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第二話:松本の登山ショップにて

#槍ヶ岳に散る #最後の青 #小説家になろう #切ない #悲劇 #信州 #涙腺崩壊

 その日の松本の街は、活気に満ちていた。ビルとビルの隙間を縫うように、山の方から冷涼な風が吹き抜けていく。けれど僕には、どういうわけか空気が薄くなり始めているように感じられた。


 駅の近くにある大きなアウトドアショップの前に、僕は立っていた。隣では朱莉あかりが忙しそうにマフラーを整えている。その顔は、期待でほんのりと赤らんでいた。


「江戸君、付き合ってくれてありがとう。靴のブランドなんて、私全然わからなくて」


 満面の笑みで彼女が言う。その笑顔は、いつだって僕の心臓に小さなマラソンを強いる。たとえ、そのゴールテープを切るのが僕ではないと分かっていても。


「ああ。靴選びを間違えたら、最初のキャンプ地に着く前に足がボロボロになるからな。槍沢のルートで、お前をおんぶして歩くなんて御免だぞ」


 僕は平坦な声で返し、心の防壁を死守しようとした。


 店内に入ると、ゴアテックスの生地と新しい革の匂いが僕たちを迎えた。僕はすぐにテクニカルシューズの棚へと向かう。槍ヶ岳の岩場に耐えうる、剛性の高い靴の並ぶ場所だ。


「朱莉、これを見てみろ。ソールが硬くて、岩場向きだ。お前にとって、これが一番安全だと思う」


僕は、無骨で濃いグレーの登山靴を指し示した。


朱莉は歩み寄ってきたが、その瞳は僕の差し出した靴には向いていなかった。彼女はふらりと別のコーナーへ歩いていく。そこには、もっと彩りの鮮やかなライトトレッキングシューズが並んでいた。


「江戸君、これはどうかな? 綺麗な紺碧色こんぺきでしょう?」


 彼女が手に取ったのは、夏空のように鮮やかなブルーの、軽量なマウンテンランニングシューズだった。


 僕は眉をひそめる。「槍には薄すぎる、朱莉。足首の保護も全然足りない。なんで、それなんだ?」


 朱莉はその青い靴の表面を、愛おしそうに撫でた。その眼差しは、僕には決して向けられることのない熱を帯び、どこか遠くを見つめている。


「海斗……あの子、この色が大好きだったの」


 自分自身に言い聞かせるような、小さな呟きだった。


「もし自分が色になれるなら、空の青になりたいって。そうすれば、いつでも上からみんなを見守っていられるからって、あの子言ってた。……この靴を履いていれば、道中で海斗が疲れた時、私の足元を見て、また元気が湧いてくるかもしれないでしょう?」


 ドクン、と心臓が跳ねた。


みぞおちに巨大な岩を落とされたような衝撃が走る。僕は、機能的で、安全で、頑丈なグレーの靴を持ったまま立ち尽くしていた。まるで、このグループにおける僕の立ち位置そのものだ。僕は彼らを安全に導く者。僕はコンパス。僕は地図。


そして海斗は、朱莉の人生における「彩り(いろ)」なのだ。


「……でも、安全じゃない。朱莉」


 怒りよりも、胸の苦しさを抑えるために声が震えた。「山は、誰かの好きな色なんて気にかけてはくれない。山が気にするのは、お前に準備ができているかどうかだけだ」


 朱莉は僕を見上げた。その瞳は潤んでいたが、意志は固かった。


「わかってるよ、江戸君。でも、海斗にとって、この旅は無事に頂上へ行くことだけが目的じゃないのかもしれない。……自分が愛したものを眺めながら、残された時間をどう過ごすか。それが大事なんだと思うの」


結局、彼女はその青い靴を買った。僕はもう、反論しなかった。


 店を出ると、僕は彼女の一歩後ろを歩いた。彼女の小さな背中と、青い靴の入った紙袋を見つめながら。僕は、片想いよりも残酷な事実に気づいてしまった。


山に行けば、僕の仕事は道を教えることだけじゃない。朱莉が海斗を見つめ続けられるように、僕は支え続けなければならないのだ。一方で僕は……一度も振り返ってくれることのない朱莉の背中を、ただ見つめ続ける。


 僕はただの地図だ。そして地図というものは、目的を果たせば、折り畳まれてザックの暗がりに仕舞われる運命なのだから。


「最後までお読みいただきありがとうございます。次回の更新は明日、22:00を予定しております。また明日お会いしましょう!」

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