少なくとも俺の人生では一度もない
木々の隙間から太陽がゆっくりと沈んでいくのが見える。上空を覆う霧と相まって、闇がさらに濃さを増してゆく。
パーティがラウスピッツ山に入ってだいぶ経つが、いまだ炎紋草の発見には至っていない。
ラウスピッツ山は炎角のラガンをはじめとする複数の山の主たちが縄張り争いを繰り広げているため、山頂付近に近づくほど危険度が増していく。しかも夜はモンスターの時間だ。闇の濃さに比例して危険度は跳ね上がる。
ただ、ライザールの頭の中を占めているのはモンスターのことではなく、王都で病床に伏しているマイラのことだった。
医者の話では、魔脈失温症は発症してすぐにどうこうなるような病気ではないという。
それでも、今すぐ死なないというだけで、現在進行形でマイラが病に苦しんでいるという事実は変わらない。
びっくりするほど冷たい手。死人のように生気を失った顔……このまま二度と目覚めないんじゃないかと思うと、とてもじっとしてなんていられなかった。
絶対にマイラを助ける――ライザールは覚悟を胸に険しい山道を登ってゆく。
ところが陽が沈むと同時に、カイルが足を止めて夜営する旨を一行に告げた。
「ちょっと待ってよ!」
ライザールは慌てて声を上げる。
「夜営って、そんな暇ないよ! こうしている間にもマイラは苦しんでるんだ!」
「気持ちはわかるが、暗闇の中での移動はリスクが大きすぎる。そのことは一晩過ごした君が一番わかってるはずだ」
「でも――」
「悪いが反論は認めない。パーティを組むにあたって俺の指示には従ってもらうと言ったはずだ」
思いのほか厳しい口調で言われ、ライザールは鼻白んだ。
「たしかに言ったけど……」
「それに薬草を手に入れても、無事に持ち帰れなければ意味がないだろう?」
そう言うと、カイルはわずかに表情を和らげた。
「なぁ、ライザール。焦って良い結果が生まれたことは、少なくとも俺の人生では一度もない。遠回りに感じるかもしれないが、全員が万全の状態を維持することが結果的に君の友達を救う近道になるんだ。君ならそれがわかるはずだ」
「……わかったよ」
ライザールは不貞腐れたように答えた。完全に納得できたわけではなかったが、カイルの態度から絶対に譲らないという強固な意志を感じたのだ。
想いの力だけではどうすることもできないことがある。
それはこの山に来て嫌というほど思い知らされたことだった。
その後、夜営の準備を終えると、カイルが見張りの順番を割り振っていった。見張りは二人一組の三交代制で、ライザールは一番目でカイルと組むことになった。
当然のように見張りの頭数に入れられていたことが、ライザールは少しだけ嬉しかった。
カイルは自分を子供扱いせず、ちゃんと戦力として見てくれているのだ。
とはいえ、見張りなんて生まれて初めての経験である。
ライザールは若干緊張しながら、皆から少し離れた場所に立ち、森へと目を向けた。
ときおり遠くから獣の声が聞こえてくる。
ただ、夜営地の周辺は魔の山にいるとは思えないほど静かだった。
風や木々の葉擦れの音もほとんどしない。
シェルファが精霊魔法で結界を張っているおかげだった。風の精霊の加護が、こちらが発する音や気配を消して、モンスターから気付かれにくくしてくれているのだという。
エルフ族の多くは精霊を操ることができる。ライザールにもエルフの血が混じっているらしいが、どうやらその素質は受け継がれなかったらしく、精霊を視ることはできない。
もし素質があれば、風の精霊がダンスを踊っている姿でも見られるのだろうか。そんなことを考えていると、カイルが傍に寄ってきた。
「さっきは厳しいことを言ってすまなかったね」
「別に謝らなくていいよ。カイルは間違ったこと言ってないって思うし」
「そうか、そう言ってもらえると助かるよ」
「それよりも見張りの最中に喋っていいの?」
「ずっと黙ったままなのはしんどいだろう? シェルファの結界もあるし、大きな声を出さなければ大丈夫だよ。もちろん、警戒を緩めちゃダメだけどね」
その言葉通り、カイルの視線はずっと森へと注がれている。歴戦の戦士らしい精悍な顔つき。ライザールはどういうわけか、その横顔から目が離せなかった。
「俺の顔にモンスターはいないぞ?」
カイルが苦笑しながら言った。もちろん顔は前を向いたままである。
「ねぇ、カイルはなんで冒険者になろうって思ったの?」
ライザールはほとんど無意識のうちに尋ねていた。
「……いきなりだね」
カイルは顎を撫でながら、しばし考える素振りをする。
「……そうだなぁ、あまり深く考えたことはないな。俺が住んでた村は田舎の小さな村でね、みんな毎日モンスターに怯えながら息をひそめるように暮らしていたんだ。子供の頃の俺には、それが狭い檻の中に閉じ込められているように思えて、たまらなく嫌だった。だから外の世界に出て自由に生きてみたいって思ったのがきっかけかもな」
「ふぅん」
なんとなくもっと波乱万丈で劇的な理由があると期待していたので、ライザールは肩透かしをくらった気分になった。
「そういう君は? 将来何になりたいとかあるのかい?」
「え、俺? うーん……俺も考えたことないなぁ」
「それだけの魔法の才能があるなら、やっぱり王宮魔法士を目指すのかな」
「たしかにラスティン先生は王宮魔法士になれってよく言ってくるけど、あんまりピンときてないんだよね。魔法は好きだし得意だから、そっち方面には進むと思うけど……」
「憧れているものとか、なりたいものとかはないのかい?」
「なりたいものかぁ……」
ライザールはしばし考える。
「……聞いても笑わない?」
「もちろん、と言いたいところだが、内容によるな」
正直すぎるカイルの反応が、逆に話そうという気にさせてくれた。
「……俺って昔から物語とか読むの好きだったから、物語に出てくる主人公や英雄に憧れてるんだ。俺もあんな風に強くなって、困っている人たちを助けられるような大人になりたいなって」
「困っている人を助けたい、か。いいじゃないか。素晴らしい心がけだと思う」
カイルは感心したように頷いていたが、おもむろに表情を引き締め、ライザールの方を向いた。
「――ただ、そういうことなら君に言っておかないといけないことがある。ちょっと説教臭くなっちゃうけど、聞いてくれるかい?」
「な、なんだよ、あらたまって」
ライザールは思わず身構えた。
「君はラウスピッツ山が危険だと知っていて、どうしてひとりで来たんだい?」
「それは……俺ならひとりでもなんとかなるかなって……」
「たしかに君は魔法士として類まれな才能を持っている。なんといっても丸一日この山で過ごして無事だったんだからね。ただ、だとしても君はひとりで赴くのではなく、誰かに相談すべきだった。そうは思わないかい?」
「でも、マイラが苦しんでて急がなきゃって思ったんだ。それに話したところで転移魔法陣を使わせてくれるはずないし、だから――」
「それでも、だ」
カイルはぴしゃりと言った。
「いいかいライザール、君が無断で転移魔法陣を使用したことで、ラスティン先生はとても苦しい立場に置かれている。それにもし開きっぱなしのゲートからモンスターが侵入していたらどうするつもりだったんだ? その時に責任を取るのも君じゃなくて彼だ。これじゃあ困っている人を助ける以前の問題だ」
「……」
「友達を助けようとする君の行いは立派だ。ただ、その方法はちゃんと考えて選ばないといけない。良かれと思って取った行動でも、多くの人に迷惑を掛けてしまう場合がある。そのことを君はきちんと理解すべきだ」
ライザールは唇を噤んで下を向いた。
カイルの言っていることに納得できなかったわけではなく、誰かに面と向かって叱られた経験がなかったので、どう受け止めてよいかわからなかったのだ。
そしてそれは、彼自身の生まれ育った境遇と無関係ではなかった。




