第五話:槍沢の分岐、荒れ狂う嵐の中で
#槍ヶ岳に散る #最後の青 #小説家になろう #切ない #悲劇 #信州 #涙腺崩壊
上高地で見上げたあの青空は、ただのまやかしだったらしい。槍沢の分岐に差し掛かった頃、巨大な暗雲が山頂の向こうから渦を巻いて現れ、わずか数分のうちに太陽の光を飲み込んでしまった。風が唸りを上げ、針のように肌を刺す氷の粒を運んでくる。
「江戸! どこかで避難しよう! 嵐が強すぎる!」
風の咆哮の中、颯太が叫んだ。
僕は後ろを振り返った。親友たちの隊列はすでに崩れていた。陽希は海斗の体重の半分を肩で支えるようにして歩き、朱莉は負傷した足を引きずりながら、風にさらわれないよう地面を這うように進んでいた。
「山小屋まであと少しだ! ここで止まったら凍死するぞ!」
肺が冷気で焼けるような感覚に耐えながら、僕は叫び返した。
その時、海斗が崩れ落ちた。ただ座り込んだのではない。鋭い岩場の上に、前のめりに突っ伏したんだ。陽希がその傍らに膝をつく。いつも明るい彼の顔は、今や純粋な恐怖に支配されていた。
「陽希、どけ! 僕が診る!」
僕は駆け寄り、陽希を脇に押しやった。
海斗の体を仰向けにした瞬間、僕の心臓は止まりそうになった。彼はもう咳き込んですらいない。ただ必死に空気を求めて喘ぎ、口から溢れた血が、彼の青いジャケットの上で凍りついていた。陽希と海斗がずっと隠し続けてきた秘密が、今、僕たちの目の前に晒された。
「江戸……もう、いいんだ」
陽希が掠れた声で囁いた。「海斗は……肺がんの末期なんだ。最後の日が来る前に、どうしてもこの頂を見たかったんだよ」
世界が止まった。僕は陽希を見つめ、それから、蒼白な顔で固まっている朱莉に視線を移した。
「……知っていたのか、朱莉」
震える声で僕は問う。
朱莉はただ咽び泣き、頬を伝う涙は瞬時に凍りついた。「私はただ……一つだけでいいから、あの子に綺麗な思い出をあげたかったの、江戸君。たった一つでいいから……」
怒りが胸の中で爆発した。身勝手な海斗へ、嘘をつき続けた陽希へ。そして何より、死の秒読みを続けている人間に対して嫉妬していた、愚かな自分自身への怒りだ。
「下山だ!」颯太が声を張り上げた。「この状態で海斗を上へ連れて行くのは、心中するようなもんだ!」
「……だめだ」
海斗が残された最後の力で、僕のジャケットの袖を掴んだ。濁った瞳が、あまりにも切実な願いを込めて僕を射抜く。「江戸……頼む。薬の匂いしかしない病院のベッドじゃなく……槍ヶ岳の星を見ながら死なせてくれ……」
僕は、二つの不可能な選択肢の間に立たされた。隊長としての理性は、全員の安全のために下りろと叫んでいる。けれど、海斗の前で膝をつき、祈るように縋りつく朱莉の姿を見て、僕の心は羅針盤を失った。
もしここで下山させれば、海斗は僕を恨み、朱莉は愛する人の最期の願いを奪った僕を一生許さないだろう。だが、このまま進めば、全員を死へと導くことになる。
「江戸君……」
朱莉が僕を見つめる。その瞳は懇願していた。「あの子をあそこへ……お願い、私たちを頂上へ連れて行って」
僕は強く目を閉じた。周囲を吹き荒れる嵐など、僕の内で荒れ狂う心の嵐に比べれば、何てことはなかった。
「最後までお読みいただきありがとうございます。次回の更新は明日、22:00を予定しております。また明日お会いしましょう!」




