最強スライム、入場料が払えない
山を下りて三日目。
私は、異世界で初めての町を前にしていた。
高い石壁。
大きな門。
荷馬車の列。
そして、風に乗って漂ってくる、焼いた肉の匂い。
完璧だった。
異世界の町として百点満点だ。
あとは冒険者ギルドに登録して、簡単なお仕事でお金を稼いで、おいしいものを食べればいい。
三千年の下積みを終えた私に、もう怖いものなどない。
「入場料、一人銅貨三枚」
あった。
◇
「……ミナさん」
「はい」
「お金って、お持ちだったりします?」
ミナは申し訳なさそうに首を横に振った。
そりゃそうだ。
生贄に財布を持たせる人はいない。
私も無一文だった。
体内にあるのは、アルジェントの鱗と、道中で拾ったきれいな石と、ミナがくれた木の実が二つ。
あと、山脈を滅ぼせるくらいの魔力。
購買力にすると、最後のやつがいちばん役に立たない。
「物々交換とかは?」
門番のおじさんは、私を見下ろした。
それからミナを見た。
「しゃべるのか」
「今さら?」
「いや。さっきから、娘さんが腹話術でもやってるのかと」
ミナが真面目な顔で首を振った。
「ひまりは、自分でしゃべります」
「ひまり」
「私です」
体の端を持ち上げて挨拶すると、おじさんは顎をかいた。
「使い魔なら、飼い主が責任を持つことになってるが」
「独立採算でやってます」
「だったら一人分だな」
私は震えた。
感動だった。
この人、私を人数に数えてくれる。
「払いたい……!」
「払ってくれ」
正論だった。
◇
結局、私たちは門の脇によけた。
ミナが、町の中をちらりと見る。
道中で分け合った果物だけでは、育ち盛りの人間には足りない。昨日から歩く速さが落ちていた。
私が運ぶと言っても、ミナは遠慮した。
一度だけ背中に乗せたら、勢い余って林を三つ飛び越えたせいだと思う。
調整はした。
二度目の申し込みは断られた。
「ひまり。私、あちらで仕事を探してきます」
ミナが指さしたのは、門の外に並ぶ荷馬車だった。
「荷物を運ぶくらいなら、できると思うので」
「一緒に行こう」
「でも——」
「私もお腹すいた」
本当はすいていなかった。
あと千年くらい、食べなくても平気な気がする。
でも、ミナだけを働かせて、自分は石の上でぷるぷるしているわけにはいかない。
私たちが立ち上がろうとしたとき、荷馬車の方から怒鳴り声がした。
「だから、それを通すわけにはいかんと言ってるんだ!」
「腐ってるんじゃない! 移ったのは匂いだけだ!」
御者台の横で、小柄なおばさんが別の門番と言い争っていた。
馬車には木箱が山積みになっている。
一つだけ蓋が開いていて、中には黄色い果物が詰まっていた。
おいしそうだ。
ただし、箱の隙間から紫色の煙が出ている。
食品としては、不安になる演出だった。
「夜の間に、沼イタチが荷台へ入り込んだんだよ。追い払ったときに一発やられただけで、実は傷んでない!」
「その匂いで市場に入られたら困る」
「川で洗ったんだ!」
「川の下流から苦情が来てる」
かなり強い。
私は馬車に近づいた。
ミナが鼻を押さえる。
「ひまり、そっちは……」
私には、匂いというより味で分かった。
空気に、薄くぴりっとしたものが混ざっている。
試しに少し吸ってみた。
うん。
薄い。
びっくりするくらい薄い。
「おばさん」
「今、忙し——何だい、あんた」
「その匂い、取れたら銅貨六枚もらえる?」
◇
おばさんの名は、ベルタさんといった。
「六枚でいいのかい?」
「二人分の入場料がほしいの」
「取れたら払うよ。ただし、果物を溶かしたら弁償だからね」
「了解」
私は荷台へ上がった。
体を薄く広げて、木箱の隙間へ流し込む。
「ちょ、ちょっと!」
ベルタさんが悲鳴を上げた。
木箱十六個を包んだところで、私は気づいた。
そうか。
普通は、スライムが食べ物にまとわりついたら嫌か。
「大丈夫。食べないから」
「信用できる見た目じゃないんだよ!」
私は慎重に、匂いのもとだけを取り込んだ。
果物の皮。
木箱の継ぎ目。
敷き藁。
荷台の板。
どこに染み込んでいるか、触れば分かる。
地下深くの毒を追いかけるのに比べれば、教室で落とした消しゴムを探すより簡単だった。
最後に馬の尻尾についた分も吸って、元の大きさに戻った。
「終わり」
ベルタさんは、恐る恐る箱に顔を寄せた。
果物を一つ取り、嗅ぐ。
隣の箱も嗅ぐ。
自分の袖も嗅ぐ。
「……あたしのは残ってる」
「あ、ごめん」
袖に触れて、吸った。
ベルタさんは黙った。
そして、果物を一つ割って、門番に半分押しつけた。
「食べな」
「俺が?」
「あたしも食べる」
二人は顔を見合わせてかじった。
汁が指を伝った。
ミナのお腹が鳴った。
ベルタさんが振り向いた。
ミナは真っ赤になった。
私はちょっとだけ体を揺らして、自分のお腹が鳴ったことにできないか試した。
無理だった。
「……あんたたち、いつから食べてないんだい」
◇
銅貨は十二枚もらえた。
約束の倍だった。
「馬車まできれいにしたからね。洗浄代込みだ」
それから、果物を二つ。
私は受け取った銅貨を体内にしまった。
青い体の中で、茶色い硬貨がきらきら光る。
初任給だ。
三千年にして、初任給。
もっと胸を張りたかったけれど、胸がなかったので、全体を少し高くした。
ミナは果物を両手で持っていた。
「……おいしい」
小さな声だった。
もう一口かじる。
飲み込んでから、こちらを見る。
「ひまりも」
私は自分の分を持ち上げた。
体に取り込むと、皮も種も一瞬で消えた。
甘い、ような気がした。
でも、それより、ミナが次の一口を遠慮しなくなったことがうれしかった。
◇
入場料を払うと、門番のおじさんは木の札を二枚くれた。
「日が暮れたら門は閉まる。泊まるなら、宿で名前を書いてもらえ」
「はーい」
「それと、お嬢ちゃん」
おじさんはミナを呼び止めた。
「その服、裏返した方がいいぞ」
ミナの肩が跳ねた。
白い服の裾には、銀の糸で小さな模様が縫われていた。
山で会ったときから着ていた服だ。
「神殿の送り衣だろう。それで歩くと、面倒な勘繰りをするやつがいる」
ミナは裾を握った。
おじさんは、それ以上聞かなかった。
「町に入ったら、右手に古着屋がある」
私はお礼を言った。
門をくぐりながら、ミナの手に触れた。
少し冷たかった。
◇
町の名前は、トルカ。
通りには布のひさしが並び、その下に野菜やパンや金物が積まれていた。
人がいた。
たくさんいた。
値切る人。
怒る人。
笑う人。
走って叱られる子ども。
私は何度も止まった。
そのたび、ミナも待ってくれた。
「疲れた?」
「ううん」
パン屋の前で、女の子がお母さんの袖を引いていた。
二つほしいと言っている。
一つだけ、と返されている。
それでも諦めず、両手の指を一本ずつ立てて見せる。
私はそれを、ずいぶん長く見ていたらしい。
ミナが、そっと私を抱き上げた。
「この方が、見やすい?」
「……うん」
高くなった視界の先に、道が続いていた。
どこまでも、人の暮らす道だった。
◇
古着屋では、茶色い上着と紺のスカートを買った。
合わせて銅貨四枚。
残り二枚。
私の分は買わなかった。
帽子を勧められたけれど、かぶると完全に帽子だけが歩いているように見えたので諦めた。
ミナは白い服を丁寧に畳み、店でもらった袋にしまった。
「捨てなくていいの?」
聞いてから、少し後悔した。
ミナは袋を見つめた。
「母が、縫ってくれたので」
「……そっか」
嫌な役目のための服にも、お母さんの縫ったところがある。
私はその袋を、代わりに持った。
◇
宿は、一番安いところでも二人で銅貨八枚だった。
夕食付きだと十二枚。
世知辛い。
無敵になるまで三千年。
無敵になってから、金欠二回目。
「やっぱり、安定収入が必要だね」
「安定収入?」
「毎日ちゃんと、ごはんが食べられるお仕事」
ベルタさんに教えてもらった仕事の斡旋所は、市場の裏手にあった。
剣を背負った人もいれば、籠を持ったおばあさんもいる。
掲示板には、文字の書かれた木札が並んでいた。
護衛。
荷運び。
屋根の修繕。
薬草の採取。
これこれ。
こういうのを待っていた。
私は受付の台によじ登った。
「登録お願いします!」
眼鏡をかけた女性が、ペンを止めた。
「……使い魔の登録は、向かいの窓口です」
「自営業希望です」
◇
受付のエダさんは、話の早い人だった。
自分で意思表示ができるなら登録できる。ただし、仕事を請けるには、できることを確かめる必要があるという。
「何が得意ですか」
「毒を食べること。汚れを取ること。あと、たぶん戦えます」
「戦闘の審査は週明けです。清掃でしたら、いま確認できます」
私は用意された銅板の錆を取った。
続いて、油まみれの歯車。
最後に、焦げついた鍋。
鍋が出てきたときだけ、エダさんの目が少し真剣になった。
「縁のところも、お願いできますか」
「はい」
「取っ手の裏も」
「はい」
ぴかぴかにして返すと、エダさんは深く頷いた。
「登録を認めます」
「最後の、私物じゃない?」
「登録を認めます」
私は職を得た。
職種は、清掃だった。
思っていた異世界冒険と、ちょっと違う。
でもまあ、いい。
人を助けて、お金がもらえて、ミナとごはんを食べられるなら、十分だ。
「同行者の方も登録しますか?」
エダさんが聞いた。
ミナはしばらく迷ってから、頷いた。
「読み書きはできます。計算も、少し。針仕事も」
「お名前は」
「リュゼ村の、ミナです」
エダさんのペンが止まった。
◇
空気が変わったのが分かった。
エダさんは立ち上がり、棚から薄い帳面を取った。
ページをめくる。
指で一行を押さえる。
それから、ミナを見た。
「ご家族のお名前を、伺っても?」
ミナは答えた。
父親と、母親の名前。
エダさんは帳面を閉じなかった。
「……こちらの記録では、あなたは七日前に亡くなっています」
ミナの手が、袋を握りしめた。
中に入っているのは、白い服だ。
私は台の上で、少し前へ出た。
「生きてるよ」
「ええ。見れば分かります」
エダさんは声を落とした。
「ただ、死亡の届けが出ている人に、新しく仕事の登録をすると、照会が入るんです。村か、届けを取りまとめた神殿へ」
「照会されると?」
「事情を確認する人が来ます」
ミナの呼吸が浅くなった。
山で、短剣を向けられたときと同じだった。
私は、あの男たちを止められた。
剣も魔法も、怖くなかった。
でも、目の前の帳面のどこを溶かせばいいのかは、分からなかった。
そんなことをしても、ミナは安心しない。
「ミナ」
呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「どうしたい?」
「……迷惑を、かけたくない」
「うん。でも、どうしたい?」
返事を待った。
後ろで誰かが椅子を引いた。
外から、荷車の車輪が鳴る音がした。
ミナは俯いたまま、小さく言った。
「戻りたく、ない」
「分かった」
私はエダさんを見た。
「この子を、死んでないことにするには、どうすればいい?」
エダさんは、しばらく私を見つめていた。
やがて帳面を閉じ、別の紙を一枚取り出した。
「役所で、死亡届の訂正を申し立てられます。まずは本人確認からですね」
「分かった。やる」
「簡単には済まないかもしれませんよ」
「時間はあるよ」
三千年も待ったのだ。
友達が、自分の名前で働けるようになるまでくらい、待てる。
ミナが私の体に触れた。
今度は、少し温かかった。
◇
その日は、斡旋所の裏にある倉庫を掃除した。
報酬は銅貨十枚。
エダさんが紹介してくれた宿は、事情を聞かずに泊めてくれた。
小さな部屋だった。
ベッドが一つ。
椅子が一つ。
窓が一つ。
夕食のスープには、豆と、薄い肉が入っていた。
ミナは最後の一滴まで飲んだ。
私は空になった器をきれいにしようとして、止められた。
「ひまりも、休んで」
「疲れてないよ」
「それでも」
だから、その夜は何もしなかった。
ベッドの端に乗り、ミナが眠るまで話した。
好きな食べ物。
村にいた犬。
私が通っていた学校。
「学校って、毎日行くの?」
「そう。で、友達と話して、授業受けて、帰りに寄り道したりする」
「楽しそう」
「うん」
小テストも、早起きも、面倒なことはあった。
でも、いま思い出すのは、帰り道だった。
「楽しかったよ」
やがて、ミナの寝息が聞こえ始めた。
私は窓辺へ移った。
町には、まだ明かりがあった。
こんな時間まで起きている人がいる。
壁の向こうには誰かがいて、通りの向こうにも誰かがいる。
それが不思議で、うれしかった。
明日は役所。
最強になって初めて挑む相手としては、かなり手ごわそうだった。
私は体の中から銅貨を取り出し、一枚ずつ並べた。
残り、四枚。
書類にお金がかからないことを、心から祈った。




