最強スライム、友の死亡届を破棄する
役所の入口には、槍を持った石像が二体立っていた。
中へ入ると、長い椅子が並んでいた。
その奥に窓口。
窓口の向こうに、山積みの書類。
壁には、何だかよく分からない説明書き。
私は少し感動した。
異世界だ。
異世界なのに、役所だ。
「何のご用件ですか」
「友達が生きてることにしてほしいです」
案内係のおばさんは、私とミナを交互に見た。
「死亡記録の訂正ですね。三番へどうぞ」
話が早い。
こういう相談、ほかにもあるんだ。
◇
三番窓口にいたのは、袖口にインクの染みがある男の人だった。
歳は四十くらい。
机の端には冷めたお茶と、食べかけのパンが置かれていた。
「戸籍係のローデンです。ご本人は?」
「こっちです」
私は体を伸ばして、ミナを示した。
ミナが椅子に座る。
私は隣の椅子によじ登った。
机が見えなかった。
少し伸びた。
まだ見えなかった。
もっと伸びた。
ローデンさんは無言で、空の木箱を椅子に置いてくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
この町、いい人が多い。
ローデンさんは、エダさんからもらった紙を読み、棚から帳面を持ってきた。
「リュゼ村のミナさん。死亡日は八日前。死因は……山神への奉献」
ミナの膝の上で、指が重なった。
「実際には、亡くなっていないわけですね」
「はい」
「山へは?」
「行きました」
「戻ってきた?」
「……はい」
ローデンさんはペンを持った。
「では、まず死亡日の時点で生存していたことについて、事情を伺います」
「話、通じる!」
「まだ何もしていませんが」
「生きてる証拠に死んでみてください、とか言われるかと」
「誰が得をするんですか、それは」
私は木箱の上で、丸くなった。
役所に対して、ちょっと失礼だった。
◇
ミナは、ゆっくり話した。
村の井戸に、山の毒が混ざり始めたこと。
神殿の人が来て、竜の怒りを鎮めなければならないと言ったこと。
くじで、自分が選ばれたこと。
「くじ?」
私は思わず聞き返した。
ミナは頷いた。
「家ごとに、一枚ずつ」
ローデンさんのペンが、一瞬止まった。
「それから?」
「送り衣を着せてもらって、お別れをしました。山へ登って……」
ミナの声が小さくなる。
私は手の形を作って、膝の上に伸ばした。
ミナが握った。
「竜は、私を要らないと」
「求めてない、って意味だからね」
そこは訂正したかった。
ミナは私を見て、少しだけ頷いた。
「ひまりが、助けてくれました」
今度は、私が話した。
アルジェントは生贄など頼んでいなかったこと。
山の毒はもう止まっていること。
護衛の男がミナの腕をつかみ、短剣を抜いたので、私が止めたこと。
ローデンさんは最後まで聞いてから、言った。
「あなたは、現場にいた証人ということですね」
「そうです」
「お名前を」
「小日向ひまり」
「年齢は」
「十七歳です」
ペンが動いた。
私は少し迷った。
「……と、三千年くらい」
ペンが止まった。
「くらい?」
「途中で数えるのが雑になって」
ローデンさんは、私を見た。
私も見返した。
やがて彼は、紙に何か書き足した。
逆さまだけど読めた。
『年齢不詳』
初めて年齢を申告した結果が、それだった。
◇
話だけで全部終わるわけではなかった。
同じ名前の別人かもしれない。
誰かが身分を乗っ取ろうとしているのかもしれない。
だから本人かどうかの確認が必要だという。
「出生時の記録に、魔力紋が残っています」
ローデンさんが出してきたのは、薄い灰色の石板だった。
「生まれたときに採った、ごく小さな魔力の跡です。成長で多少変わりますが、本人なら中心の模様が一致します」
指紋みたいなものらしい。
ミナが手を置くと、石板に淡い光が浮かんだ。
細い枝が、輪を描くように広がっている。
ローデンさんは、帳面に貼られた紙と見比べた。
「一致していますね」
ミナの肩が、少し下がった。
「じゃあ、これで?」
「生きているご本人が来たことは確認できました。次に、元の届けを出した者への確認と、訂正の決裁です」
「何日くらい?」
「通常なら数日。ただ、今回は——」
廊下で、靴音が止まった。
「その必要はない」
ミナの手が、強く縮んだ。
振り返る前に分かった。
山で、短剣を抜いた男だった。
◇
男は鎧ではなく、灰色の上着を着ていた。
胸には、銀色の輪の飾り。
腰には剣。
私が溶かしたのとは、別のやつだ。
隣に、白い法衣を着た細い男が立っていた。
「神殿護衛のガルドだ。その娘については、こちらから届けを出している」
ローデンさんは椅子を引き、ミナと二人の間に立った。
「どのような届けですか」
「奉献の儀を妨げ、娘を連れ去った魔物の件だ」
ガルドは私を指さした。
「そいつだ」
私は自分を見た。
今日も、青くて丸い。
「連れ去ってないよ。一緒に来たの」
「娘に取り憑き、操っているのだろう」
「独立採算だってば」
昨日から、立場の説明が難しい。
ガルドがミナへ手を伸ばした。
「来い。神官殿が、お前を清めてくださる」
私はミナの前に移った。
伸ばされた指が、私に触れる直前で止まった。
山でのことを思い出したらしい。
賢い。
「受付の途中です」
ローデンさんが言った。
「話があるなら、順番に伺います」
「神殿の問題だ」
「市の住民記録の問題でもあります」
ローデンさんは、机の上の小さな鐘を鳴らした。
ほどなく、廊下に衛兵が二人来た。
ガルドの口元が歪んだ。
「人間の言葉を話す魔物だぞ。何を仕込まれているかも分からん」
その言葉に、細い神官が初めて口を開いた。
「でしたら、切り離して確認しましょう」
◇
案内されたのは、窓のない小部屋だった。
床に円が描かれている。
円の周囲には、細かい文字。
いかにも魔法っぽい。
神官は銀の棒を取り出した。
「これは、外からの魔力の干渉を遮る結界です。娘さんには円の中へ入ってもらいます」
ミナが私を見た。
「大丈夫?」
私が聞くと、彼女は神官の顔を見てから頷いた。
「……一人でも、話せる」
その声は小さかったけれど、さっきよりはっきりしていた。
私は手を離した。
ミナが円の中へ入る。
神官が棒を床につけた。
白い光が立ち上がった。
途端に、ガルドが叫んだ。
「今だ! 魔物の方も封じろ!」
私の足元にも、別の円が光った。
なるほど。
そういうことをする。
白い鎖が何本も伸び、私を包んだ。
衛兵が動きかけたけれど、間に合わなかった。
私は反射的に、鎖を食べた。
全部。
床の光が消えた。
壁の灯りも消えた。
隣の部屋から、「あっ」という声がした。
ローデンさんが、暗闇の中でため息をついた。
「建物の魔石につながっているんです、それ」
「……ごめんなさい」
反射だった。
三千年かけて身についた食習慣は、そう簡単に直らない。
◇
窓のある部屋へ戻った。
神官は椅子に座ったまま、自分の銀の棒を見つめていた。
ガルドは顔色が悪かった。
私も、たぶん悪かった。
青いけど。
問題は、壊した設備を弁償できるかどうかだ。
所持金、銅貨四枚。
最強スライム、初めての債務。
「魔石は割れていません。魔力が空になっただけです」
確認に行った衛兵が言った。
「補充すれば使えます」
「私、できます!」
私は全身を持ち上げた。
ローデンさんが、じっと私を見た。
「少しだけですよ」
「はい」
「本当に、少しだけ」
「はい」
針の先くらいの体を伸ばし、運ばれてきた魔石に触れた。
ほんの少し。
木の実一粒より、ずっと少なく。
魔石が白く輝いた。
灯りが戻った。
廊下の奥で、誰かが拍手した。
よかった。
破産は免れた。
◇
「では、確認を続けます」
ローデンさんは、何事もなかったように椅子へ戻った。
強い。
この人、私より落ち着いている。
神官は棒を机に置いた。
「干渉を遮る結界は、数秒ですが作動していました」
「娘さんに、変化は?」
「ありません。元から、他者に操られているときの反応も出ていませんでした」
ガルドが神官を見た。
「しかし——」
「なかったものは、なかったと申し上げています」
神官は目を合わせなかった。
少なくとも、そこまで話を合わせるつもりはないらしい。
ローデンさんがミナに向き直った。
「ミナさん。こちらの人たちと、帰ることを希望しますか」
「しません」
すぐに返事があった。
私の体が、少し揺れた。
「山へ行くことは、自分で望みましたか」
「……いいえ」
ガルドが椅子を鳴らした。
「村を救うために、皆が——」
「いまは、ご本人に聞いています」
ローデンさんの声が、初めて硬くなった。
ミナは膝の上で手を握った。
「怖かったです」
その言葉のあと、部屋が静かになった。
「行きたくなかった。でも、逃げたら、父と母が村にいられなくなると」
私はガルドを見た。
食べようとは思わなかった。
ただ、椅子ごと山のてっぺんへ置いてきたいと思った。
かなり具体的に。
「誰に、そう言われましたか」
ミナは顔を上げた。
指はささなかった。
ガルドを見て、言った。
「その人です」
◇
ガルドは立ち上がった。
「生贄を戻さなければ、竜の怒りを買う。何か起きたとき、責任を取れるのか!」
「竜は怒ってないって」
「魔物の言葉が証拠になるものか!」
「じゃあ、何を見たら信じるの」
「竜本人でも連れてくるんだな!」
私は、少し黙った。
体の中にある銀の鱗を、前へ出した。
アルジェントにもらったものだ。
困ったら砕け、と言われている。
来る前に、まず起きるらしいけど。
「起こしていい?」
ガルドが口を閉じた。
神官が、椅子を倒しかけた。
「それを、どこで」
「本人にもらった」
銀の鱗は、私の中で淡く光っていた。
神官の棒の先が、かたかた鳴っている。
窓の外で、馬がいなないた。
私は慌てて鱗を奥へ戻した。
普段は私の体が、魔力を抑えていたらしい。
「呼ぶなら、町の外にするけど」
「待ってください」
ローデンさんが額を押さえた。
「住民記録の訂正に、竜を呼ばないでください」
「でも、この人が」
「呼ばなくて結構です」
ガルドも、今度は何も言わなかった。
◇
そのあと、話は意外なところから動いた。
「ガルド殿」
ローデンさんが、最初の帳面を開いた。
「この死亡の届けに、立会人として署名したのは、あなたですね」
「……そうだ」
「ですが、先ほどの説明では、儀式は妨げられた」
ガルドは黙った。
「ミナさんが亡くなるところを、確認しましたか」
「奉献された者は、村では死者として——」
「村の慣習ではなく、死亡確認について伺っています」
ローデンさんの指が、署名のある場所を押さえた。
「確認していませんね」
長い沈黙のあと、ガルドが頷いた。
私の体から、少し力が抜けた。
こんなに強くなっても、待っている間は緊張するらしい。
ローデンさんは別の紙に何か書き、衛兵へ渡した。
「この方の話は、別室で。神官殿にも、届けの作成経緯を伺います」
ガルドは私たちを一度だけ見た。
ミナは俯かなかった。
私の手を握ったまま、男が部屋を出ていくまで見ていた。
◇
昼を少し過ぎた頃、ミナの死亡記録は訂正された。
本人の魔力紋が一致したこと。
死亡を確認した者がいないこと。
届けの立会人が、それを認めたこと。
ローデンさんは、その三つを説明してくれた。
「村の方には、訂正の通知を送ります。ただし、あなたの宿泊先を教える必要はありません」
ミナが顔を上げた。
「父と母には……生きていると、伝わりますか」
「はい」
「それなら、お願いします」
ローデンさんは頷き、最後の紙に判を押した。
赤い印が、白い紙に残る。
それだけのことだった。
雷も落ちなかった。
奇跡の光も差さなかった。
でも、ミナはその紙を両手で受け取った。
落としたら割れてしまうものみたいに。
「ありがとうございます」
声が震えた。
ローデンさんは、少しだけ目を細めた。
「なくしても、記録は残ります。大事にしすぎなくて大丈夫ですよ」
◇
「お会計は?」
帰る前に、私は聞いた。
「届けの訂正なので、今回はかかりません」
神はいた。
袖にインクの染みがあった。
「ただ、建物の魔力設備についてですが」
神はいなくなった。
私は小さく縮んだ。
「何か、壊れてました?」
「いえ。補充していただいた魔力が、半年分ほどありまして」
「……多かった?」
「少し」
少しの基準が難しい。
ローデンさんは、机の端にあるパンをようやく手に取った。
「係の者が、継続的な納入について相談したいそうです。今日はもうよいので、後日、斡旋所を通して」
私は膨らんだ。
「お仕事?」
「お仕事です」
魔力に、購買力が生まれた。
◇
役所を出ると、ミナは石段の上で止まった。
手元の紙を見る。
名前を指でなぞる。
それから、胸に抱いた。
「ひまり」
「うん」
「私、働いていいんだね」
「うん」
「宿に、名前を書いていいんだね」
「うん」
ミナは鼻をすすった。
「明日のこと、決めていいんだね」
私は、すぐには答えられなかった。
代わりに体を伸ばして、彼女の手を包んだ。
町の鐘が鳴っていた。
昼ごはんの匂いがした。
昨日見たパン屋で、今日も誰かが買い物をしている。
「まず、今日のこと決めよう」
私が言うと、ミナは濡れた目でこちらを見た。
「今日?」
「お昼、何食べたい?」
ミナは少し考えた。
ほんの少しだけ遠慮して、それから言った。
「……甘いパン」
「いいね」
所持金は、銅貨四枚。
今日は手数料がかからなかった。
なら、使い道は決まっている。
◇
買ったのは、小さな蜂蜜パンを二つ。
一個、銅貨一枚だった。
噴水の縁に並んで座り、ミナが包みを開いた。
ちぎったパンから、まだ少し湯気が出た。
「明日は、針仕事を探してみたい」
ミナが言った。
「エダさんに聞いてみよう」
「うん」
それから彼女は、私の分のパンをじっと見た。
「ひまり。ゆっくり食べてみて」
「ゆっくり?」
「昨日、一瞬だったから。少しずつの方が、味が分かるかも」
私はパンの端だけを取り込んだ。
すぐに溶かさず、薄く包む。
表面の蜂蜜が、少しずつ体に混ざった。
甘かった。
昨日より、はっきり。
「あ」
「分かる?」
「甘い」
ミナが笑った。
私はもう一口、ゆっくり取り込んだ。
三千年。
温かいとか、魔力が濃いとか、ぴりっとするとか。
そんなものばかり食べてきた。
いま、銅貨一枚のパンが、びっくりするくらいおいしかった。
「ね、ひまり」
「うん」
「明日も、一緒に食べよう」
私は頷いた。
明日も。
その次の日も。
できれば、もっと先まで。
とりあえず、そのために。
「午後は、もう一件お掃除しようか」
「私も手伝う」
私たちは残りのパンを食べて、立ち上がった。
私は、立ち上がった感じに伸びた。
ミナが笑ったので、もう少し伸びた。




