その方が面白いだろう?
ライザールが物心ついた時に暮らしていたのは、どこの国にあるのかもわからない大きな屋敷だった。
傍にいたのは両親ではなく、一人の乳母と三体の物言わぬゴーレムだけ。敷地の外に出ることは許されず、行動の自由はほとんどなかった。何かをしようとすると必ずゴーレムが傍に張り付いて行動を監視された。
乳母のマーサは感情が希薄な女性で、笑顔ひとつ向けてくることなく、ライザールの世話をするという役目を忠実にこなすだけの人だった。
無機質なゴーレムと無表情な乳母。
温もりとは無縁の孤独な日々。
そんなライザールの無聊を慰めてくれたのは書物だった。
唯一自由に出入りすることが許されていた屋敷の書庫には、世界中のあらゆる文献や魔法書が保管されていた。
ライザールにとって書物は外の世界を知ることのできる唯一の手段であり、人とのかかわり方を学べる教科書でもあった。
中でも夢中になったのは物語だった。
盾を持った屈強な戦士。エルフの精霊使い。回復魔法で仲間を支える回復役。そして不屈の闘志で強敵に挑み続ける英雄……。魅力的な登場人物たちが織りなす冒険譚は、幼い少年の心に強く響いた。
すっかり物語の世界に没頭したライザールは、その影響からゴーレム相手に木剣を振り回し、魔法を習得するために書庫にあった魔法書を片っ端から読み漁った。そして気が付けば独学で術式魔法の扱い方をマスターしていたのである。
ライザールが両親について知っていることはあまり多くない……というよりほとんどないと言ったほうが正しいだろう。
マーサに尋ねても教えてもらえず、わずかに聞き出せたのは、母親はライザールを生んですぐに亡くなったことと、父親は世界中を旅していて行方知れずなことくらいである。実際、これまで父が屋敷に帰ってきたことは一度もなく、顔すら知らなかった。
まだ幼かったライザールは、寂しさを埋めようとマーサとの間に心の交流を求めた。
ただ、彼女は決してライザールに愛情を示そうとはしなかった。
関心がなかったのではない。
彼女の心は魔法によって強制的に閉ざされていたのだ。
ライザールはマーサにかけられた魔法を解こうと試みた。そして三カ月の苦闘の末、ついに魔法の解除に成功し、彼女は感情を取り戻した。
だが、それはとても正常な人間のものではなかった。
マーサの情緒は明らかに不安定で、なにかあるとライザールに向かって罵詈雑言を浴びせるようになった。なにもなくても癇癪を起こし、ライザールが少しでも反抗的な態度をとれば、ヒステリックに叫び散らした。
生まれて初めて見る生の人間の感情は、ライザールに恐怖しか与えなかった。
なんとかしようと再び試行錯誤を繰り返したが、結局、彼女の心は元に戻らず、しばらくして彼女は発狂し、崖から身を投げてしまった。
彼女の心はとうに壊れていたのだ。
こうしてライザールは一人になった。
残ったのは元から心を持たない三体のゴーレムだけ……。
途方に暮れていると、そこへまるでタイミングを見計らっていたかのように父を名乗る男――ケーネイアが現れた。
だが、初めて会う父は息子を慰めるでも引き取るでもなく、そのまま横に滑らせるように魔法学校へと預け、去ってしまった。
そして新しく保護者となったラスティンもまた、マーサとは別の意味で感情を表に出さない人だった。
魔法学校への入学は十二歳からが一般的だが、ラスティンは当時まだ七歳だったライザールに対し、本格的に魔法を学ぶよう指示し、厳しく指導を行った。
その一方で、魔法以外のことに関しては徹底して距離を置いた。
父親代わりになってくれるかも、というライザールの淡い期待は一瞬のうちに打ち砕かれ、無機質な師と弟子という型にはめられた。
ラスティンの口から感情的に発された言葉はひとつとしてなく、理不尽なことを言われたことも、声を荒らげられたこともない。当然、叱られたことなど一度もなかった。
ラスティンはライザールを引き取ったことを公言しなかったが、王立魔法学校の学長が少年を引き取ったという噂はすぐに広まった。
魔法学校の学長の地位は世襲制ではない。
直接の弟子を取らないことで有名なラスティンが、わざわざ子供を引き取った。将来的に自らの地位や権力を引き継がせるつもりなのではないか。そんな疑念が様々な憶測を呼び、ライザールは好奇、あるいは警戒の視線に常に晒された。中にはラスティンに取り入るために露骨にすり寄ってくる者もいた。
現実の人間は物語の登場人物とは違う。表情や仕草、声色。それらの情報から感情の機微を察知し、瞬時に適切な応対を選択する。まともに人と接した経験がほとんどない少年にとって、それは魔法よりも遥かに難しい行為であった。
だから、ライザールはなるべく他人を刺激しないよう、常に笑顔で明るく振舞うようになった。魔法ではなく、自らの意思で心を縛ったのだ。それが乳母の下で学べた唯一の処世術でもあったから……。
だが、そんな状況に転機が訪れる。
それはライザールがラスティンのもとに預けられてから三年ばかりが経ったある日のことだった。
その日、ライザールは敷地から抜け出し、初めてひとりで市場へと赴いていた。
年齢が上がるにつれて父親譲りの好奇心が頭をもたげ、もっと外の世界を知りたいという欲求が未知への恐怖を上回ったのである。
ただ、ずっと狭い世界で生きてきた少年にとって、外の世界は刺激が強すぎた。
市場にたどり着いた途端、ライザールは人ごみに酔ってしまい、ふらふらと彷徨った挙句、ついには地面に座り込んで嘔吐してしまったのである。
どうしてよいかわからず途方に暮れていたところ、唐突にひとりの少女が現れ、手を差し伸べてくれた。
その少女こそマイラだった。
彼女は吐瀉物で汚れることも厭わず、ライザールを近くの井戸まで連れて行くと、濡らしたハンカチで丁寧に汚れを落とし、落ち着くまで一緒にいてくれたのだ。
マイラは明るく元気な女の子だった。
彼女の両親はゴウテン商会に所属する行商人で、彼女自身も幼いころから両親と一緒に各地を旅していた。そのせいか年齢の割に大人びており、「いつか王都におっきなお店を出して、たくさんの召使いをやとって女ぼすになる」という普通ではない野望を抱いているちょっと変わった子でもあった。
年齢が近いこともあって、ライザールはすぐにマイラと仲良くなった。というより、マイラからずかずかと踏み込んできたというのが正しいかもしれない。彼女には適切な距離を測ろうとか、まずは様子を見てみようとか、そういう類の遠慮が一切なかったのだ。
そして、彼女の屈託のない明るさには、ライザールの心の扉を無理やりこじ開けてしまうだけの力があった。
「いいこと、あなたは将来、あたしの優秀な手駒としてあたしの商会で働くのよ。わかった?」
そんな宣言をされたにもかかわらず、ライザールはその後もたびたび魔法学校の敷地を抜け出しては、マイラのところへ遊びに行くようになった。
マイラは感受性が豊かで、ライザールに対して喜怒哀楽を遠慮なくぶつけてきた。ライザールがおよそ人間らしい感情表現の仕方を学ぶことができたのは、間違いなく彼女のおかげであった。
そして同時に、マイラは人の温かさも教えてくれた。
彼女と一緒にいるなかで、ライザールはいつしか自然に笑えるようになっていたのである。
そして今――
ライザールは顔を上げ、目の前に立つカイルの瞳を見つめた。
そこには乳母マーサのような狂気は宿っていない。魔法学校の大人たちが見せる値踏みするような視線でもない。あるのは、マイラと同じ温かな眼差し……。
出会ったばかりの冒険者の男は、ライザールの視線を正面から受け止めて言った。
「――ライザール、俺は君を子供扱いするつもりはない。だが、君は自分が子供であることをちゃんと自覚すべきだ。他人に頼るのが嫌なら、利用すればいい。周りの大人を巻き込むんだ。君が正しい行いをしている限り、力を貸してくれる人は必ずいる」
「……カイルみたいに?」
「俺だけじゃない。パーティの連中だって一癖も二癖もあるが、みな気の良い奴らばかりだ。ちゃんと向き合えば、君の問題や悩みを解決することは無理でも、一緒に悩むくらいのことはしてくれるはずだ」
「それってなんだか頼りなくない?」
「そんなものさ。ひとりひとりの力には限界がある。だからこそパーティを組んで支え合うんだ」
「……」
「それにほら、独りでいるよりその方が面白いだろう?」
そう言ってカイルは片目をつむってみせた。
その少年のように屈託のない笑顔を見て、ふとライザールは自分の生い立ちについて、彼に話してみたいという衝動に駆られた。
この人ならどんなふうに受け止め、どんな言葉を返してくれるのか、純粋に気になったのだ。
ただ、その衝動が口から出ることはなかった。
この人には色眼鏡で自分を見られたくないと思ったのだ。
カイルは感情ではなく理性でダメなことはダメだとはっきりと叱ってくれた。
これまでに出会った大人からは感じたことのない何かが彼にはあった。
(……この人なら、信じてもいいかも)
この日、ライザールは生まれて初めて安心して頼れる、甘えてもいい大人と出会えたのである。




