第七話:最後の登頂、世界を背負って
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槍の刃先のような形をした槍ヶ岳の山頂が、僕たちの上に傲然とそびえ立っていた。本当の頂にたどり着くためには、凍てついた鉄梯子を伝って、垂直な岩壁を登らなければならない。
午前四時。世界はまだ深い闇に包まれ、骨を刺すような寒さが支配していた。小屋の外では風が唸っていたが、雪嵐は収まり、空には星が散りばめられていた――まるで、宇宙が別れの舞台を整えているかのように。
海斗はもう、言葉を発することもできなかった。うつろな目を見開き、途切れ途切れの呼吸を繰り返しながら、小屋の天井を見つめている。
「……行くぞ」
僕は短く言った。
クライミングロープを使って、海斗の体を僕の背中に固定する。登っている最中に彼がずり落ちないように。朱莉はやつれた顔で僕の隣に立ち、震える手でヘッドランプを握りしめていた。
「江戸君……もし、無理だと思ったら……」
「あそこまで連れて行くんだ、朱莉。たとえ僕が這いつくばってでも」
僕は彼女の言葉を遮った。
登攀が始まる。槍ヶ岳山頂への道は、もはや登山道ではなく、ただの岩壁だ。僕は感覚のなくなった手で、氷のように冷たい鉄梯子を掴んだ。一歩、足を上げるたびに、海斗の体重が「世界そのものの重さ」になって僕の肩を押し潰そうとする。
一段……言えなかった約束のために。
二段……朱莉の涙のために。
垂直な壁の途中で、海斗の頭が僕の首筋に力なくもたれかかるのを感じた。鉄の匂い――血の匂いが混じった彼の温かい吐息が、次第に稀薄になっていく。
「まだ死ぬな、海斗!」
僕は叫んだ。声が崖にぶつかって割れる。「上を見ろ! あと少しだ! 自分の目で見ろよ、この野郎! 僕の犠牲を無駄にするな!」
僕は登り続けた。腕の筋肉は引き裂かれそうで、薄い空気を吸い込むたびに肺が痛む。後ろでは、朱莉が絶え間なく祈りを捧げている。その掠れた声が、風に吹かれていた。
これほど孤独を感じたことはなかった。背中には命が漏れ出していく親友がいて、下には僕の心のすべてを奪いながらも、背中の男のことだけを想っている少女がいる。
指先が一番上の岩の縁に触れたその時、東の地平線から橙色の光が広がり始めた。
僕は最後の力を振り絞った。関節が砕け散るような激痛に耐え、僕たち二人の体を槍ヶ岳の狭い頂上へと引き上げた。
ロープを解き、最高地点に海斗を横たえる。朱莉はすぐに膝をつき、彼の頭を抱え上げた。
「着いたよ、海斗! 着いたんだよ!」
朱莉が小さく叫ぶ。笑いと、嗚咽が混じり合った声だった。
僕は少し離れた場所に立ち、世界の頂点にいる二人にわずかな空間を譲った。肩で息をしながら、苦しい胸を押さえる。ここからは、雲海に包まれた日本アルプスがどこまでも広がり、「御来光」の光を受けて刻一刻と黄金色に染まっていく。
海斗が、光を失いかけた瞳を動かした。彼は太陽を見た。そして、朝日に照らされた朱莉の顔を見た。最後に、彼は僕の方を向いた。
言葉はなかった。ただ、とてもゆっくりとした瞬き――それは静かなメッセージだった。『ありがとう、江戸。……そして、ごめん』
僕は太陽の方へ顔を背けた。海斗の瞳から光が完全に消える瞬間を、見たくなかったから。僕は彼のために世界を背負った。永遠の闇に包まれる前に、彼にこの光を見せるためだけに。
空に最も近いこの場所で、僕は悟った。
やはり僕は、この二人の間では「異邦人」のままだということを。
「最後までお読みいただきありがとうございます。次回の更新は明日、22:00を予定しております。また明日お会いしましょう!」




