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居酒屋は混んでいて予約なしでは入れなかった。ポーチだけ受け取って店の外に出る。
外は静かだった。
夜が一段、深まったように感じて空を見る。
黄色い、欠けのある月が夜空に煌々と浮かぶ。
居酒屋と隣の店の間の狭い路地に気づく。あれ?こんな道あったっけ。
見ると、そこに子供が二人立っていた。
小さな男の子と、ようやく歩くような年頃の赤ちゃん。男の子の手にはクマのぬいぐるみ。
子供がこんな夜にどうしてここにいるんだろう?迷子かな。とあたりを見ても、親の姿は見えない。
…ほっとけないよね。
優美ちゃんが私の腕に腕を絡めたように感じた。
優美ちゃんの姿が目に入らない。
私は小さな二人と目線を合わせるようにしてしゃがんだ。
「こんばんは。僕たちどうしたの?」
お兄ちゃんの方が私を見る。幼児特有のぷくぷくのほっぺが可愛い。指でつつきたくなるなあ。しないけど。
「あのね、ママがいないの」
ああ、やっぱりはぐれたのか。
「はぐれちゃったんだ、困ったね」
「うん、赤ちゃんも泣いちゃうの。僕も」
男の子の目にぷくりと涙が浮かぶ。よく見ると、赤ちゃんの頬にも男の子の頬にも涙のあとがあった。ひとしきり泣いて落ち着いていた時らしい。
「そっか、不安だったね。でも、ちゃんと赤ちゃんを見てたんだね、えらいね、お兄ちゃん」
頭を撫でると、男の子は撫でる手に頭をグリグリ押し付けてきた。
きっと不安だったのに、お兄ちゃんだからと我慢してたんだろう。かわいい。
「うんうん、頑張ったね、えらいね」
私はたまらなくなってその子を抱きしめてしまった。よその子に勝手にさわって通報されないかしら、世の中世知辛いし。でも衝動を抑えられなかったんだ。可愛すぎて。
小さな男の子は、抱きしめるとびっくりするほど小さくて。
抱きしめられたことに驚いて体を硬くする様子も可愛くて。
ゆっくりと背中を撫でると、だんだんと体の力が抜けて、身を預けてくるのが愛おしかった。
赤ちゃんが、「自分も」というように、しゃがむ私の膝に手を置く。
「あー」と催促するようにお話する赤ちゃんの頭を撫でる。うわ、赤ちゃんの頭ってこんなに柔らかいの?フワフワだわ。髪もやわいけど頭自体もやわい。
「あう」
赤ちゃんが膝によじ登ろうとする。頭が大きいから、後ろに倒れそう怖い。
「あのね、赤ちゃん転んじゃいそう。一回ちゃんと立てる?」
男の子が、しょんぼりと視線を伏せて渋々立ち上がる。わあ可愛いなぁ。お兄ちゃんだから我慢するんだ。ごめんね。
私は赤ちゃんを抱っこすると片手を男の子に広げた。
「おいで」
男の子が腕に入ってきて、きゅう、と抱きついた。
両手に花!
「ママはどこでいなくなったの?お姉ちゃんが一緒に探すよ」
「わかんない。寒いな、って思ったらもう暗かったの。ママはいなかったの」
「そっか。パパは?」
「パパ?わかんない」
「そっかぁ、じゃあ、二人で頑張ってママを探してたのね」
「うん。でもママいないの。くまちゃんが、ママを作ればいいっていうけど、僕たち、ママがいい」
くまちゃん?
私はクマのぬいぐるみをみた。
うわー、正直可愛くない。しかも汚い。これ、一回洗濯して綺麗にしてから抱っこしてほしいわ。病気になりそう。
「くまちゃん、ずっと一緒にいたの?」
「うん、でも、だんだん、違うの」
ああ、持っているうちに汚くなってきたのね。
「そうか、そろそろくまちゃんもお風呂に入れてあげないと、病気になっちゃうねぇ」
「くまちゃん、汚いから病気なの?」
「そうだねぇ、汚いと病気になっちゃうね」
アレルギーとか怖いよね。ダニもいそう。
ブルっと気持ち悪さに体が震えた。赤ちゃんがむずがるように顔を肩にグリグリと押し付ける。眠いのかな。
「汚いのは、お姉ちゃん、いや?」
「嫌だね」
「じゃあ、もういらない」
男の子はなんの躊躇もなく、クマのぬいぐるみを放り投げた。
「ええ?いいの?大事なんじゃないの?」
「一緒にいてくれたから、抱っこしてあげただけ。くまちゃんはうるさい」
「そうなの?」
くまちゃんはかなり遠くに投げ飛ばされたのか、なくなっていた。
しゃがむ体勢がキツくなり、私は膝を地面につけて、赤ちゃんを抱き上げ、男の子を抱き抱えた。赤ちゃんは私の服の肩のあたりを口に含み吸い始める。なんか、ごめん。
男の子は、私のささやかな胸にぺたりと頬をくっつけている。
柔らかい赤ちゃんの感触と、ぺたりと甘える子供の重み。両方が愛おしい。
急にいままで姿の見えなかった優美ちゃんの気配を感じた。肩に優美ちゃんのほっそりした手の感触が戻ってくる。
「紀久ちゃん、ありがとう。やりやすくなったわ」
声だけが耳元で聞こえて。
優美ちゃんの、美しい声が聞こえた。
ひょーともほーとも聞こえる、美しいロングトーン。一音一音色が違うその音は、人の声とは思えない音色を含んでいて。
ほわりとあたりが明るく暖かくなってくる。
優美ちゃんの美しい声が響くたび、あたりが明るくなっていく。夜とは思えない明るさを不思議に感じて空を見ると、夜空に燦々と太陽のような光が広がっていた。気持ちがいい。
男の子も赤ちゃんも、私の視線を追うように空を見上げた。
「あったかいねぇ」というと、二人は顔を見合わせて首をかしげた。
「あったかくって、気持ちがいい」
気持ちが溢れて言葉になった。
「あったかいの?」
男の子が私に聞く。
「うん、ポカポカして気持ちいいね」
「気持ちがいいの?」
「うん。暖かくて、明るくてしあわせだねえ」
赤ちゃんが私の顔をじっと見ていた。可愛くて可愛くてつい微笑んでしまう。黒目がちの大きな目がうるうるとして、綺麗だった。
キュンとして赤ちゃんの柔らかな髪に頬擦りをする。くすぐったいのか赤ちゃんがむずかるように顔を肩に擦り付ける。
「可愛いねえ。眠くなっちゃったかな?暖かくて気持ちいいものね」
紅葉の手が、光の方へ伸ばされる。
そうだよ、明るい方へ。
「あう」
赤ちゃんがフッと腕の中から消えた。
ああ、行ったね、と思った。不思議には思わなかった。
「赤ちゃん、行っちゃったの?」
男の子が驚いたように私に聞いた。
「行ったねえ。ママを探して疲れて眠くなったから、行ったんだね。君は?」
「りくはね、りくはママを探さなきゃ。探さないとくまちゃんがね怒るの」
「くまちゃんが怒るの?」
「そう。ママを探さないなんて悪い子だって」
「怒るくまちゃんの方が悪い子だね」
「そうなの?」
「そうだよ」
「もう、くまちゃんはいなくなったよ」
いつの間にか浩くんがそばにいて、私のそばに座り込む。力が抜けたように。
優美ちゃんの声が掠れて、長かった一音がだんだんと短くなっていた。力尽きていくように。
「お兄ちゃん」
「また会ったね、りくくん」
浩くんが私の腕を捕まえている。
「もうくまちゃんはいなくなったよ。赤ちゃんもお空に還ったよ。だから君も行こう。あるべきところへ。明るい方へ」
「ママ、いる?」
「どうだろう」
浩くんは首をかしげる。
「ねえ、りくくん、君はまだここにいたい?ママはいつ戻るかわからない。もしかしたら戻らないかもしれないよ。それでもこの暗いところで待っていたい?」
「やだ。もう暗くて狭いところはやだ。お腹が空くのも痛いのも怖いのもやだ」
「うん、だから暖かい方へいこう。明るい方へ行こう。見えるかい?」
男の子が私から身を離し、明るい方へ手を伸ばそうとして、不安そうに振り向いた。
「大丈夫。暖かくて気持ちがいいよ。いきなさい」
励ます言葉がするりと溢れた。
男の子はもう一度光の方をむく。そしてその小さな手を光へ伸ばして
私の意識もそこで途切れた。




