ。それでもこの暗いところで待っていたい?」


男の子は少し考えて首を振った。

左の腕がぷくぷくとした柔らかな子どもの腕に戻っている。

「やだ。もう暗くて狭いところはやだ。お腹が空くのも痛いのも怖いのもやだ」

「うん」

そんなつらい目にあったんだね。そんなところに戻るのは嫌だろう?だから。

「だから暖かい方へいこう。明るい方へ行こう。見えるかい?」

光が。光の中にある、七色の環が見えるかい?


男の子が紀久から離れた。その姿は、可愛らしい、愛されるべき幼児そのものを取り戻していた。ノイズはもう走らない。


男の子は明るい方へ手を伸ばそうとして、それでも不安そうに振り向いた。


「大丈夫。暖かくて気持ちがいいよ。いきなさい」

神がかった声で紀久が男の子を励ますようにその背を押した。


男の子が光の方をむく。そしてその小さな手で光に触れて


消えた。


と、同時に紀久の体がぐらりと揺れて、浩は紀久を抱え込んだまま、地面に倒れた。

痛みに呻いていると、優美子の声が途切れ始め、ゆっくりと倒れていく。

浩は動けない。瀬越はぴくりとも動かない。

やばい、倒れる。と目を瞑った直後、

「ぎり、セーフ!」と安代の声が響いた。


目を開けると安代が優美子を抱き止めて肩で息をしていた。

助かった、と安堵して、そのまま意識を手放


「おーい、伊調田。起きてんのお前だけだからな、悪いけど、状況説明」


なさせてはくれなかった。


紀久は闇を吸い、澱を受け真っ黒く塗りつぶされていた。手足など肌色が見える場所は青黒く変色しており、死体のようで、失う恐ろしさに浩はなかなか紀久から手を離すことができなかった。


浄化に長けた先輩が、邪気は表面だけだから大丈夫と請け負った。

それでも手放せない浩の頭に、いつの間にかそこにいた龍与がゲンコツを落とした。


実に十数年ぶりの龍与のゲンコツに、ようやく紀久の体を離すことができた。


浩の状況説明のあと、安代がその時の外の状況を教えてくれた。


浩たちに少し遅れて居酒屋周辺へ着いた安代たちだったが、すでに空間が分かれていて、浩たちを追うことができなかった。


安代だけが瀬越のいる空間には入れた。しかし、浩や紀久のいる空間には干渉できず成り行きをただ見ていたらしい。紀久が気を失った瞬間、空間が破れ、優美子を抱き止めることに成功したと、ドヤ顔で安代は語った。


残りの課員は、空間に気がつくこともできずに周辺をウロウロと探していた。


ちなみに、前のめりで倒れた瀬越は、スピースピーと鼻笛を鳴らしながら熟睡していた。なんだか無性に腹が立つが、無事でよかった。

優美子は精神力を使い果たして疲労こんばいだが、無事だ。


「うん、おおよその状況はわかったな。安心して意識を飛ばしていいぞ」

久万里課長が笑いながら浩に言った。

「一郷さんも、優美子も無事よ。大丈夫。あとは任せなさい」

龍与が、自分で殴った浩の頭を撫でる。

子どもじゃないんだから、と喉のすぐそこまで出かかったが、その言葉は出ることなく、意識と一緒に落ちて行った。


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