104 近づく影
マナは計量を終えたあと、予熱が完了したオーブンの前で、ほんの一瞬だけ足を止めた。
目の前のオーブンに視線を向ける。
無機質なステンレスの扉。
店で使い慣れたものとは、微妙に違う空気をまとっている。
(……いつもと違う)
肌で感じる、わずかな違和感。
(お店のオーブンより、火が強い気がする……)
マナは扉の温度を手のひらで確かめるように近づけ、静かに息を吐いた。
すぐに頭を切り替え、ダイヤルに手をかけ、設定温度を微調整する。
いつもより10℃下げ、焼き時間も2分短く設定する。
けれど、経験がそう告げていた。
「……これで大丈夫…」
小さく呟き、桃の甘露煮を使った生地を、慎重にオーブンへと滑り込ませた。
扉を閉める音が、静かに響く。
すぐに背を向ける。
次の工程へ。シンクへ移動し、使い終えたボウルや器具を手際よく洗い流す。
水の音が、規則正しく流れていく。
泡を落とし、水気を切り、定位置へ戻す。
台に戻ると、アルコールを含ませた布で作業台を丁寧に拭き上げる。
無駄な動きは一つもない。
ピーピー、と電子音が鳴る。
マナはすぐに反応し、オーブンの前へ戻った。
扉を開け、ゆっくりと中を覗き込む。
立ち上る熱気。
表面は、綺麗な焼き色を帯びている。
(やっぱり、このオーブン上火が強い……)
見た目だけなら、焼き上がっているように見える。
だが——
マナは慎重に手を伸ばし、そっと生地の端に触れた。
指先に伝わる、わずかな柔らかさ。
(……まだ早い)
内部の火の通りを、指先の感覚で判断する。
すぐにアルミホイルを手に取り、生地の上へとふんわりとかぶせる。
これ以上、表面に焼き色がつきすぎないように。
(あと2分……)
一瞬の思考。
迷いは、すぐに決断へ変わる。タイマーを再設定する。
(焦らない……)
(焦らない……)
自分に言い聞かせるように、ゆっくりと息を整えた。
——時間は、まだある。
審査員たちが何度か背後を通り過ぎる。
視線が向けられていることも、気配で分かる。
それでもマナは、一度も手を止めなかった。
余計な意識を排除する。
今やるべきことだけに、集中する。
桃のコンポートを取り出し、薄く、均一にスライスしていく。
一枚一枚、丁寧に重ねていく。
繊細な薔薇の形を作り上げていく。
完成したそれを、崩さないよう慎重に持ち上げ、冷凍庫へと収める。
扉を閉めると、すぐに次へ。
桃のムースを仕込み、温度を見ながら丁寧に混ぜる。
ゼリー液も透明感を保ったまま、滑らかに仕上がっていく。
すべてが、順調だった。
桃のケーキの土台は、静かに、しかし確実に完成へと近づいていく。
マナは手元の時計に視線を落とした。
——残り時間、問題ない。
(……よし)
小さく息を吐く。
胸の奥に溜まっていた緊張が、わずかにほどける。
完成した土台を両手で支え、そっと冷蔵庫へと収めた。
扉を閉める。
その瞬間。
ふっと、肩の力が抜けた。
張り詰めていた糸が、ほんの少しだけ緩む。
(いけるかもしれない)
そう思えた——その瞬間だった。
——背後に、気配。
空気が、変わる。
「……順調そうだな」
低く、粘りつくような声が、耳元で落ちた。
マナの指先が、ぴたりと止まる。
一拍遅れて、心臓が大きく跳ねた。
どくん、と重い音が胸の奥で響く。
ゆっくりと、振り向く。
視線を動かすことすら、わずかに重い。
すぐ、横。
逃げ場のない距離に——立っていた。
雅ホテルの吉村シェフ。
その目は、笑っていない。
まるで、値踏みするように。
じっと、マナを見下ろしていた。
続く




