なんてことするんだ
ラウスピッツ山の上空は常に濃い霧に覆われ、昼間なのに夜のように暗い。
ぬかるんだ地面は歩きにくく、土の匂いに混じって、どこか甘ったるい刺激臭が漂ってくる。木々は不自然にねじれ、まるで怪物が腕を伸ばしているかのように見える。
およそ百年前に魔神がこの地で討伐されて以来、山頂付近から絶えず発生している負の魔力が、山の環境を大きく変えてしまったのだ。
「ああくそっ!」
ライザールは苛立ちをぶつけるように木の幹を蹴りつけ、ブーツの底に付着した泥を叩き落とした。
浮遊魔法で一気に麓の森を飛び越えるつもりが、魔神の魔力の影響か、それとも気流の乱れのせいか、途中で姿勢を制御できなくなって落っこちてしまったのだ。
仕方なく徒歩で進むことにしたものの、さすがに魔の山と呼ばれているだけあって、麓の森はまさしくモンスターの巣窟だった。
一晩で何度モンスターに遭遇したか、もう数えていない。その都度、火球魔法で吹き飛ばしてやったが、その後も次々とモンスターが押し寄せてきて、昨日の夜はほとんど寝られなかった。わざわざ山登りなんてしなくても空から行けば楽勝だろう、などと思っていた過去の自分を殴りつけたい気分である。
「はぁはぁ……とりあえず、いったん休憩……」
ライザールは近くにあった手ごろな岩に腰を下ろすと、背負い袋の口を開け、中から小瓶を取り出して中身を一気に飲み干した。
出発前にラスティンの研究室から大量に持ち出した魔力回復ポーションである。どれだけ必要になるかわからないので、とりあえず背負い袋に詰め込めるだけ持ってきた。これのおかげで今のところなんとかなっているが、さすがに体力までは回復してくれないので、疲労は相当に溜まっていた。
ちなみに、今飲んだのは魔力を回復させるためではなく、単に喉の渇きを潤すためである。こんな雑に消費されていることをラスティンが知ったら卒倒してしまうかもしれないが、不用意に湧き水を飲もうものなら、体調がどうなるかわからないので背に腹は代えられなかった。
「帰ったらさすがに怒られるかなぁ……」
ただでさえ無断で転移魔法陣を起動するという前代未聞の事件を起こしたのだ。今頃魔法学校は大騒ぎになっていることだろう。
とはいえ、実際に怒鳴られるようなことはないとライザールは思っていた。
ラスティンはいつだって冷たい目で見つめてくるだけで、声を荒らげたことは一度もない。理不尽なことは言わないし、してもこない。かといって優しくしてもらった記憶もほとんどない。五年も一緒に暮らしてきたはずなのに、その人となりは未だによくわかっていなかった。
とその時、ふいに背後から軋むような音が聞こえてきた。
振り返ると、それまでそこになかったはずの木が、まるで人間の腕のように枝を振り下ろそうとしていた。
「うわっ!」
ライザールは転がるようにその場から離れる。その拍子に手にしていたポーションを落としてしまい、振り下ろされた枝によって小瓶が粉々に砕けてしまった。
「ああっ、なんてことするんだ! それ高いんだぞ!」
街で酒瓶を割られてキレていた男の気持ちが少しだけわかった気がした。いや、むしろあんな安酒とは比較にならない大損害である。
だが、損害賠償を請求している場合ではなかった。
気付くと周囲を無数の動く木に囲まれていたのだ。
『腐樹』と呼ばれるモンスターである。ぱっと見は普通の樹木だが、根を触手のように動かして自由に動き回ることができる。元はただの木だったものが、負の魔力を吸って変異したとする説もあり、この地が魔の山と呼ばれる要因のひとつになっている。実際、ライザールは昨日から嫌になるほど遭遇していた。
厄介なのは、腐樹は他の獣型モンスターと違い、燃やすと毒性のガスをまき散らすのだ。おかげでおいそれと火球魔法で吹き飛ばせない。
「ああ、もう!」
苛立ちが頂点に達した。
寝不足と疲労のせいで、頭が回らない。
どうせこの辺りに普通の動物なんていやしない。だったら、ここら一帯を吹き飛ばしてしまえば、しばらくはモンスターも寄って来なくなるのではないか。そんな安直な破壊衝動に思考が引っ張られる。
が、そんな大魔法を詠唱している余裕はなかった。
腐樹の群れが軋むような音を立てて一気に包囲網を狭めてくる。
ライザールは反射的に一番近い腐樹に向かって火球魔法を放ってしまった。
(しまっ――!)
気付いた時には遅かった。
爆発四散した腐樹からどす黒いガスがまき散らされる。
「――うっ!? げほッ、げほッ!」
肺が焼け付くように熱い。
とても立っていられず、ライザールは地面に四つん這いになった。
とどめを刺そうと腐樹が長い枝を振り上げる。
逃げようにも、手足がしびれて動けない。
ライザールは必死に地面を転がってなんとか初撃を躱した。そのまま芋虫のように這って逃げようとしたが、伸びてきた根っこに足を絡め取られてしまった。
腐樹の枝が鞭のようにしなる。
ダメだ、死ぬ――。
そう思った直後だった。
疾風のように飛び込んできた金髪の男が、手にした長剣で腐樹の枝を細切れにし、そのまま胴体も真っ二つに両断した。
「無事か?」
金髪の男が振り返って問いかけてきた。
ライザールは答えようとして、激しく咳き込んでしまう。
それを見た金髪の男は「リアム!」と声を発した。
すると、全身に甲冑を纏った巨漢の男が寄ってきて、問答無用でライザールを脇に抱えた。ライザールはびっくりして抵抗したが、大男はびくともしなかった。
「彼を安全なところへ」
大男は頷くと、暴れるライザールを物ともせず走り出した。
「よし、確保した! ヨネサン、シェルファ!」
金髪の男に名を呼ばれたふたり――ローブの男と、エルフの少女――は、呼ばれることが最初からわかっていたかのように同時に魔法を発動した。
周囲を取り囲んでいた腐樹から一斉に炎が吹き上がる。
(ちょ、そんなことしたら――)
ライザールは慌てたが、懸念していた事態にはならなかった。
突然、周囲に凄まじい突風が巻き起こる。
その風が壁となって、毒ガスの侵入を防いでいるのだ。
(風の精霊……!)
エルフ族は水と風の精霊を自在に操ることができるという。
エルフの少女は巧みに精霊をコントロールし、あっという間に毒ガスを上空へと散らしてしまった。
そして、ローブの男の炎の魔法によって、地上の腐樹はものの数分で燃え尽き、黒い炭の塊へと変貌を遂げていた。
炎で腐樹を焼き、風で発生するガスを防ぐ……術式魔法と精霊魔法、それぞれの特性を活かした完璧な対処法だった。
腐樹の残骸がぷすぷすと煙を上げている。
ライザールは大男の脇に抱えられたまま、その光景を呆然と見つめていた。




