第2R 岡田厩舎
午前3時。厩舎の朝は早い。
午前5時から始まるトレーニングに向けて所属競人をはじめ厩舎関係者があわただしく動き始める。
まず、厩務員による身体のチェックが行われる。各担当の厩務員によって身体の状態や違和感の有無、前日の水分摂取量など事細かな情報が記録される。その後、トレーニンググループごとに分かれてミーティングを行うのだ。
涼風は着替えを済ませタケさんの待つ部屋へ向かった。
「おはようございます。」
部屋へ到着した涼風が挨拶をすると、タケさんが別の競人のチェックを始めていた。厩務員は通常二人の競人を担当しており、この人物がもう一人の担当競人のようだ。
「よっ。新人。よく眠れたか?大志だよろしくな。」
「涼風です。よろしくお願いします。」
涼風は大志の雄大な体躯に一瞬身をこわばらせたが、気さくな返事を受けて胸をなでおろした。
「そんなに体に力入ってたら一日持たないぜ。気楽にいこうや気楽に。」
かしこまった表情で挨拶をする涼風に満面の笑みを浮かべる大志。
大志(牡5歳)は”2勝クラス”に在籍している。大柄な身体を持ち面倒見の良い性格で岡田厩舎のリーダー的な存在だ。競走に挑む競人には気の荒いものも少なくはないが、この大志にはまるでそのような素振りは見られないのである。
ここで、競走のクラスについて簡単に触れておく。競走は初出走・未勝利クラスから始まり1勝クラス、2勝クラス、3勝クラス、オープンクラスというふうに分かれている。また、オープンクラスのうち格式の高いレースは重賞と呼ばれ、最高峰のG1競走を筆頭にG2競走、G3競走という具合に細分化されている。このG1競走の優勝を目指して競人本人も含めてすべての関係者がしのぎを削るのである。
「涼風君、君の番だよ。」
タケさんに促され涼風はチェックに入る。
「筋肉も柔らかく保っているね。身体にズレも見られない。良い状態だね。」
タケさんは手際よく涼風の身体をチェックしていく。この道30年近くになるのだろか、さすがの腕前である。
「二人とも異常は見られないようだからミーティングルームへ移ろうか。二人は同じグループだよ。」
タケさんによる身体チェックを終え涼風達はミーティングルームへ向かう。大志と同じグループということが分かり涼風は安堵した。
ミーティングルームへ到着すると岡田調教師と二人の競人、それぞれの担当厩務員、それと調教師の補佐役として調教助手がいた。
「よし。全員揃ったな。今日から涼風が加わるからな。」
岡田の紹介とともに涼風は一礼をした。
「涼風です。よろしくお願いします。」
「桜です。こちらこそよろしく。」
「広道です。よろしくお願いします。」
桜(牝3歳)はオープンクラスに在籍している。小柄な女性ですらっとした長い脚と銀色の髪の毛が特徴的だ。2歳時にG1競走で2着になった実績を持つ強豪である。
広道(牡2歳)は涼風と同じ2歳で、一昨日岡田厩舎に入厩した。オーナーは大手生産場の北野グループで前評判はなかなかのものだそうだ。
メンバーと一通り挨拶を終えた後ミーティングが始まった。トレーニング内容や注意点の確認が丁寧に進められていく。厩舎の整理整頓具合といい岡田という人間は相当に几帳面なのである。
ミーティングを終えメンバーとトレーニングを開始することとなった。
岡田厩舎では本メニューの前後に行われる前運動と後運動が名物となっている。集団で時間をかけてしっかりと走り込むのだ。ウォーミングアップが一次的な目的ではあるが、涼風達のような新人にとっては基礎体力の向上と集団での走り方を学ぶ大切なトレーニングなのだ。一般の人間で例えるなら、中学校を卒業したばかりの人が大学生や社会人の選手と一緒に走るということだ。その大変さは想像に難くないだろう。
「そのうち慣れてくるさ。」
大志は肩で息をしている涼風と広道をしり目に、まるで歩いてかのように平然と足を進めるのであった。
一時間が過ぎたころ。
「よし。前運動はこの辺で終わりだ。本メニューに入るぞ。」
大志の掛け声で前運動が終わった。大志はうなだれている涼風と広道に意地悪な笑顔を向ける。
「それじゃ、私は調教師のところに戻るね。」
ミーティング内容の通り、桜は三人に声を掛け厩舎へ戻って行った。
本メニューでも岡田厩舎では集団で走ることを徹底している。大志、涼風、広道の三人は横並びの隊列をしっかりと維持しながらコースを回ってくるのだ。
涼風は育成センターでは一番評価の高いグループでトレーニングを行っていたが、やはり同世代同士で行うトレーニングと現役の競人と一緒に行うトレーニングでは強度がまるで違うのだ。
必死で喰らいつきながらやっと本メニューが終わった。涼風も広道もへとへとだ。
「二人ともなかなか良い走りだったぞ。それじゃ、後運動に行こうか。」
「いやぁ、やっぱり現役の大志さんと走るのはキツイです。」
「ははは。最初は誰でもそんなものだ。心配するな、そのうち慣れるさ。」
そう言って大志は涼風と広道を伴って後運動に向かっていった。
一時間ほどで後運動は終了した。
「ご苦労さん。」
厩舎に到着するとタケさんが迎えてくれた。それと同時に手際よく身体のチェックをはじめる。
「初日だから疲れただろ。勝手がわかってくる頃には基礎体力もついてくるから焦らないことが大切だよ。」
タケさんに心の中を見透かされ、涼風は愛想笑いを返すしかなかった。
「涼風、広道。食事が終わったら疲労をとる運動を教えてやるからリカバリールームに集合な。」
競人のトレーニングは調教師から出されるメニューでけではない。トレーニング後は自由時間となるためその時間を使って各自で自主トレーニングや身体のメンテナンスを行うのだ。
大志からの声掛けを受け食事を終えた涼風と広道はリカバリールームに向かった。
「桜さんは何で別メニューなんだろうね。」
涼風はふと思い出したように広道に尋ねてみる。
「桜か?」
後ろから大志の声がした。大志もちょうど部屋に到着したところだったようだ。
「そこに出走記録があるだろ、それを見れば別メニューの理由がわかるさ。」
6月 2歳新人競走 1着
7月 2歳オープン競走 2着
7月 函館2歳競走(G3) 5着
8月 2歳オープン競走 3着
9月 札幌2歳競走(G3) 2着
10月 東京2歳競走(G3) 4着
11月 東京2歳牝競走(G3) 2着
12月 阪神2歳牝競走(G1) 2着
1月 中山3歳牝競走(G3) 5着
2月 東京3歳牝競走(G3) 1着
3月 中山3歳競走(G2) 8着
4月 桜花賞3歳牝競走(G1) 7着
驚愕だった。すでに12レースを消化しているのだ。成長期の16歳や17歳(競走年齢では2歳、3歳)において現在では考えられない厳しいレース間隔だ。
「桜は前運動を終えた後は専任の調教助手と個別のメニューをこなしているのさ。まともにメニューをやってたら身体がいくつあっても足りないからな。」
「桜さんはG1に出走するための条件もしっかりとクリアしているのに何で休みなく出走してるんですか?」
涼風は食って掛かるように大志に聞き返す。
部屋の外を確認し、少し考えた後に大志は口を開いた。
「オーナーの都合だ。本業が傾いちまったから桜の賞金をあてにしているのさ。」
涼風は納得がいかなかった。
「岡田調教師は何とも言わないのですか?」
「調教師も再三出走を見直すように伝えているさ。それでも桜は出走を重ねているんだ。」
珍しく大志は苛立ちを覚えているようだ。これは、涼風に対してではない、自分たち競人の置かれている立場を考えるとどうしても飲み込みがたい現実があるからなのである。
「涼風、俺たち競人はオーナーの所有物だ。それは理解しているな。」
「・・・はい。」
「ならこれ以上は何も言うな。みんな辛くなっちまう。」
大志は冷静さを装いながら涼風をなだめるように言った。
「すいません。つい・・・。」
「よしっ。トレーニング、トレーニング。」
少し寂し気ながらやさしい声で大志は涼風達を促す。
涼風達は大志の指導を受けながら、一時間ほどかけて入念にストレッチや関節の可動域のチェックなどを行った。
「先にタケさんのマッサージを受けてくるから涼風も後でマッサージルームに来いよ。」
そう言い残して大志はタケさんのもとへ去って行った。
「広道君ごめんね。驚かせたね。」
「ううん。大丈夫だよ。」
「分かってはいても現実は厳しいんだね。」
「そうだね。」
「そうだよね。」
「うん、そうだよ・・・。」
二人きりとなった部屋で、涼風と広道はやりきれない気持ちで空虚な会話を一時間ほど続けていただろうか。
「俺、そろそろ行くね。」
「ぼくも、そろそろ行くよ。」
涼風と広道はお互いにそう言うと部屋を後にした。
マッサージと夕食を終えた涼風は自室のベッドに横たわり大志の言葉を思い返しながら考えていた。
―オーナーの所有物―
生まれてから今日に至るまで何不自由なく育ってきた。もちろん、競人として何不自由なくという意味ではあるが。生産場でも育成センターでも、そしてこの関東トレーニングセンターでも関係する人々はみな温かく接してくれる。それは、自分たちが高価な所有物であるからなのだろうか。上辺だけの温かさなのだろうか。
触れてはいけない何かに触れ、頭の中で思考がぐるぐると回る。暗い現実に直面しながら涼風は眠りにつくのであった。




