第四話:秘密を写すレンズ
#槍ヶ岳に散る #最後の青 #小説家になろう #切ない #悲劇 #信州 #涙腺崩壊
砂利を踏みしめる僕たちの足音だけが、静まり返った森の中の唯一の音楽だった。けれど、僕の耳には海斗の呼吸音の方がずっと大きく響いていた――重く、喘ぐようなその音。振り返るたびに、陽希が海斗のそばにぴたりと寄り添い、肩を叩くふりをして、崩れ落ちそうな親友の体を必死に支えているのが見えた。
僕はあえて歩調を速めた。海斗を深く案じる朱莉の眼差しを見なくて済むように、距離を置きたかった。
――カシャ。
隣でシャッターを切る音がした。振り向くと、芽衣がカメラを下ろすところだった。彼女は木々の隙間から見え始めた山頂の景色を撮ったのではない。そのレンズは、真っ直ぐ僕に向けられていた。
「どうして僕を撮るんだ。景色ならあっちだぞ、芽衣」
僕は谷の方を指さし、冷ややかに言った。
芽衣は言葉では答えなかった。彼女は歩み寄り、しなやかな指先で背面の液晶モニターを操作して、僕に突きつけた。
そこには、僕の写真があった。道を背にして立ち、遠くにいる朱莉と海斗を見つめている姿。けれど、僕の胸を締め付けたのは、そこに写し出された表情だった。旅はまだ始まったばかりだというのに、まるで全てを失ってしまった男のような顔。瞳は空虚で、くすんだ嫉妬と、血の流れない傷口に溢れていた。
「レンズは嘘をつけないよ、江戸君」
芽衣が静かに囁く。その声は風の音に掻き消されそうだった。
「病気の海斗君よりも、君の方がずっと苦しそうな顔をしてる」
「勝手なことを言うな」
僕は視線を逸らした。
「いつまで、二人の盾でいるつもり?」
芽衣の問いは、今度はさらに鋭くなった。
「朱莉ちゃんの足を治療して、海斗君の道を案内して、君は全てを整えてる。でも、君自身の心の面倒は、一体誰がみてくれるの?」
僕はザックのストラップを握りしめた。「君には関係ないことだ、芽衣。僕の仕事は、全員を無事に山頂まで連れて行くことだ」
「たとえその場所で、二人が愛し合う姿を見せつけられることになっても?」
僕は絶句した。芽衣の言葉は、最も生々しい傷口を切り裂くナイフのようだった。言い返す間もなく、背後から激しい衝撃音が響いた。
「海斗!!」
朱莉の叫び声が森を震わせた。
稲妻のような速さで振り返る。海斗が地面に頽れていた。顔色は死人のように蒼白だ。口元を押さえた指の間から、鮮血が滴っている。彼は激しく咳き込み、その一回一回の咳が、失われていく命の欠片のように見えた。
朱莉はすぐに彼を抱き寄せた。高価なジャケットに血の汚れがつくのも構わず、ただ必死に。彼女は取り乱し、死を遠ざける呪文のように、何度も、何度も海斗の名前を呼びながら泣き叫んだ。
僕はその場に釘付けになった。助けに駆け寄りたいのに、足が地面に縫い付けられたように重い。目の前には、僕の魂を粉々に打ち砕く光景が広がっていた。海斗を抱きしめる朱莉。そして、再びカメラを構える芽衣。彼女が撮っていたのは二人ではない。その惨状を見て、壊れていく僕の反応だった。
「見て、江戸君」
隣で芽衣の悲しげな声がした。「二人の世界には、二人しかいない。死が訪れる瞬間にさえ、君の居場所なんてどこにもないんだよ」
僕は強く目を閉じた。芽衣の言う通りだ。この山は、僕たちの秘密を一皮ずつ剥いでいく。病を抱えた海斗、献身に生きる朱莉、そして……帰る場所のない悲しみを抱えた、僕。
「最後までお読みいただきありがとうございます。次回の更新は明日、22:00を予定しております。また明日お会いしましょう!」




