第1R 関東トレーニングセンター
競人(競走用人種)。それは、人権を持たず他人の所有物として競走を目的に生産・育成される人間である。
競走とは各地にある競走場で行われる法律で定められた賭博の一つであり、最高峰のG1競走では10万人を超す観客動員も記録される人気の娯楽なのだ。近年ではアニメやソーシャルゲームで若年層や女性の間にも人気が広がっており投票券売り上げは右肩上がりである。
競人は人間ではあるが競走のために生産されるため学校には通わない。幼少期は生まれた育成場などで基礎体力を付けるトレーニングを行い、12歳になると地域にある育成センターで本格的なトレーニングをはじめ競走の基礎を身に着けるのだ。
また、競人はセリなどを通して人の所有物となる。12歳から15歳の間は活発に取引が行われ、良血と呼ばれる優秀な血統を持つ者には億を超える値が付くこともしばしばあるのだ。したがって、競人は非常に丁寧に扱われ不自由なく(自由な行動は制限されているが。)生活をしているといえる。
ただ、競人としての価値があるという注釈は忘れてはならない・・・
圏央道を走る一台の車。鼻の脂を窓にべったりとこびりつけながら初めて見る本州の景色を楽しそうに眺める青年がいた。
「まだ4月なのに桜が満開だね。」
運転手に話しかける彼の名は涼風。競人(競走用人種)である16歳の青年だ。
登録名 涼風号(牡2歳)
登録名とはオーナーがJHRA(中央競走人種協会)に届け出をする名前で、出生時に呼ばれている名前とは異なるいわばリングネームのようなものだ。もっとも、涼風は出生時から涼風でありオーナーによってはこういったこともあるのだ。そして、登録名の右に表記された2歳という年齢は競走年齢と呼ばれるもので、全ての競走人種は15歳の1月1日を迎えると競走年齢1歳となり、以後1月1日を迎えるごとに1歳ずつ加算される。学年のようなものと考えていただければよいだろう。
涼風は北海道の日高地域にある小さな家族経営の生産場で生まれた。幼少期から活発な性格で育成センターでの評判も高く、14歳のときにオーナーである越輝に600万円で落札された。小生産場での生まれとしてはなかなかの評価額である。
越は新潟競走場オーナー会の会員で、長年競人を所有しているが、まだ大きなレースに勝利した経験は
ない。越にとって涼風は念願を叶えるために落札した特別な競人なのだ。その後、涼風は越の期待通りの成長過程を歩み、無事に競走登録を終えたのである。
車は圏央道から降りて一般道を進む。少し経つと道をまたいで横断幕が掲げられているのが見えてきた。
”檸檬号フェブラリーステークス優勝おめでとう”
ここは茨城県美浦村。地域を挙げて関東トレーニングセンターに所属する競人を祝福してくれているのだ。
それから数分と立たないうちに車は関東トレーニングセンターに到着した。
「ありがとう運転手さん。」
涼風はいつも通りの人懐こい笑顔で運転手に挨拶をする。すると運転手も笑顔で手を振って見送ってくれるのであった。
「岡田厩舎を探さないとな。」
涼風の所属は岡田厩舎だ。関東トレーニングセンターにおける中堅どころで、G1競走の優勝も複数あり腕は間違いない。もっとも、調教師である岡田は職人気質な性格も相まって営業が下手で、大手生産場である北野グループ出身の競人の所属が少ないことが中堅に留まる一つの要因となっている。なぜなら、JHRAのG1競走優勝者の9割以上を北野グループ出身者が占めるほどに生産場の格差は大きいからだ。
競人の生産は主に北海道で行われている。その中において、『北野グループかそれ以外か』と言われるほど北野グループの存在は大きい。涼風の生まれたような中小の生産牧場は自前では十分な育成設備が整えられないことがほとんどで、地域の育成センターを借りてトレーニングを行うことが一般的だ。しかし、北野グループは自前で充実した育成設備を持っており、生まれた時から一貫してトレーニングを積むことができる。これが圧倒的な競走成績の格差につながっているのだ。
逆説的にとらえれば、小中生産場出身者が大半を占める岡田厩舎のポテンシャルはなかなかのものだということだろう。
そうこうしているうちに涼風は岡田厩舎の入り口に立っていた。
「こんにちはー。今日からお世話になる涼風です。」
ものおじしない性格の涼風は威勢よく叫んだ。
「おっ。よく来たな。」
恰幅の良い無精ひげを生やした男性が快く迎えてくれた。
「俺が岡田だ。」
「初めまして。涼風です。」
涼風は元気よく頭を下げた。
「はははっ。お前は俺と会うのは初めてだったな。だが、俺はお前が6歳の時から見てきてる。順調にここまで成長してくれて嬉しいぞ。」
岡田は涼風の生産場の主人と同級生で涼風のできが良いことを主人から聞かされており、オーナーとなる越に涼風を紹介して購入をすすめ、自分の厩舎に預けてもらったということらしい。その縁もあって涼風は幼少から慣れ親しんだ名前で登録されているのだ。
「長旅で疲れたろ。お前の部屋を用意してあるからタケさんに案内してもらいな。」
そういうと岡田は大きな声でタケさんなる人物を呼び寄せた。
「はじめまして。涼風です。よろしくお願いします。」
すらっと背の高いタケさんと呼ばれる男性に涼風は一礼する。
「はじめまして。多家です。担当厩務員をさせてもらいます。よろしく。」
柔らかな物腰でタケさんは涼風に会釈した。
「早速、部屋へ行こうか。」
「おねがいします。」
涼風はタケさんの案内で部屋へ向かう。厩舎のトレーニング器具はどれも整然と並べられ手入れが行き届いている。廊下の壁に掛かったホワイトボードには所属者ごとに事細かくトレーニングメニューが書き込まれていた。新しい環境に珍しく気後れした涼風は、タケさんの後ろにぴったりと張り付いて歩くのであった。
「岡田はね見た目こそあんな感じだけど仕事に関しては関東トレセン随一だと私は思っているよ。長旅で疲れただろうから今日はゆっくりしなさい。」
部屋の前へ到着するとタケさんはそう言うと優しく微笑んで去って行った。
部屋は一人部屋でベッドと机が置いてあるだけの簡素なものだが、ベッドに敷かれたパッドは名前に聞き覚えのある有名なものだった。これは岡田のこだわりの一つらしい。
ほどなくして荷物を片付け終わった涼風は、これから始まる岡田厩舎での生活を考えながらベッドに横たわった。




