105 手の震え
マナは、土台のケーキの上の細工の組み立てに取りかかった。
本来なら、最も神経を使う工程。 繊細で、わずかな力加減でバランスが崩れてしまう。
——なのに。
集中しようとするほど、意識の端にある影が入り込んでくる。
視界の横。 ほんの数十センチ先。
吉村シェフが、動かない。
腕を組み、ただ——見ている。
値踏みするような、冷たい視線。
(……気にしない)
自分に言い聞かせる。
けれど……。
『女だからって泣いて許されると思うなよ!』
——耳の奥で、怒鳴り声が蘇る。
あの厨房。 あの空気。
あの、逃げ場のなかったホテルの厨房。
胸の奥が、すっと冷える。
(怖い……)
言葉にならない感情が、喉の奥で引っかかる。
飴のパーツを持つ指先に、わずかな違和感が走る。
——震えている。
(……昔の事を思い出してしまう)
ぎゅっと指に力を込める。
(大丈夫……集中……)
呼吸を整えようとする。
ゆっくり、吸って——吐く。
シュガークラフト、マジパンのパーツを組み立てて行く。
それでも。
視線が、刺さる。
脳裏に、別の光景がよぎる。
——雅ホテル、屋上のゴミ捨て場。
『全部調べろ! 見つかるまで帰ってくんな!!』
冷たい雨。 濡れたゴミ袋の匂い。 指先にまとわりつく、不快な感触。
「——っ」
現実に引き戻される。
土台のケーキに飴細工を組み立て始めた時だった。
指先が、ぶれる。重ねていた飴のパーツが、ほんのわずかに傾いた。
——その一瞬。
「あっ……」
パリン。
乾いた音が、静まり返った会場にやけに大きく響く。
飴で出来たはしごのパーツが床に、散る。
時間をかけて作り上げた繊細な細工が、 無残に、砕けて転がった。
「あ……」
思考が、真っ白になる。
拾わなきゃ。片付けないと……。
分かっているのに——
手が、動かない。
——バクン、バクン、バクン……。
心臓の音だけが、やけに大きく響く。
呼吸が、浅い。
うまく、息が吸えない。
(どうしよう……)
胸の奥がざわつき、足元が揺れる。
そのとき。
視界の端に、時計が入った。
予定していた時間は、すでに過ぎている。
現実だけが、容赦なく進んでいく。
吉村シェフが、すっと動いた。マナのすぐ横を通り過ぎる。
一瞬だけ、足を止める気配。
そして——
低い声で吐き捨てるように。
「やっぱりな……お前は変わってないな」
くく、と喉の奥で笑う。
わずかに顔を寄せて、
「恥でもかいて帰るといい」
冷たい嘲りを残して、立ち去っていった。
続く




