第7話
結論から言えば、逃げられなかった。
学院の中央広間を抜ければ、もう正面玄関は目前だった。
あと少し。
あと少しで外へ出られる。
そう思ったところで、セシルが突然足を止めた。
「待って」
「え?」
彼の視線を追い、私も立ち止まる。
正面玄関の前に、一人の男が立っていた。
「……アルベルト」
第一王子アルベルト。
クラウスに剣で薙ぎ払われたためか腕が変な方向に曲がっている。
どうしてここに、と考える間もなく、別の方向から足音が聞こえた。
柱の陰から現れた姿を見て、胸が締めつけられる。
「クラウス……」
もう完全に感染していた。
焦点の合わない濁った目でこちらを見ながら、それでも剣だけは手放していない。
さらに、背後の大階段から何かが降りてくる。
「エリオットまで……」
さっき神聖力で吹き飛ばされたはずのエリオットだった。
三方向から、三人の攻略対象が私たちを囲むように近づいてくる。
「何で全員いるのよ!」
乙女ゲームなら攻略対象三人が同じ画面に揃うなんて豪華なイベントだ。
でも嬉しくない。
今は全員ゾンビだ。
「僕の後ろにいて」
セシルが私を庇うように前へ出る。
両手を広げると、眩い光が中央広間いっぱいに広がり、私たちを包むように半透明の壁を作った。
近づいていた三人が一斉に足を止める。
「すごい!」
やっぱりセシルは強い。
このまま結界で三人を押し返して、正面玄関まで走れば逃げられる。
ところが、セシルはアルベルトを見つめたまま動かなかった。
「……待って」
「何?」
「彼ら、まだ魂が残ってる」
「え?」
「完全に死んでいるわけじゃない」
嫌な予感がした。
ものすごく嫌な予感が。
「もしかしたら、浄化できるかもしれない」
「やめた方がいい!」
「でも、このまま置いてはいけないよ」
「こういう時の『助けられるかもしれない』は絶対ろくなことにならないから!」
私の必死の訴えにも、セシルは困ったように微笑んだ。
「それでも、助けられるかもしれない人を見捨てることはできないよ」
「セシル!」
やっぱり神官!
そういうところ!
セシルは結界を維持したまま、アルベルトだけを光の帯で拘束した。
動きを封じたことを確認すると、ゆっくりと近づいていく。
「本当に気をつけてよ!」
「大丈夫。僕を信じて」
アルベルトの前に立ち、その額へ手をかざす。
「神よ、この者に残された魂を守り、その身を蝕む穢れを――」
眩い光がアルベルトを包み込んだ。
今まで獣のように唸っていたアルベルトの身体から力が抜けていく。
「効いてる……?」
「うん。反応してる」
セシルがさらに神聖力を強めると、アルベルトの唸り声が完全に止まり、俯いたまま動かなくなる。
「やった?」
思わず期待した。
セシルもそう思ったのだろう。
拘束していた光が、ほんのわずかに緩んだ。
その瞬間だった。
アルベルトが顔を上げた。
「セシル!」
私が叫ぶより早く、アルベルトがセシルの腕に噛みついた。
「っ!」
「いやあああ! だから言ったのに!」
セシルが咄嗟に神聖力を放ち、アルベルトを吹き飛ばす。
「セシル! 見せて!」
「大丈夫。落ち着いて」
「大丈夫じゃない!」
袖をめくると、腕にはくっきりと歯形が残っていた。
見覚えがある。
嫌というほど見覚えがある。
「治すから!」
私はすぐに傷へ神聖力を使った。
クラウスの時と同じように傷口は塞がり、歯形も綺麗に消えていく。
でも。
クラウスの時と同じなら――。
「セシル……」
「大丈夫。僕なら神聖力で抑えられる」
「それ、絶対駄目なやつ!」
「え?」
「エリオットも自分なら平気だと思ってた!」
「僕は彼とは違――」
言葉の途中で、セシルの身体が大きく揺れた。
「セシル?」
「……これは」
自分の身体に起きている異変を確かめるように、セシルが胸元を押さえる。
「ぐっ! うっ、ぅ……」
「セシル!」
セシルは苦しそうに荒く呼吸を始めた。
(もう、こうなったらこれしか……!)
私は手を前に組んで、天に祈りを捧げた。
(どうか神様、セシルをお守りください!)
私に残された手段は、神頼みしかなかった。
このゲームの世界には神聖力があるのだから、本当に神様がいるかもしれない。
神官であるセシルを助けてくれるかもしれない。
それに賭けるしかなかった。
やがてセシルの苦しそうだった呼吸が静まった。
(神様に祈りが届いた……?)
期待に胸を膨らませ、彼がゆっくりと顔を上げるのを見守る。
祈りもむなしく、セシルの穏やかな緑色だった瞳は、白く濁っていた。
神はいなかった。
「嘘……」
それでもセシルは、いつもの優しい笑みを浮かべた。
「……どうやら、本当に永遠にあなたと一緒にいられそうだ」
「いやあああああ!」
最後の希望だったセシルまで、ゾンビになった。




