第六話:酸素と涙
#槍ヶ岳に散る #最後の青 #小説家になろう #切ない #悲劇 #信州 #涙腺崩壊
荒れ狂う槍沢の嵐の中、僕は真っ直ぐに立ち、青ざめていく仲間たちの顔を一人ずつ見つめた。登山家としての理性が叫んでいる。「今すぐ下りろ、さもなければ全員死ぬぞ」と。
けれど、震える海斗を抱きしめる朱莉の姿を見たとき、僕は悟ってしまった。もし無理やり下山させれば、海斗の魂は、麓にたどり着く前に死んでしまうだろう。
「颯太、陽希、芽衣……お前ら三人は今すぐ槍沢ロッヂまで下りろ。不要な荷物は置いていけ。無線で状況を報告してくれ」
僕の声は重く、風の音に掻き消されそうだった。
「じゃあ、お前は? 二人はどうするんだ!」
颯太が僕の肩を掴む。その瞳には恐怖が宿っていた。
僕はその手を静かに振り払った。喘ぐ海斗を見つめ、それから朱莉へと視線を移す。
「僕が海斗を背負って、頂上まで行く。朱莉も一緒だ。可能なら近くの山小屋で一晩明かす。無理ならビバークだ」
「江戸、それは自殺行為だよ! こんな状況でそんな重荷を背負えるわけない!」
芽衣が叫ぶ。彼女のカメラは雪に覆われ、今は無用の長物としてぶら下がっていた。
「僕が隊長だ!」
嵐の咆哮よりも鋭く、僕は怒鳴った。「ここにいる全員の命に責任があるのは僕だ。そして僕は決めた……僕の親友を、負け犬みたいに道端で死なせたりはしない。あいつは、征服者として死ぬんだ!」
僕は海斗の前に膝をついた。何も言わず、彼の腕を引いて無理やり背中に乗せる。彼の体は驚くほど軽かった――同年代の男としては、あまりにも。それは、尽きかけようとしている命の重さだった。
「江戸君……」
朱莉が啜り泣きの中で呟く。
「黙って僕の隣を歩け、朱莉。あいつから目を離すな」
僕は振り返らずに言った。
小屋へ向かう残りの道のり、僕の世界は二つのことだけに狭まった。重みに耐えて震える僕の足取りと、耳元で聞こえる海斗の血に濡れた呼吸音。一歩踏み出すたびに、心臓に棘が突き刺さるような感覚だった。
辺りが完全に闇に包まれた頃、僕たちはようやく山小屋の壁に辿り着いた。ランプの火が微かに灯る狭い木の部屋で、僕は薄い布団の上に海斗を横たえた。朱莉がすぐに彼に付き添い、温かい水で海斗の顔を拭う。僕は部屋の隅に座り込み、肩が外れそうな痛みに耐えながら、途切れ途切れの呼吸を繰り返した。
暗がりの隅から、僕は二人を見ていた。朱莉は愛の言葉を囁いている。僕がずっと、自分に向けてほしくて堪らなかった言葉を。けれど今夜、その言葉の全ては、死にゆく男のために注がれていた。
「海斗、あと少しだけ頑張って……明日は一番綺麗な朝日を見ようね」
朱莉が泣きじゃくりながら言う。
僕は目を閉じ、汚れた手袋の上に涙をこぼした。僕は今、愛する少女を、死の淵にいる別の男の腕の中に届けるために、自分の命を賭けたのだ。
僕は、二人が愛し合い続けるために吸い込む「酸素」だ。そして気づいてしまった。この物語において、僕は決して主人公ではない。この悲劇をより美しく彩るための、ただの「道具」に過ぎないのだと。
標高三千メートル。あの夜、僕は学んだ。最も残酷な愛とは、報われないことではない。自分の崩壊の最中で、他人の幸せの目撃者にならざるを得ないことなのだと。
「最後までお読みいただきありがとうございます。次回の更新は明日、22:00を予定しております。また明日お会いしましょう!」




