第三話:上高地、そして足取りの乱れ
#槍ヶ岳に散る #最後の青 #小説家になろう #切ない #悲劇 #信州 #涙腺崩壊
朝の上高地は、まさに純粋という言葉そのものだった。薄い霧が水晶のような梓川を包み込み、遠くにそびえる北アルプスの傲慢な山影を映し出している。空気は肌を刺すほどに冷たく、僕たちの吐き出す息は白い塊となって霧に溶けていった。
「よし、みんな。ここから出発だ」
頼れるリーダーを演じるように、僕は静寂を切り裂いて声を上げた。
けれど、視線はどうしても朱莉の足元に向かってしまう。砂利道のルートの上で、海斗の好きな色――あの青い靴だけが、残酷なほど鮮やかに浮き立っていた。
槍沢へと向かって歩き始めてから、わずか二時間。僕は異変に気づいた。朱莉の歩調が遅れ始めている。地面に足が着くたび、コンマ数秒の躊躇いが生じている。彼女の明るい表情には、不釣り合いな冷や汗が滲んでいた。この気温だというのに。
「朱莉、大丈夫か?」
海斗が掠れた声で尋ねる。彼自身もかなり苦しそうで、呼吸は浅く、時折胸を押さえていた。
「私? もちろん! 見てよ、この靴すごく素敵でしょう、海斗? まるで雲の上を歩いているみたい!」
朱莉は不自然なほど陽気なトーンで答えた。無理に作った満面の笑み。僕がかつて愛したその笑顔が、今はみぞおちを抉るような鋭い痛みとなって僕を襲う。
嘘だ。あんな薄いソールでは、もう踵が擦り切れているはずだ。不安定なゴム底のせいで、彼女の足首の関節には倍以上の負担がかかっている。
「少し休憩するぞ」
たった十分前に止まったばかりだったが、僕は強い口調で命じた。
颯太が腕時計に目をやる。
「江戸、あんまり止まってたら、暗くなる前に山小屋に着かないぞ」
「僕が隊長だ、颯太。休むと言ったら休むんだ」
反論を許さず、僕は言い放った。
みんなが腰を下ろす中、僕は飲み物のボトルを確認するふりをしている朱莉に歩み寄った。そして何も言わずに、彼女の前に膝をつく。
「え、江戸君……? 何を……」
僕は無理やり、彼女の青い靴の紐を解いた。案の定だった。靴下を少しずらすと、踵の皮膚は赤く剥け、滲み出した血で湿っていた。
「……言っただろ。山は、誰かの好きな色なんて気にしてくれないって」
深い憐憫と、抑えきれない怒りが混じり合い、僕の声は低く震えた。
ザックから救急キットを取り出し、震える手で処置を始める。朱莉は小さく喘いだが、その視線は少し離れた場所で陽希と座っている海斗に向けられたままだった。
「お願い……海斗には言わないで」
朱莉が縋るように囁く。「あの子、自分の病気だけでもう十分苦しんでる。私の選択のせいで、あの子に罪悪感を持たせたくないの」
僕は顔を上げ、朱莉の瞳を見つめた。そこには、海斗に対する絶対的な献身があった。あまりにも純粋すぎて、僕の心に残っていたわずかな希望を完膚なきまでに打ち砕くほどに。
「……あいつの笑顔のために、お前は一人でこの痛みに耐えるっていうのか?」
苦い問いかけに、朱莉はただ静かに頷いた。
「あの子の幸せそうな顔を見ることだけが、私がこの山に登る唯一の理由なんだよ、江戸君」
僕は言葉を失った。
吐き出しどころのない胸の痛みをぶつけるように、僕は彼女の足に包帯をきつく――少しきつすぎるくらいに――巻きつけた。
立ち上がると、ザックが十倍も重くなったように感じられた。
彼女の傷を癒すのは僕なのに、彼女を歩かせる理由は海斗なのだ。彼女の安全を案じるのは僕なのに、彼女の全宇宙は海斗なのだ。
「……行くぞ」
誰の顔も見ずに、僕は告げた。
僕は列の最前線を歩く。みんなに背を向けて。芽衣のカメラに僕の表情を捉えられたくなかった。誰にも見られたくなかった。自分たちの隊長が、音もなく涙を流しながら、自らの心が崩壊する場所へと続く道を進んでいる姿なんて。
「最後までお読みいただきありがとうございます。次回の更新は明日、22:00を予定しております。また明日お会いしましょう!」




